第十五話 父の背中
三日後、新しい刀が届いた。
セバスチャンが受け取って、台帳に記録した。朱音は稽古場で受け取った。八番刀だった。ゴルドの手紙が一枚、鞘に挟んであった。
次回のご来訪の際に、刀の素材についてご相談したいことがございます。
それだけ書いてあった。
素材について、という言葉が引っかかった。何を考えているのかは分からなかった。しかしゴルドが自分から相談を持ちかけることは珍しかった。注文に対して答える職人だったから、こちらから動くことはほとんどなかった。
何かを考えているのだろうと思った。
続きは来訪した時に聞けばいい。
八番刀を鞘から抜いた。
いつもと同じ重さだった。いつもと同じ重心だった。ゴルドの仕事は安定していた。毎回同じ仕様で、毎回同じ精度だった。それが職人としての誠実さだと、前世から知っていた。
稽古を始めた。
今日の課題は昨夜の実戦の検証だった。低い相手への軌道修正を、意識的に組み込む練習だった。
一の構え。
踏み込み。
低く沈みながら二の構えに移行する。
止まった。
沈む動作が、踏み込みの速度を落としていた。分かっていたことだったが、実際にやると落ち方が想定より大きかった。
もう一度。
踏み込みと沈みを同時にやろうとすると、膝の使い方が変わる。膝を内側に曲げながら前に出る動作が必要だった。前世では人間相手の間合いで動いていたから、この動作は使っていなかった。
新しく覚える動作だった。
繰り返した。
二十回、三十回、五十回。
だんだん馴染んできた。完全ではなかったが、速度の落ち方が減ってきた。
一時間で切り上げた。
アカデミーまであと一ヶ月だった。この一ヶ月で詰められるだけ詰める。詰めた後は、アカデミーの環境で続きをやればいい。
稽古場を出ようとした時、扉が開いた。
父だった。
ライナルト・フォン・クロイツェルが、稽古場の扉を開けて立っていた。朱音が稽古場にいる時間に来ることは、これまでなかった。鍵を渡してから二年間、父は朱音の稽古に干渉しなかった。
「稽古を見せろ」
父が言った。
命令の形だったが、声の質がいつもと違った。命令というより、確認したいことがあるという声だった。
「はい」
朱音は稽古場の中央に戻った。
父が扉を閉めて、壁際に立った。腕を組んだ。見る気配があった。
朱音は八番刀を構えた。
何を見せるかは、一瞬で決めた。
昨夜の実戦で使ったものを、そのまま見せる。三段構えの連鎖と、低い相手への軌道修正の練習中のものを。完成したものではなかった。しかし今の自分の実力を見せる方が、飾ったものを見せるより誠実だった。
前世から、強い剣士には正直に見せると決めていた。
誤魔化しても、分かる人間には分かる。
一の構え。
踏み込み。
二の構えで低く沈む。
三の構えで斬り上げる。
止まった。
もう一度。
今度は流した。止まらずに次に繋げた。
一体目を想定した軌道から、そのまま二体目への踏み込みに転換した。朱の糸の形だった。グラウル相手に使った連鎖だった。
三体目まで流した。
止まった。
息が少し上がっていた。
父が動いた。
壁際から、稽古場の中央に向かって歩いてきた。
止まった。朱音の前、二間ほどの距離に立った。
「もう一度」
朱音は構えた。
父は何も持っていなかった。素手で立っていた。相手になるということではないと分かった。近くで見るということだった。
一の構え。
踏み込み。
二の構えに入った瞬間、父が動いた。
動いたのではなく、重心が微妙に変わった。ほとんど動いていなかった。しかし朱音の動きを受けて、体の軸が変わった。剣士が他の剣士の動きを無意識に追う反応だった。
二の構えから三の構えへ。
斬り上げて、止まった。
父が朱音の切っ先を見た。
また沈黙があった。
父の沈黙はいつも長いが、今日の沈黙は種類が違った。考えている沈黙だった。何かを評価して、言葉を選んでいる沈黙だった。
「踏み込みが浅い」
言った。
朱音は少し驚いた。
父が稽古の内容に言及したのは初めてだった。鍵を渡してから二年間、一度もなかった。
「二の構えで沈む時、膝が内に入っている。そこで速度が落ちる」
「存じておりますわ。修正中ですの」
「どう修正する」
「膝を内に曲げながら前に出る動作に慣れるまで、繰り返すしかないかと思っておりますわ」
父は少し首を振った。
「それは時間がかかる」
「ほかに方法がございますか」
父は朱音の前に立ったまま、少し考えた。
それから、自分が動いた。
素手のまま、低い踏み込みをした。
