第十六話 王立アカデミー、入学
一ヶ月が過ぎた。
入学の朝、朱音は夜明け前に目を覚ました。
眠れなかったわけではなかった。この体は正直だったから、疲れれば眠った。ただ夜明け前に自然に目が覚めた。前世でも、大きな夜の前は夜明け前に目が覚めた。体が勝手に準備をしていた。
窓の外がまだ暗かった。
空の端が、わずかに白み始めていた。
朱音は寝台に座って、その白みが広がるのを見ていた。
アカデミーへの入学を、どう思っているか、自分でも判断がつかなかった。前世では学舎に通ったことがなかった。剣を教わった師匠はいたが、学舎ではなかった。同じ年頃の者と同じ場所で学ぶということを、したことがなかった。
未知の場所だった。
未知の場所への警戒は、前世から染みついていた。
しかし警戒と、どう動くかは別の話だった。母も同じようなことを言っていた。怖いかどうかと、どうするかは別の話だと。
どうするかは決まっていた。
令嬢として入る。
剣士として動く。
情報を集める。味方を見つける。敵を把握する。
前世と同じことを、今度は令嬢語変換付きでやる。
フィーナが来た時、朱音はすでに着替えを終えていた。
「エルシア様、もう起きてらしたんですか」
「ええ」
「入学式ですね」フィーナの声が上ずっていた。「私、緊張しています」
「あなたが緊張してどうするのですか」
「だってエルシア様の緊張を代わりに引き受けているんです」
「引き受けなくて構いませんわ」
「でも、エルシア様は緊張しないじゃないですか」
「しておりますわ」
フィーナが少し驚いた顔をした。
朱音は窓の外を見た。
緊張していた。していなかったと言えば嘘になった。未知の場所への警戒は、緊張と形が似ていた。前世では緊張を顔に出さなかった。今も出さない。しかし内側にはあった。
「エルシア様が緊張するんですか」
「たまにはしますわ」
「そうなんですね」フィーナが少し安心したような顔をした。「なんか、よかったです」
「何がですの」
「エルシア様も人間だなって」
朱音はフィーナを見た。
赤毛の侍女は笑っていた。悪意のない笑いだった。
(人間かどうか、私も時々分からなくなる)
内心でそう思ったが、言わなかった。令嬢語変換が来る前に、自分で止めた。
「参りましょう」
馬車がアカデミーの門の前に着いた。
王都の中心部だった。城壁に隣接した、石造りの大きな建物だった。要塞のような外観で、しかし正門だけが装飾的に作られていた。武骨さと格式が混じった建物だった。
貴族の馬車が何台も止まっていた。
子弟を送り届ける親たちが、正門前で挨拶を交わしていた。華やかだった。衣装も、装飾も、前世の京の夜とは正反対の風景だった。
朱音は馬車を降りた。
視線を感じた。
クロイツェル家の令嬢が来た、という視線だった。二年前の測定会から、その視線には慣れていた。暗属性の令嬢への視線だった。恐れと、好奇と、蔑視が混じっていた。
完璧な令嬢スマイルで受け流した。
受け流しながら、視線の出所を把握した。
どこから来ているか。誰が向けているか。どの家の子弟が、どんな顔で見ているか。全部、見ていた。前世でも戦場に入る前に同じことをした。まず観察する。動くのはその後だ。
正門をくぐった。
中庭があった。
入学式の準備が整っていた。石畳の中庭に、学生たちが並んでいた。教員らしき人物が前に立っていた。
並びながら、周囲を観察した。
貴族の子弟が多かった。特級と一級の学生が大半を占めていた。その中に、数人だけ明らかに違う雰囲気の者がいた。服の質が違った。装飾がなかった。しかし目が違った。周囲を観察する目をしていた。
平民枠の学生だった。
その中の一人と目が合った。
茶色の髪の、無口そうな少年だった。年は朱音と同じくらいだった。小柄で、しかし手が大きかった。鍛冶師か、あるいは何か物を作る仕事をしている家の出身らしい手だった。
少年は朱音の腰を見た。
刀を見た。
今日は入学式だったが、朱音は刀を差していた。クロイツェル家の子弟として、剣を帯びることは礼に反しない。形が刀である点は異質だったが、差すこと自体は問題なかった。
少年の目が、刀身から鞘に移った。
重心を見ていた。
