第二十話 父の反論
翌朝、父は朝食の席にいなかった。
珍しかった。
ライナルト・フォン・クロイツェルは、朝食を欠かしたことがなかった。エルシアとしての記憶にも、転生してからの記憶にも、父が朝食の席にいなかった日は一度もなかった。
「お父様は」
マルガレーテに聞いた。
「夜明け前にお発ちになりました」
「どちらへ」
「王都でございます」
朱音は少し止まった。
朝食の席に座りながら、頭の中で昨夜の書類を広げた。
封印請願書。今日の午前中に提出されたと、セバスチャンから報告を受けた。父が夜明け前に王都に向かった。時間が合っていた。
父は昨夜のうちに知っていた。
知っていて、夜明け前に発った。
朱音は朝食を続けた。
フィーナが隣で「お父様どこ行ったんですか」と聞いてきた。「用事ですわ」と答えた。フィーナは「そうですか」と言って、パンを食べ始めた。
セバスチャンは何も聞かなかった。
知っているか、あるいは朱音が答えないと判断したかのどちらかだった。
朝食が終わった。
アカデミーへの馬車が出るまで、一時間あった。
朱音は母の部屋に向かった。
イレーナは朝から起きていた。
文机に向かって何かを書いていた。朱音が入っても、すぐには顔を上げなかった。書き終えてから顔を上げた。
「来ると思っていたわ」
「書類を読みましたわ」
「そう」イレーナは手紙を封筒に入れた。「お父様が出て行ったことも知っているでしょう」
「ええ」
「あの人らしいわね」
母が小さく笑った。
今回の笑いは、どの種類かを朱音は考えた。完璧な社交用ではなかった。困ったような、しかし誇らしいような、混じった笑いだった。
「議会に行ったと思いますかしら」
「間違いなく」
「お母様は、知っていたのですか。父が動くことを」
「知らなかったわ」とイレーナは言った。「でも驚かなかった。あの人は、娘に関わることには遅れない」
朱音は母を見た。
「遅れない、というのは」
「ヴァルターが生まれた時も、風邪を引いた時も、全部一番に知っていたわ。誰にも言わないけれど、一番に知っている。それがあの人のやり方なのよ」
朱音は少し考えた。
父が一番に知っていた。そして一番に動いた。夜明け前に王都に向かった。
「議会で、何を言うと思いますかしら」
「短く言う人だから」イレーナは封筒を机に置いた。「たぶん一言か二言だと思うわ」
「どんな言葉だと思いますか」
母は少し考えた。
「娘は剣士だ、とか。そういう言い方をすると思う」
朱音は黙った。
前世で、そういう言葉をかけられたことがなかった。
誰かが自分のために議会の場で立つということが、前世では起きなかった。前世の朱音には、そういう人間がいなかった。
「お母様は」
「なあに」
「今日は何をされますかしら」
「私はここで動くわ」イレーナは封筒を示した。「送る手紙が七通ある。今日中に全部届けさせる」
七通。
「どこへですかしら」
「三通はヴァレンシア家の縁者へ。二通はドラクロワ家へ。一通はシュタルク家へ。一通は」イレーナは少し間を置いた。「王家の中で、動いてくれそうな人への手紙よ」
王家の中に、動いてくれる人間がいた。
朱音は母の情報網の広さを改めて認識した。前世では一人で全部やっていた。情報も、判断も、行動も。この世界では、動いている人間がこれだけいた。
「アカデミーに行く前に、一つだけ聞かせてください」
「なんでしょう」
「この請願が通る可能性は、どのくらいだと思いますかしら」
イレーナは少し考えた。
母が考える時は、本当に考えていた。すぐに答えが出ない時だけ、実際に時間をかけた。
「今のままなら、五分五分よ」
「今のままなら、という条件付きですわね」
「条件を変えれば、変わる。あなたのお父様が議会で何を言うか。私の手紙に誰が動くか。アカデミーでのあなたの評価がどう広まるか。全部が絡む」
「全部を変えることはできませんわね」
「できないわ。でも一つずつなら変えられる」
朱音は立ち上がった。
「アカデミーに行ってきますわ」
「行ってらっしゃい」
扉に向かった。
