第十九話 請願書の中身
その報告が来たのは、模擬戦の三日後だった。
夕食が終わって、自室に戻った直後だった。
セバスチャンが扉をノックした。入れ、と言う前に、ノックの仕方で普通ではないと分かった。いつもより一回多かった。緊急の報告がある時のノックだと、いつの間にか決まっていた。決めた覚えはなかった。自然にそうなっていた。
「入りなさい」
セバスチャンが入ってきた。
手に封筒を持っていた。封が破られていた。
「お読みください」
朱音は受け取った。
中の書類を出した。
写しだった。原本ではなく、誰かが書き写したものだった。筆跡がセバスチャンのものではなかった。別の人間が書き写して、セバスチャンの手に渡ってきた書類だった。
読んだ。
王家への請願書だった。
クロイツェル公爵家の令嬢、エルシア・フォン・クロイツェルが有する暗属性の魔力について、王家の管理下に置き、魔力を封印する措置を講じることを請願する。
その下に、署名があった。
ルミナール公爵。
魔法教会総主教。
他の名前が十二。合計十四の署名だった。
朱音は書類を最後まで読んだ。
読み終えて、机に置いた。
「いつ提出されましたの」
「本日午前中です。王家の受付記録に入っています」
「入手経路は」
「母上のヴァレンシア家の情報網経由です。イレーナ様がすでにご存知で、私に渡すよう手配してくださいました」
母が動いていた。
請願書が提出された日に、写しが手元にあった。それだけの速さで動いていた。
「署名の十二名の内訳は分かりますかしら」
「侯爵家が五家、伯爵家が四家、魔法教会の幹部が三名です。五大公爵家からはルミナール家のみです」
「シュタルク、ヴァレンシア、ドラクロワは入っていませんわね」
「はい。ただし中立という意味ではなく、まだ動いていないという意味かと思われます」
朱音はセバスチャンを見た。
十七歳の少年が、政治的な状況を正確に分析していた。中立と静観の違いを理解していた。
「よく分かりますわ」
「お母様の情報網から学んでいます」
そうか、と朱音は思った。
セバスチャンはイレーナとも連携していた。自分が知らないところで、母と従僕が情報を共有していた。
悪いことではなかった。
むしろ、そうあるべきだと思った。
「フィーナには」
「まだお伝えしていません。エルシア様のご判断を仰いでからと思いまして」
「伝えなくていいですわ。心配させるだけですので」
「承知しました」
セバスチャンが一礼した。
「もう一つ」
「なんでしょう」
「この写しの入手経路について、ルミナール家には知られていない可能性が高いですが、念のためご確認をお勧めします」
「お母様にお伝えしますわ」
「はい。それと」
「まだありますかしら」
「マルガレーテからの報告です。本日より、屋敷の周辺に見慣れない人間が確認されています。数は現在七名です」
監視が始まっていた。
請願書が提出されたのが今日の午前中で、同日から監視が始まっていた。計画的だった。請願書の提出と同時に、既成事実として監視を開始していた。
「分かりましたわ。マルガレーテに、監視の動きを記録するよう伝えてください。接触は今のところ不要ですわ」
「承知しました」
セバスチャンが出ていった。
扉が閉まった。
朱音は机の上の書類を見た。
写しだった。原本は王家にある。王家が受け取ってしまえば、なかったことにはできない。記録として残る。
数百年前の先祖と同じ書類が、今この机の上にあった。
イーダへの封印。クラーラへの封印。どちらも似たような経緯で始まったはずだった。請願があって、王家が受け取って、審議があって、執行された。
(また、同じだ)
しかし今回は違う部分がある。
この書類が手元に来るまで、一日もかからなかった。情報が届くということが、この世界にいる自分には違いとしてあった。
書庫の記録を読んだ時、イーダとクラーラに情報があったかどうかは分からなかった。情報がなければ、動きようがない。情報があって初めて、次の手を考えられる。
次の手を、考えた。
王家が請願を受け取った。次に審議が始まる。審議には時間がかかる。その間に何ができるかが、問題だった。
一つ目は、父が議会で動くことだった。クロイツェル家の当主として、娘の封印に反対する発言をすることで、賛成派の動きを一時的に止められる可能性があった。しかし父は言葉より行動の人間だった。議会の場で発言することを、どう受け取るかは分からなかった。
二つ目は、母がヴァレンシア家の情報網を使って、反対側の勢力に働きかけることだった。すでに動いている可能性が高かった。母はいつも、先に動いていた。
三つ目は、朱音自身が何かをすることだった。
三つ目の選択肢は、今の状況では限定的だった。十歳で、アカデミーの学生で、政治的な発言力はなかった。直接動ける範囲は狭かった。
