第十七話 採点拒否
翌朝の剣術実技は、午前中の最初の時間だった。
訓練場は屋外だった。
石畳の広い訓練場で、四方を建物に囲まれていた。風が抜けにくい構造だった。前世の道場に似た設計だったが、規模が違った。三十人が同時に動いても余裕がある広さだった。
学生たちが集まった。
特級クラスの十二名だった。五大公爵家の子弟が六名、侯爵家が四名、そして平民枠がカインを含む二名だった。
全員が木剣を持っていた。
朱音だけが刀を差していた。
ガルドが前に出た。
「今日は基本の確認から始める。構えを見せてもらう。一人ずつ前に出ろ」
一人ずつ、前に出た。
基本の構えを取って、踏み込みを見せて、戻る。それだけの確認だった。ガルドは各人の構えを短く評価した。良い点と悪い点を、端的に言った。感情的な評価ではなく、技術的な評価だった。それがこの教員の教え方らしかった。
レオンが前に出た。
光属性の魔力を剣に乗せた構えだった。剣が薄く光っていた。踏み込みが深く、速かった。
ガルドが「良い」と言った。
それだけだった。
カインが前に出た。
木剣の持ち方が、他の学生と少し違った。重心の位置を確認してから握っていた。踏み込みは浅かったが、軸がぶれなかった。
ガルドが「重心の確認が丁寧だ。踏み込みは後で直す」と言った。
エルシアの番になった。
前に出た。
木剣を持っていなかった。腰の刀を差したまま、前に出た。
ガルドが少し止まった。
「木剣ではなく」
「影抜きは抜刀を前提とした剣術ですので、木剣では構えの確認ができませんわ」
「刃がある刀を訓練場で抜くことは」
「では峰を上にして構えますわ。刃は相手に向きませんの」
ガルドは少し考えた。
それから「分かった、見せろ」と言った。
朱音は構えた。
右手を柄に添えた。
鞘に収めたまま、影抜きの基本構えを取った。
重心を落とした。足を肩幅に開いた。右足を半歩前に出した。全体の軸を体の中心に通した。
訓練場が少し静かになった。
ガルドが首を傾げた。
「その構えは」
「一の構えですわ」
「剣を持っていない」
「抜刀前の構えですの」
「抜刀前に構えるのか」
「抜いた時にはすでに斬り終わっている剣術ですので、抜く前の構えが全てになりますわ」
ガルドが黙った。
考えていた。
言われたことの意味を処理しようとしていた。抜いた時にはすでに斬り終わっている。その言葉が、剣術の教員として処理できていなかった。
「踏み込みを見せてくれ」
「よろしくてよ」
一の構えから踏み込んだ。
低く、深く、父に教わった膝の使い方で踏み込んだ。右手が柄を握り、抜刀の予備動作をそのまま実行する形で止めた。斬撃の直前で止めた形だった。
ガルドが目を細めた。
「もう一度」
もう一度やった。
「速さを変えるな」
速さを変えずにやった。
「もう一度」
もう一度。
ガルドは三回見た。三回とも同じ速度で、同じ軌道で踏み込んでいるのを確認していた。再現性があるということを確認していた。
「実際に抜いてみせてくれ」
「相手がいないと、三段構えの確認は難しゅうございますわ」
「俺が相手になる」
周囲がざわついた。
教員が学生の相手になることは、通常の授業ではなかった。
ガルドは木剣を取った。
朱音の前、三間の距離に立った。
「来い」
朱音は一の構えを取った。
ガルドが木剣を構えた。
教員としての構えだった。基本に忠実で、隙が少なかった。実力のある剣士の構えだった。
間合いを見た。
三間。影抜きの有効射程より少し外だった。踏み込みで詰める距離だった。
ガルドが動いた。
詰めてきた。間合いを半間縮めた。
その瞬間、朱音は動いた。
一の構えから踏み込んだ。
ガルドが木剣を上げた。防御の構えを取ろうとした。
その動作が完了する前に、二の構えに移行していた。
ガルドの防御の軌道を読んで、防御が向かう方向とは逆の軌道に切り替えた。防御の動作が、二の構えへの誘導になっていた。
ガルドが対応しようとした。
対応が完了する前に、三の構えで抜いた。
峰を上にしたまま、刀身がガルドの喉元で止まった。
止まった。
静止した。
訓練場が完全に静かになった。
ガルドは木剣を上げかけた状態で止まっていた。動けなかった。動ける状態ではなかった。喉元に刃があった。動けば首に当たる。動かなければ負けていた。
どちらを選んでも、結果は変わらなかった。
時間にして、踏み込みから三の構えまで、ゆっくり数えて一秒に満たなかった。
朱音は刀を鞘に収めた。
音がした。金属が鞘を収まる音がした。
ガルドが木剣を下ろした。
長い沈黙があった。
「……採点、できません」
ガルドが言った。
「理由をお聞かせいただけますかしら」
