第二十一話 朱の一振り
父が戻ったのは、夜になってからだった。
馬の足音が聞こえた時、朱音は稽古場にいた。
十番刀を振っていた。九番刀と十番刀が昨日届いていた。十番刀はまだ手に馴染んでいなかった。新しい刀はいつも最初だけ少し違う感触がある。使い込むうちに馴染む。馴染むまでの間、丁寧に扱う必要があった。
馬の音が止まった。
父が屋敷に入った気配がした。
稽古を続けた。
止まる理由がなかった。父が戻ったからといって、すぐに顔を出すことを、この男は望まないと思った。報告を聞いて、食事をして、落ち着いてから動く男だった。
一の構えを繰り返した。
三段構えの最初の動作だけを、百回繰り返す練習だった。今日のアカデミーでの授業の後半に、一の構えから踏み込む時の右足の角度に違和感を感じていた。ほんの少しのずれだったが、三段構えが連鎖する時に蓄積するずれだった。
繰り返しながら、角度を探した。
何十回目かで、正しい角度が見つかった。
体がそれを知っていた。頭で考えるより、繰り返している間に体が答えを出した。前世でもそうだった。考えすぎると体が硬くなる。繰り返していると体が柔らかくなる。
扉が開いた。
父だった。
稽古着に着替えていた。自分も稽古をするつもりで来たのか、それとも着替えただけなのかは分からなかった。
「続けろ」
父が壁際に立った。
朱音は続けた。
一の構えの繰り返しを、父の前でも変えなかった。今日の課題をやり続けた。華やかな技を見せる場面ではなかった。地味な反復練習を、ただ続けた。
父は何も言わなかった。
しばらく見ていた。
「右足の角度を探しているか」
「ええ」
「見つかったか」
「今夜、見つかりましたわ」
「見せろ」
朱音は踏み込んだ。
さっき見つけた角度で、右足を出した。
父が見ていた。
「そこだ」
それだけ言った。
正解だということだった。父の目には、どの角度が正しいかが見えていた。剣士として何十年も動いてきた目が、一瞬で判断した。
「議会のことを、お聞きになりましたかしら」
「お前が聞くか」
「セバスチャンから報告を受けましたわ」
「そうか」
父は壁際に立ったまま、腕を組んだ。
いつもの姿勢だった。
「ありがとう存じますわ、お父様」
令嬢語変換が来た。
来たが、今回は変換前とほぼ同じだった。ありがとうは、ありがとうだった。どう変換されても変わらない言葉だった。
父は答えなかった。
しかし腕を組んでいた姿勢が、少し変わった。肩が下りた。議会でのことが終わったという、体の変化だった。
「封印は、今日は止まりましたわね」
「保留だ。止まったわけではない」
「ええ、分かっておりますわ」
父が朱音を見た。
「怖いか」
今日、同じことを聞いた人間が何人かいた。フィーナが聞いた。母が似たことを言った。父も聞いた。
「怖いかどうかと、どうするかは別ですわ」
父は少し間を置いた。
「お前の母に似ている」
「よく言われますわ」
「あれは褒め言葉だ」
朱音は父を見た。
父がイレーナを褒めるのを、直接聞いたのは初めてだった。
「お父様はお母様のことを」
「稽古を続けろ」
話が終わった。
朱音は続けた。
三段構えの連鎖を、今度は止めずに流した。一の構えから二の構えへ、二の構えから三の構えへ。父が見ている前で、止めずに流した。
父は黙って見ていた。
重心が動いていた。朱音の動きを追って、無意識に体が反応していた。
「監視が来ている」
父が言った。
「七名、確認しておりますわ」
「増えるかもしれない」
「マルガレーテが記録しています」
父は頷いた。
「黒薔薇を増員する。十二名から二十四名に」
「よろしいですかしら。費用が」
「構わん」
短かった。
費用の話を一言で切った。娘の安全に費用の話を持ち込むことを、この男は好まなかった。それがよく分かった。
「ありがとう存じますわ」
「もう一つ」
「はい」
「ゴルドから手紙が来ていた」
朱音は少し止まった。
「素材の件ですかしら」
「ミスリルを使うと言っている」
ゴルドが動いていた。
