第二話 令嬢の言葉が出てこない
翌朝、最初に気づいたのは光だった。
天蓋付きの寝台から差し込む朝の光は、前世の記憶にある夜明けとは似ても似つかなかった。京の夜明けは薄暗くて、冷たくて、生き延びたという安堵と次の夜への覚悟が同時に来るものだった。
ここの朝は、ただ明るい。
それだけで随分と違うものだと、朱音は天蓋を見上げながら思った。六歳の体は正直で、たっぷり眠ったあとの気怠さが心地よかった。前世では一度も味わったことのない類の気怠さだった。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
扉の向こうから侍女の声がした。
さて、と朱音は思った。
昨夜の確認事項が一つある。
口が言うことを聞くかどうか、もう少し詳しく調べておく必要があった。昨夜は混乱していたから正確に把握できなかった。落ち着いた状態で試してみれば、何かわかるかもしれない。
「どうぞ」
入れ、と言おうとした。
出てきたのは「どうぞ」だった。まあいい、意味は通じる。
扉が開いて、明るい赤毛の侍女が入ってきた。年は十四か十五、そばかすの散った丸顔で、クロイツェル家に仕えてまだ日の浅い顔だった。名はフィーナという。昨夜の誕生日の席でも給仕をしていた娘だ。
「おはようございます、エルシア様。今日はよいお天気でございますよ」
朱音は寝台から体を起こしながら、試してみることにした。
おはようさん、と言う。
「おはようございますわ、フィーナ」
駄目だった。
完全に変換された。一文字も残らなかった。
朱音は眉の内側だけを僅かに動かした。表情には出さない。前世から染みついた習慣だった。
フィーナが窓を開けながら「今日のご予定は午前中にお勉強、午後はお父様の稽古場の近くでお散歩とのことでございます」と言っている。
もう一度試す。
ああそうか、と言う。
「まあ、そうでしたの。ありがとう」
駄目だった。
変換の速度が異常に速い。言おうとした言葉が喉のどこかで捕まって、別の言葉に替えられて出てくる。痛みはない。違和感もない。ただ気づいたら別の言葉が出ている。
まるで、口が別の生き物になったようだった。
フィーナが着替えを手伝いながら、よく喋る。天気がいいこと、庭の花が咲き始めたこと、厨房で新しい菓子を作っていること。朱音はそれを聞きながら、頭の中で変換の法則を探っていた。
何が変換されて、何が変換されないのか。
どうぞ、は変換されなかった。ありがとう、も原形に近かった。しかしおはようさん、は完全に変換された。ああそうか、も同様だった。
つまり、荒っぽい言葉や砕けた言葉が変換される。
丁寧な言葉はそのまま通る。
(なるほど)
(そういう仕組みか)
着替えが終わった。フィーナが鏡の前に連れていく。映ったのは六歳の令嬢で、黒髪を綺麗に梳かされて、白いドレスを着せられていた。切れ長の目だけが、年齢に不釣り合いに鋭かった。
「とてもお似合いでございます」
フィーナが満足そうに言う。
朱音は鏡の中の自分を見た。
前世でも黒髪だった。切れ長の目も同じだった。違うのは顔に包帯がないことと、血の匂いがしないことと、この顔に似合う言葉が自動的に選ばれることだった。
試しに、黙れ、と言ってみた。
「まあ、フィーナ。少々お静かにしていただけるかしら」
変換された。
うるさい、と言ってみた。
「ご説明はよく分かりましたわ。ただ今は少し、静粛にしていただけると助かりますの」
変換された。しかもうるさいと言う状況でもないのに、謎の説明が追加された。
馬鹿か、と言ってみた。
「あら、少し整理してからお考えになってはいかがかしら」
変換された。丁寧になった上に、アドバイスまで付いた。
朱音は鏡の中の自分と目が合った。
完璧な令嬢の顔をしていた。目だけが、人斬りのままだった。
(これは長い付き合いになりそうだ)
諦めた。諦めるのは得意だった。前世から、どうにもならないことはどうにもならないと割り切る練習を、散々してきた。
フィーナが「エルシア様、朝食のご用意ができております」と言う。
「ありがとう。参りましょう」
今度は変換されなかった。丁寧な言葉だったからだ。
朱音は鏡から目を離して、部屋を出た。
廊下は広かった。天井が高かった。前世で住んでいた場所とは比べ物にならない広さだった。絨毯が敷いてあって、壁には絵画が掛かっていて、窓から見える中庭には確かに花が咲き始めていた。