刀の重心を、外から見て分析しようとしていた。
(目が良い)
前世でも、刀の重心を外から読める人間は少なかった。ゴルドはできた。師匠もできた。それ以外には、ほとんどいなかった。
少年が視線を上げた。朱音と目が合った。
逸らさなかった。
貴族の子弟に見られた時の平民の反応ではなかった。気まずさも、媚びも、敵意もなかった。ただ観察していた目が、観察されたと気づいた目に変わっただけだった。
(面白い)
朱音は視線を前に戻した。
入学式が始まった。
学園長のメルヒオールが前に出た。白髪の老人で、痩せていた。しかし立ち方が違った。背筋が真っ直ぐで、足の置き方が安定していた。魔法師の立ち方だった。
挨拶があった。
長くなかった。必要なことだけを言って終わった。朱音は好感を持った。長い挨拶は、言う側の自己満足だと前世から思っていた。
式が終わって、クラスの発表があった。
特級のクラスに、エルシア・フォン・クロイツェルの名前があった。
同じクラスの名前を聞いた。
レオン・フォン・ルミナール。
二年前に測定会場で会った少年だった。一学年上だったはずだが、特級クラスは学年混合らしかった。
(また会うことになるか)
予想していた。避けられないと思っていた。
もう一つ名前があった。
カイン。
苗字がなかった。平民枠の学生は苗字を持たない者が多かった。
先ほど目が合った少年かもしれなかった。
最初の授業は午後からだった。
午前中は施設の説明と、教員との顔合わせだった。
剣術担当のガルド・シュミットが朱音の前に来た。
四十代の男だった。体格が良く、手に剣だこがあった。平民出身で、実力でここまで上がってきた顔をしていた。前世でそういう人間を何人か見た。生まれではなく、力だけで登ってきた人間特有の目をしていた。
「クロイツェル家の令嬢ですね」
「ええ、よろしくお願いいたしますわ」
「腰のそれは」
「刀でございます」
「何流ですか」
「影抜き、ですわ」
ガルドが首を傾げた。
「聞いたことがありませんね」
「私が作った流派ですので」
ガルドの目が少し変わった。
十歳の令嬢が、自分の流派を作ったと言った。笑うかと思ったが、笑わなかった。笑う前に、もう少し確認しようとしている目だった。実力を見てから判断する目だった。
好感が持てた。
「明日の実技で見せてもらえますか」
「よろしくてよ」
ガルドが次の学生に移った。
朱音は廊下を歩いた。
施設の説明を聞きながら、同時に建物の構造を把握していた。逃げ道と、隠れられる場所と、見通しの良い場所と、見通しの悪い場所を確認していた。前世からの習慣だった。
廊下の角を曲がったところで、声がした。
「まだいたのか」
振り返った。
レオン・フォン・ルミナールが立っていた。
二年前より背が伸びていた。体格が良くなっていた。しかし目は変わっていなかった。まっすぐな目だった。方向が間違っているまっすぐさだった。
「まあ、またお会いしましたわね」
完璧な令嬢スマイルで答えた。
「同じクラスになるとは思わなかった」
「私もですわ」
「光属性と暗属性が同じクラスにいるのは、アカデミーの判断ミスだ」
「学園長にお伝えになってはいかがですかしら」
「言うつもりだ」
「まあ、ご自由に」
レオンが少し止まった。
二年前と同じ反応だった。想定した返しが来ない時の止まり方だった。この少年は反論か謝罪を想定して話しかけてくる。どちらも来ないと、次の手を探すのに時間がかかった。
「クロイツェルは剣で来るのか」
「何がですの」
「暗属性の制御が不完全なら、剣で補うしかないだろう。そういう意味だ」
違う角度から来た。
今回は侮辱ではなく、分析だった。
二年前より思考が整理されていた。同じ方向を向いたまま、考え方だけが成長していた。
「剣と魔法、両方で参りますわ」
「暗属性の魔法が使えるのか」
「制御の途中ですわ。しかし使えないとは申しておりませんわよ」
レオンが朱音を見た。
二年前とは少し違う目で見た。
警戒が増していた。侮りが減っていた。測定会から二年間、何かを経験して、少し変わっていた。
「忠告しておく」
「なんでしょう」