できることは、剣を鍛えることと、アカデミーでの立場を確立することだった。
剣を鍛えれば、封印を実行しに来た者に対して、物理的に対抗できる。アカデミーでの立場を確立すれば、社会的な圧力を利用できる。
どちらも、時間がかかる手だった。
しかし今できることをやるしかなかった。
フィーナが扉をノックした。
いつものノックだった。
「どうぞ」
入ってきた。
「エルシア様、お茶をお持ちしました」
お茶だった。
夜のお茶だった。フィーナが気を利かせて持ってきたのか、セバスチャンが頼んだのかは分からなかった。
「ありがとうございますわ」
フィーナがお茶を机に置いた。
机の上の書類を見た。
写しだった。何が書いてあるかは、字が細かくて遠目には分からなかった。
「何か、難しい書類ですか」
「少しそうですわね」
「大丈夫ですか」
フィーナが朱音を見た。
心配していた。本当に心配していた。内容を知らないから、心配の種類は違ったが、心配していることは本物だった。
「大丈夫ですわ」
「ならよかったです」
フィーナが笑った。
安心した笑いだった。
朱音はお茶を一口飲んだ。
温かかった。
書類が机の上にあった。封印を求める書類が、机の上にあった。その横に、お茶があった。
前世では、こういう夜がなかった。
追い詰められた夜に、誰かがお茶を持ってくることがなかった。
「フィーナ」
「はい」
「怖いですかしら、最近」
フィーナが少し驚いた顔をした。
「えっと、何が、ですか」
「私の周りが、騒がしくなっているかもしれませんわ。これから先、もっと騒がしくなるかもしれない」
フィーナは考えた。
考えて、答えた。
「エルシア様の周りは、最初から騒がしかったですよ」
「そうでしたかしら」
「最初に会った時から、なんかすごい人だなって思ってました。怖い人たちと話しても全然動じないし、刀は何振りも作るし、夜中に稽古するし」
「それは騒がしいとは少し違いますわね」
「でも、落ち着かない意味では同じです」フィーナは続けた。「でも怖いかどうかと言えば、エルシア様の傍にいることは、怖くないです」
朱音はフィーナを見た。
「なぜですかしら」
「なんとなく、大丈夫な気がするんです。根拠はないんですけど」
根拠のない安心感だった。
前世では理解できない感覚だった。根拠のない安心感を持てる人間が、前世の朱音の周りには存在しなかった。根拠があっても安心できない夜の方が多かった。
「ありがとう存じますわ」
「どういたしまして」
フィーナが笑った。
それから「何かあったら言ってくださいね」と言って、部屋を出た。
扉が閉まった。
朱音はまた書類を見た。
封印を求める請願書の写しが、机の上にあった。
夜の静かな部屋の中で、一人で向き合っていた。
前世では、こういう書類を一人で見ることはなかった。書類がなかっただけで、追い詰められた状況は何度もあった。いつも一人で向き合っていた。
今も一人で向き合っていた。
しかし扉の外にフィーナがいた。廊下の端にマルガレーテがいた。母が今頃どこかで動いていた。父が明日には動くかもしれなかった。
一人で向き合っていたが、一人ではなかった。
書類を引き出しに入れた。
お茶の残りを飲んだ。
冷め始めていたが、まだ温かかった。
明日、父に話す必要があるかどうかを考えた。
父はすでに知っているかもしれなかった。この家の情報の回り方を考えれば、母が知っていれば父にも届いているはずだった。
知った上で、何も言わずにいる可能性が高かった。
この男は、言葉より行動が先に来る。
何かをするつもりがある時、それが完成するまで言わない。
(親父は何を考えているのか)
まだ読みきれていなかった。
二年間、稽古場で話をした。剣の話をした。しかしそれ以外の話はしていなかった。
政治の話を、父としたことがなかった。
必要な時が来たら、するのだろうと思っていた。
その時が来たかもしれなかった。
朱音は立ち上がった。
稽古場に行くつもりはなかった。
今夜は、考える夜だった。
窓の外に夜の空があった。
星が見えた。
監視の七名がどこかにいた。屋敷の周辺に、見慣れない七名が今夜もいた。
マルガレーテが記録しているはずだった。
明日、その記録を確認する。
それから父と話す。
順番を決めた。
決めた後は、眠れる。
前世でも、順番を決めると眠れた。決める前は眠れなかった。頭が動き続けた。決めた後は止まった。
寝台に横になった。
引き出しの中に書類があった。
封印を求める書類が、引き出しの中にあった。
(数百年前の先祖と同じ末路か)
同じではない、と思った。
同じではない理由が、今夜の部屋の中にいくつもあった。
お茶の温かさ。フィーナの根拠のない安心感。セバスチャンの一回多いノック。マルガレーテの記録。
全部が、前世にはなかったものだった。
目を閉じた。
眠れた。