来訪の際に相談したいという手紙から、もう一歩踏み込んでいた。ミスリルを使うという方向で、すでに考えが進んでいた。
「お父様はどうお思いになりますか」
「費用は構わん」
また一言だった。
「ただし」と父は続けた。「ゴルドが必要な素材を調達できるかどうかが問題だ」
「ゴルドに任せますわ。あの職人は、問題があれば解決してから報告してくる人間ですわよ」
父が少し目を細めた。
「ゴルドをよく見ているな」
「最初の発注の時から、そういう職人だと分かりましたわ」
「そうか」
父は壁際から離れた。
稽古場の中央に来た。
「一度、合わせてみるか」
朱音は止まった。
父と稽古をしたことは、一度もなかった。鍵を渡してから二年間、並んで稽古をしたことがなかった。父は見るだけだった。今日初めて、合わせると言った。
「よろしくてよ」
父が構えた。
木剣を持たなかった。素手だった。
素手で構えた時の父の姿勢が変わった。普段の、静かな公爵の立ち方ではなかった。重心が落ちた。足の置き方が変わった。黒鉄公爵が、剣士として構えた時の立ち方だった。
前世で見た、本物の剣士の立ち方だった。
朱音は一の構えを取った。
「来い」
父が言った。
踏み込んだ。
一の構えから踏み込んで、二の構えに移行しようとした。
父が動いた。
移行する前に、動いていた。
二の構えへの移行の予備動作を読んでいた。予備動作が始まった瞬間に、その軌道を先読みして動いていた。
三の構えに繋げられなかった。
二の構えで詰まった。
父の手が、朱音の刀を持つ腕に触れていた。触れただけだったが、その触れ方が、三の構えへの移行を止める位置だった。
止まった。
「もう一度」
父が離れた。
距離を取った。
もう一度、一の構えから踏み込んだ。
また止められた。
今度は別の位置だった。踏み込みの最中に、父の重心が動いて、朱音の踏み込みの軌道そのものが狂わされた。軌道が狂えば、二の構えへの移行ができない。
「もう一度」
五回繰り返した。
五回全部、どこかで止められた。
止められた場所は毎回違った。父は毎回違う方法で、三段構えの連鎖を止めていた。
五回目が終わった後、父が話した。
「三段構えは止められる」
「どこで止まりましたかしら」
「予備動作だ。一から二に移行する時、二から三に移行する時、それぞれ予備動作がある。その予備動作を読めれば、連鎖を止められる」
朱音は考えた。
五回、止められた。止められながら、何が起きているかを観察していた。父が言った通りだった。予備動作があった。無意識の予備動作が、連鎖の前に出ていた。
「なくすことはできますかしら」
「ゼロにはできない。しかし小さくすることはできる」
「どうすれば」
「速くすることだ。予備動作の時間を短くすれば、読まれる前に次の段に入れる」
速くする。
単純な答えだった。しかし単純な答えほど、達成するのは難しかった。速くするために何をするかは、また繰り返すしかなかった。
「今夜、もう少しやりますわ」
父は頷いた。
壁際に戻った。
見ている気配があった。
朱音は十番刀を構えた。
新しい刀だった。まだ手に馴染んでいなかった。
しかし今夜の課題が一つ増えた。
予備動作を小さくすること。
課題が増えることは悪くなかった。
増えた分だけ、動く理由が増えた。
蝋燭の火が、稽古場を照らしていた。
父が壁際で腕を組んでいた。
朱音は構えた。
踏み込んだ。
今度は誰も相手にいなかった。空気を相手に、三段構えを流した。
予備動作を意識しながら。
小さくしようとしながら。
父の視線が、その動きを追っていた。
蝋燭の火が揺れた。
夜の稽古場で、父と娘が、言葉を使わずに向き合っていた。
前世ではなかった夜だった。
前世では一人だった夜が、今夜は一人ではなかった。
それだけが違った。
それだけが、今夜の全てだった。
窓の外に、監視の気配があった。
七名が、今夜もどこかにいた。
しかし今夜は、稽古場の中の方が大事だった。
十番刀を振った。
新しい刀が、蝋燭の光を反射した。
朱音はその光を見ながら、次の踏み込みを始めた。
まだ夜は長かった。