「このアカデミーで暗属性を使うことは、目立つ。目立てば、教会が動く。教会が動けば、クロイツェル家に圧力がかかる」
朱音は少し考えた。
忠告だった。
敵意からではなかった。この少年なりの、善意からの忠告だった。暗属性を危険視しているから言っているのか、それとも別の理由があるのか。
どちらでもよかった。
内容として、間違っていなかった。
「ご忠告、ありがとう存じますわ」
「聞く気がなさそうだな」
「聞いておりますわよ」
「だが従わない」
「方針は変えませんわ、という意味ですわ」
レオンは朱音を見た。
しばらく見て、それから目を逸らした。
「好きにしろ」
歩いていった。
二年前より早く終わった。
言いたいことを言って、早く立ち去った。二年前は最後まで粘っていた。今回は引き際を持っていた。そこも成長だった。
(やはり、方向が変われば違う人間になる)
前世でも似たことを思ったことがあった。
廊下の奥から、別の気配がした。
振り返ると、茶色の髪の少年がいた。
カインだった。
柱の陰に立っていた。隠れていたのではなく、ただそこにいた。自分の存在を誇示する気がない立ち方だった。
「聞いていましたの」
「聞こえた」
悪びれなかった。
「ルミナールの息子とは知り合いか」
「いいえ」
「さっきの話を聞いて、どう思いましたの」
カインは少し考えた。
「忠告の内容は正しい」
「ええ」
「でも従わなかった」
「ええ」
「なぜか聞いてもいいか」
朱音はカインを見た。
平民の学生が、初対面の公爵令嬢にそう聞くのは、普通は難しかった。しかしこの少年は普通の反応をしなかった。観察して、判断して、必要なことを聞く。余計なことは言わない。
目が良くて、頭も動く。
「従っても従わなくても、目立つことに変わりはありませんの」
「なぜ」
「暗属性というだけで、すでに目立っておりますわ。それなら自分で目立ち方を決める方が、いくらかましですわ」
カインは朱音を見た。
少し考えた。
「それは正しい」
断言した。
迷いがなかった。自分が正しいと思ったことを、そのまま言う人間だった。
「その刀」とカインは言った。「さっき見たが、重心が柄寄りに設計されている。抜刀速度を優先した設計だ」
「よく分かりましたわね」
「父が鍛冶師だ。刀は初めて見たが、重心の読み方は同じだ」
ゴルドに弟子入りを志願する可能性がある人間だと、朱音は思った。目が良い。観察力がある。鍛冶師の息子で、素材と重心を読める。
(使える)
前世的な評価が出た。
しかし前世と違う評価も、すぐ後に来た。
この少年は道具ではない。
「カイン」
「なんだ」
「刀の重心について、もう少し話しますかしら」
カインの目が少し変わった。
警戒ではなかった。興味だった。
「話す」
二人で廊下を歩き始めた。
施設説明の続きがどこかで行われていたが、どちらも特に気にしなかった。
窓の外に中庭が見えた。
アカデミーの中庭は、クロイツェル家の中庭より広かった。手入れされた芝があって、石畳の通路があって、中央に魔法の測定台らしきものが置いてあった。
「刀を一度、作ってみたいと思っていた」
カインが言った。
唐突だった。しかし唐突に本音が出る人間は、信用できることが多かった。前世でもそうだった。
「ゴルドという職人をご存じですかしら」
「知らない」
「クロイツェル領の鍛冶師ですわ。腕がいい。興味があれば紹介しますわよ」
カインは少し考えた。
「機会があれば」
「機会を作りますわ」
カインが朱音を見た。
「なぜ」
「目が良い人間は、貴重ですの」
カインは何も言わなかった。
しかし否定もしなかった。
廊下を歩きながら、朱音は今日出会った人間を整理した。
ガルド。明日の実技で確認する。
レオン。方向が変わるかどうかは、まだ分からない。
カイン。今後を見る価値がある。
アカデミーという場所は、前世の戦場とは違った。しかし人間が集まる場所であることは同じだった。
人間が集まれば、動きがある。
動きがあれば、機会がある。
機会があれば、使う。
廊下の先に、午後の授業の教室があった。
朱音は歩き続けた。
腰の八番刀が、歩くたびに揺れた。
アカデミーの最初の日が、まだ続いていた。