「エルシア」
振り返った。
母が文机に向かいながら、振り返らずに言った。
「あなたは今日も、完璧な令嬢でいなさい。それがあなたにできる一番のことよ」
「分かりましたわ」
扉を閉めた。
父が王都の議会に着いたのは、昼前だったと後で聞いた。
貴族議会の定例会があった日だった。
請願書が提出されたことを受けて、ルミナール公爵が発言を求めていた。議場の空気は、請願に賛同する方向に傾きかけていた。署名が十四あった。五大公爵家からは一家だけだったが、発言力のある家が名前を連ねていた。
そこにライナルトが来た。
定例会への参加自体は予定されていなかった。夜明け前に出て、馬を飛ばして来た。
ルミナール公爵が請願の正当性を述べている最中に、ライナルトが立った。
議場が静かになった。
黒鉄公爵が立ったからではなかった。
あの男が、珍しく立ったからだった。
ライナルト・フォン・クロイツェルは、議会では滅多に発言しない男として知られていた。五大公爵家の当主でありながら、議会への出席は最低限で、発言はほとんどなかった。発言した時は、必ず短くて、必ず本質だけを言った。
その男が立った。
ルミナール公爵が発言を止めた。
議場が父を見た。
父は長い沈黙の後、口を開いた。
「我が娘は剣士だ」
それだけ言った。
議場がまた静かになった。
別の意味での静かさだった。
ルミナール公爵が「公爵、それは感情論であって」と言いかけた。
父が続けた。
「封印する前に、まず剣で語れ」
また止まった。
それで終わりだった。
父は座った。
議場に残った言葉が、しばらく浮いていた。
剣士への敬意を持たぬ者に、クロイツェルの娘は渡さない。そういう意味だと、議場の全員が理解した。
発言の内容として、政治的な議論の形にはなっていなかった。
しかしクロイツェル公爵が来て、あの言い方で言ったということが、内容より重かった。
議会の空気が変わった。
請願の方向に傾いていた空気が、止まった。
保留になった。審議継続ということになった。決着はつかなかった。
それが今日の結果だった。
セバスチャンが報告を持ってきたのは、アカデミーから帰った後だった。
朱音は報告を聞きながら、父が言ったとされる言葉を頭の中で繰り返した。
我が娘は剣士だ。
封印する前に、まず剣で語れ。
前世では一度も、誰かがそう言ってくれることはなかった。
前世の朱音を剣士と認めた人間はいた。しかし認めてそれを誰かの前で言った人間は、いなかった。
令嬢語変換が来る前に、目の奥が熱くなった。
六歳の体より、今の体の方が抑えられた。
しかし熱くなった。
「セバスチャン」
「はい」
「報告、ありがとう」
「はい」
「もう一つ聞きますわ。監視の人数に変化はありますかしら」
「現在七名のままです。変化はありません」
「分かりましたわ」
セバスチャンが下がった。
朱音は一人になった。
窓の外が夕方になっていた。
父がまだ王都にいるのか、もう戻る途中なのか、分からなかった。
戻ってきたら、何か言うべきか考えた。
たぶん、言わない方がいい。
この男は言葉より行動だった。言葉で返すと、逆に重くなる気がした。
別の形で返す方が、この男への返し方として正しかった。
どう返すかは、すぐに分かった。
稽古場で、今日より上手く動くことだった。
それだけだった。
それが一番、この男には届く返し方だと思った。
朱音は刀を手入れし始めた。
八番刀だった。柄の緩みをゴルドに確認してもらう前に、自分でできる手入れをした。
油を引いた。
刀身を布で拭いた。
鞘を確認した。
手を動かしながら、頭は静かだった。
今日、父が言った言葉の重さを、少しずつ飲み込んでいた。
前世では一人だった。
一人で夜の京を駆けた。一人で戦った。一人で消えた。
今は、父が議会で立った。
たったそれだけの違いが、こんなに重いとは、転生する前には思っていなかった。
刀の手入れが終わった。
立ち上がった。
稽古場に行く時間だった。
今夜も稽古をする。
父が言ってくれた言葉の重さに、剣で答えるために。