歩きながら、朱音はこの体の重心を確かめた。
六歳だ。当然ながら重心が高い。足が短い。歩幅が狭い。前世の感覚で歩こうとすると、微妙にリズムが合わない。
剣を振れるようになるまで、どれくらいかかるだろう。
筋肉がない。骨が細い。腱の強度が足りない。前世で積み上げた技術の記憶はある。しかし技術を活かす体がまだない。記憶と体の間に、大きな溝があった。
(稽古をするしかない)
問題は稽古場だった。
父の稽古場があることは知っていた。クロイツェル公爵家に稽古場がないはずがない。しかし六歳の令嬢が父の稽古場に押し入るのは、どう考えても普通ではない。
どう切り出すか。
考えながら食堂に入った。
長いテーブルの上座に父が座っていた。無言で朝食を食べていた。母はまだ来ていなかった。兄のヴァルターが「エルシア、おはよう」と手を振った。
「おはようございますわ、お兄様」
完璧に変換された言葉を口にしながら、朱音は父の隣の席に座った。
父は新聞のようなものを読んでいた。視線を上げなかった。
朱音は朝食に手をつけながら、横目で父を見た。
ライナルト・フォン・クロイツェル。四十八歳。王国最強クラスと称される剣士。黒鉄公爵の異名を持つ男。昨夜、一瞬だけ何かを見たような目をした男。
どう見ても、話しかけにくい。
しかし朱音は前世から、話しかけにくい相手に話しかけることを、それなりにこなしてきた。要は度胸の問題だ。新選組の隊士と刃を交える度胸があるなら、父親に話しかける度胸くらいある。
「お父様」
父が新聞から目を上げた。
「稽古場を、使わせていただけますかしら」
沈黙だった。
父は朱音を見た。表情は動かなかった。何を考えているのか、まるでわからなかった。前世で刃を交えた新選組の剣士たちよりも、この男の内心の方が読みにくいかもしれないと朱音は思った。
兄が「エルシア、稽古場って、何するんだ?」と口を挟んだ。
「剣の稽古ですわ」
「剣?」兄の目が丸くなった。「エルシアが?」
「何か問題がございまして?」
「いや、問題はないけど……えっと、父上、どうするんですか」
父は答えなかった。
新聞に視線を戻した。
朱音はそれを見て、断られたのか承諾されたのか判断がつかなかった。前世ならここで「どっちだ」と聞き返すところだが、口が勝手に動く前に、朝食の続きに集中することにした。
パンが美味かった。これも前世では滅多になかった感覚だった。
朝食が終わって、午前中の勉強が始まって、昼食が来て、午後の散歩になった。
フィーナと中庭を歩きながら、朱音はずっと稽古場のことを考えていた。今夜、忍び込むか。見つかった時のことを考えると、さすがに令嬢語変換がどう働くか想像したくない。
部屋に戻ったのは夕方だった。
扉を開けたフィーナが「あら」と声を上げた。
扉の前に、鍵が置いてあった。
古い鉄製の鍵で、飾り気はなく、ただ重そうで、実用一点張りの作りだった。フィーナが「なんでしょうこれ」と首を傾げている。
朱音はその鍵を拾い上げた。
重かった。ずっしりとした重さがあった。
どこの鍵か、確かめるまでもなかった。クロイツェル家の稽古場の扉が、どんな形をしているか、エルシアとしての記憶の中にあった。
父は何も言わなかった。
言葉はなかった。
しかし稽古場の鍵が、娘の部屋の前に置いてあった。
朱音は鍵を握りしめた。
(言葉より雄弁な男だ)
褒め言葉として、そう思った。
「エルシア様、この鍵は……」
「稽古場の鍵ですわ」
「え、なんで突然」
「さあ」
「さあって……」
フィーナが困惑している。構わなかった。朱音はその鍵を自分の小さな手の中で転がしながら、今夜、日が落ちたら稽古場に行こうと決めた。
六歳の体がどこまで動くか、確かめなければならない。
技術の記憶はある。体の記憶もある。しかし実際に動かしてみなければわからないことがある。前世でもそうだった。どれだけ頭で理解しても、体が動かなければ意味がない。
窓の外で、日が傾き始めていた。
フィーナがまだ何か言っている。
朱音は鍵を机の上に置いて、窓の外を見た。
空が赤かった。
京の夕暮れに似ていた。似ていて、しかし違った。あの夕暮れには次の夜への緊張があったが、今夜の夕暮れには稽古場への期待しかなかった。
(悪くない)
朱音はそう思った。
それがこの世界での、最初の感想だった。