「これは」ガルドは少し間を置いた。「剣術ではない」
「そうですわ」
朱音は答えた。
同意した。
この世界の剣術の評価基準には存在しない動き方だった。構えが違う。踏み込みが違う。斬撃の軌道が違う。防御という概念がない。後退という選択肢がない。
評価基準に存在しないものは、採点できない。
それは正しかった。
「では」朱音は続けた。「どのように評価していただけますかしら」
「学園長に相談する」
ガルドが訓練場を出た。
周囲の学生たちが、しばらく動かなかった。
レオンが朱音を見ていた。何かを言おうとして、言わなかった。複雑な顔をしていた。見てはいけないものを見てしまったような顔だった。
カインが柱の近くに立っていた。
朱音と目が合った。
何も言わなかった。
しかし目だけが、何かを言っていた。
納得している目だった。重心を見た時から、何かを予測していて、それが合っていたという目だった。
朱音は刀の柄頭を右手で触れた。
訓練場の朝の光の中で、八番刀の柄頭は冷たかった。
(これは剣術ではない)
ガルドの言葉を、朱音は内側で繰り返した。
そうだ。これは剣術ではない。
前世で学んだのも、剣術ではなかった。
殺術だった。
生き残るために、相手を倒すために、最短で最確実な方法を積み重ねた技術だった。美しさも、格式も、流派の誇りも、そこには存在しなかった。
ただ、動いて、止まる。
それだけだった。
しかしこの世界では、それが一番問題になることだと朱音は分かっていた。
美しくないこと。格式がないこと。流派の誇りがないこと。
それらを持たない剣術は、評価する基準を持たない者には見えない。
見えない剣は、恐ろしい。
恐ろしいものには、人は二種類の反応をする。
遠ざかるか、近づくかだ。
訓練場の学生たちが、どちらの反応をするかは、これから分かることだった。
ガルドが戻ってきたのは、昼前だった。
学園長のメルヒオールを連れていた。
老人は昨日と同じ、痩せた体で真っ直ぐに立っていた。訓練場の中央まで歩いてきて、朱音の前に立った。
「見せてもらえますか」
「はい」
朱音は一の構えを取った。
「相手は私が」とメルヒオールが言った。
ガルドが止まろうとした。
メルヒオールが手で制した。
老人は杖を持っていた。普段から持っている杖だった。それを両手で構えた。
杖を構えた立ち方が、ただの老人の立ち方ではなかった。重心が低かった。足の置き方が安定していた。若い頃に剣を学んでいた人間の立ち方だった。
「来なさい」
朱音は動いた。
一の構え。
踏み込み。
二の構えで軌道を変えた。
三の構えで止めた。
メルヒオールの杖が、止まった刀身のすぐ手前で止まっていた。
防御が来ていた。
完全ではなかった。一の構えから三の構えへの連鎖を、完全には追えていなかった。しかし杖が動いていた。反応していた。
どこかで見切ろうとしていた。
(この爺さんは、本物だ)
朱音は刀を収めた。
メルヒオールが杖を下ろした。
「なるほど」と老人は言った。「ガルド先生が採点できないと言ったのは分かります」
「いかがでしょうか」
「面白い」
メルヒオールは朱音を見た。
「評価基準を作ります。在学中の騎士団員との模擬戦で評価します。同意しますか」
「よろしくてよ」
「最初の評価は来週行います。騎士団員が何人来るかは、私が決めます」
「承知しましたわ」
メルヒオールが踵を返した。
訓練場を出る前に、振り返った。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「その剣術に、名前はありますか」
「影抜き、と申しますわ」
「誰かから学びましたか」
朱音は少し考えた。
「前世の師匠から」
令嬢語変換が来なかった。
来なかったが、言ってしまった後だった。
前世、という言葉が訓練場に落ちた。
メルヒオールが少し止まった。
それから小さく笑った。
「そうですか」とだけ言って、出ていった。
訓練場に残った全員が、微妙な空気の中にいた。
前世という言葉の意味を処理しようとしている空気だった。
レオンが「前世とは何だ」と言いかけた。
朱音は完璧な令嬢スマイルで振り返った。
「まあ、言葉の綾でございますわ。お気になさらず」
レオンは納得していない顔をした。
しかし追わなかった。
カインは何も言わなかった。
ただ、朱音を見ていた。
重心を見た時と同じ目で、見ていた。
訓練場の朝の光が、変わらずに石畳を照らしていた。
来週、騎士団員との模擬戦がある。
何人来るかは分からなかった。
何人来ても構わなかった。
前世でも、何人相手でも、刀を抜く前には同じことを考えていた。
全員、順番通りに倒す。
それだけだった。