膝の動かし方が違った。内に曲げながら前に出るのではなく、踏み込みの最初から膝を外向きに開いた状態で出ていた。体の沈みが、踏み込みの動作の中に最初から組み込まれていた。
「こうすると膝が内に入らない」
朱音はその動きを見た。
一度見ただけで分かった。
なぜ気づかなかったのかと思った。膝を内に曲げようとするから速度が落ちる。最初から外に開いた状態で踏み込めば、沈む動作が生まれない。
「試してみますわ」
やってみた。
違った。
速度の落ち方が明らかに減った。沈みながら前に出る感覚が、踏み込みと一体になった。
「もう一度」と父が言った。
もう一度やった。
さっきよりさらに自然になった。
「続けろ」
父は壁際に戻った。
朱音は続けた。
低い踏み込みを、繰り返した。父に言われた膝の使い方で、繰り返した。十回、二十回、三十回。
父は壁際で腕を組んで見ていた。
何も言わなかった。
しかし時々、重心が動いた。朱音の動きを追って、無意識に体が反応していた。
一時間、続けた。
父がまだいた。
「今夜の実戦の映像だな」
父が言った。
「はい」
「グラウルへの軌道だ」
「ご覧になりましたか、現場を」
「倒れ方を見れば分かる」
やはりそうだった。
父は倒れた魔物の様子から、何が起きたかを再現していた。それだけの目を持っていた。
「刀に魔力が乗っていたか」
朱音は少し止まった。
「意図してはおりませんでしたわ」
「乗ったか乗らなかったか」
「乗りましたわ」
父は頷いた。
「制御はできるか」
「現時点では、切ることはできますが、乗せることはまだ意図的にはできませんわ」
「乗った時と乗らない時で、感触が違うか」
「違いますわ。乗った時の方が、硬い素材への抵抗が減りました」
父は少し考えた。
「ゴルドに話を通す」
「ゴルドから手紙が来ておりますわ。素材について相談があると」
父が少し目を細めた。
「あいつのことだ。もう考えているだろう」
「私もそう思いますわ」
二人の間に間があった。
前世では、剣の話をできる人間がいなかった。技術について話せる相手が、一人もいなかった。一人で考えて、一人で試して、一人で結論を出してきた。
今は父がいた。
この男は言葉が少なかった。感情を表に出さなかった。しかし剣の話になると、必要な言葉だけを正確に出した。
「お父様」
「なんだ」
「なぜ今日、いらしたのですか」
沈黙があった。
長い沈黙ではなかった。しかし何かを考えている沈黙だった。
「お前の剣を、近くで見たことがなかった」
それだけ言った。
折れた刀を現場で見た。倒れた魔物の様子を見た。それで来た。それだけのことだった。
この男はそういう男だった。
言葉より行動が先に来る。理由より結果が先に来る。前世で出会った剣士の中に、似た人間がいた。口数が少なくて、しかし剣の腕だけで全部を語る人間だった。
「ありがとう存じますわ、お父様」
変換された言葉だった。
しかし今回も、変換前と大差なかった。
父は頷いた。
それから、扉に向かって歩いた。
扉を開ける前に、一度だけ振り返った。
「アカデミーでは」
「はい」
「剣を抜く時、抜いた理由を持て」
言って、扉を出た。
閉まった。
朱音は稽古場に一人になった。
剣を抜く時、抜いた理由を持て。
前世では考えたことのない言葉だった。前世では理由より先に刃が出た。理由を考える間もなく動いていた。それが生きることだったから。
この世界では違うということか。
それとも、父は前世の自分に何かを見ていて、それを言っているのか。
分からなかった。
しかしその言葉を、稽古場の冷たい空気の中で、朱音はしばらく反芻した。
剣を抜く時、抜いた理由を持て。
前世では持てなかった。
持てなかったのか、持つ余裕がなかったのか、それとも理由など必要なかったのか。今となっては分からなかった。
今は持てるかもしれなかった。
いや、今だからこそ、持たなければならないのかもしれなかった。
八番刀を鞘に収めた。
金属が鞘を収まる音がした。
稽古場を出た。
廊下に出ると、父の背中が遠くに見えた。
大きな背中だった。
前世では一度も、あんな背中を持つ人間の後ろを歩いたことがなかった。
いつか、並んで歩く日が来るだろうかと、朱音は思った。
来るかどうかは分からなかった。
しかしそれを考えている自分がいることが、前世とは違うことだと思った。
父の背中が、廊下の角を曲がって消えた。
朱音は自室に向かって歩き始めた。
腰の八番刀が、歩くたびに揺れた。
いつもの重さだった。
その重さが、今日は少し違って感じた。
理由は分からなかった。
ただ、悪くなかった。




