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緋色の魂は二度、剣を握る ~人斬り令嬢の異世界無双~  作者: 翡翠


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第十三話 領地の夜襲

十歳になった。


アカデミーへの入学が一ヶ月後に迫っていた。


この二年で、体が変わった。八歳の時より筋肉がついた。腱が強くなった。踏み込みの深さが前世の七割近くまで戻っていた。七割では足りないが、七割あれば動ける。前世でも、万全の状態で戦ったことの方が少なかった。


刀は七番刀まで揃っていた。


一番刀から三番刀は稽古用になっていた。四番刀から七番刀が実戦用だった。セバスチャンの台帳は三冊目に入っていた。ゴルドへの発注は定期的に続いていた。


暗属性の制御も、二年前より良くなっていた。


感情と魔力の連動を、意識的に切れるようになっていた。切れる時と切れない時がまだあったが、切れる時の方が増えていた。完全な制御にはほど遠かったが、少なくとも稽古中に漏れることはなくなっていた。


問題は、制御を切ることに慣れすぎていることだった。


感情を切る。魔力を切る。内側を全部切って、動くだけになる。前世でもそうしていた。そうしないと動けない場面があった。しかし切り続けると、戻し方を忘れる。前世でも、戻し方が分からなくなった時期があった。


今は戻せる。


フィーナがいれば戻せた。セバスチャンの台帳の数字を見ていれば戻せた。祖母と茶を飲めば戻せた。


それが前世との違いだった。



その夜、朱音は稽古場にいた。


五番刀で三段構えの反復をしていた。一の構えから二の構えへ、二の構えから三の構えへ、流れで動く練習だった。止まらない。考えない。体が次を知っている状態になるまで繰り返す。


蝋燭が三本、燃えていた。


稽古場の外が、静かだった。


いつもより静かだと気づいたのは、五番刀を鞘に収めた瞬間だった。


静かすぎた。


夜の屋敷は静かだが、この静かさは種類が違った。虫の声がしなかった。風の音がしなかった。生き物の気配が、屋敷の外から消えていた。


朱音は蝋燭を消した。


暗闇の中で、目を閉じた。


耳を澄ませた。


遠くに音があった。


土を踏む音だった。重い、大きな何かが、複数、動いている音だった。一つではなかった。数えきれないほどの何かが、クロイツェル領の方向から近づいてくる音だった。


魔物だと分かった。


エルシアとしての知識がそう教えた。この感じ、この音の種類は、魔物の群れが移動する時のものだった。


稽古場の扉を開けた。


廊下に出ると、マルガレーテが立っていた。


「エルシア様」


「分かっておりますわ」


「ご主人様は領境の西側に出ておられます。戻るまでに一時間かかります」


父が不在だった。


領境の別の地点で別の対応をしているか、あるいは別件で出ていたかのどちらかだった。いずれにせよ、今ここにいない。


「領民の避難状況は」


「東側の集落三つは完了しています。しかし南の集落が間に合っていません。魔物の進行方向と重なっています」


南の集落。


朱音は頭の中で領地の地図を広げた。エルシアとしての記憶にある地図だった。南の集落は領境から近い。魔物の群れが今の速度で進めば、避難が完了する前に到達する。


計算は単純だった。


「刀を」


マルガレーテが動いた。


廊下の壁に立てかけてあった刀掛けから、五番刀、六番刀、七番刀の三振りを取った。一振りを朱音の腰に差し、二振りを背に負うための帯と共に渡した。


「エルシア様、お待ちを」


セバスチャンが廊下の角から来た。


手に台帳を持っていた。夜中だというのに、眼鏡をかけて、姿勢が正しかった。


「魔物の種類の特定を試みました。音と進行速度から推測すると、グラウルの群れかと思われます。硬い外皮を持ちますが、頸部と腹部の接合点に弱点があります」


「よく調べましたわ」


「ゴルド殿に事前に確認しておいた情報でございます。刃こぼれに備えて、六番刀は厚みを増してあります」


朱音はセバスチャンを見た。


事前に。


魔物との戦いを想定して、事前に刀の仕様を調整していた。台帳をつけるだけではなかった。次に起きることを考えて、動いていた。


「ありがとう、セバスチャン」


「領民の避難誘導に騎士団の三番隊が当たっています。エルシア様が南の集落前で時間を稼いでいただければ、四十分で避難が完了する計算です」


四十分。


長くはない。しかし短くもなかった。


「フィーナは」


「既に屋敷の内部に待機させています。外には出しません」


「よろしいですわ」


マルガレーテが朱音の隣に並んだ。


「黒薔薇から四名が同行します」


「三名でよろしいですわ。一名は屋敷に残して」


「承知しました」


朱音は廊下を歩き始めた。


屋敷の裏口から外に出た。


夜の空気が顔に当たった。冷たかった。月が出ていた。明るい夜だった。


遠くに音が聞こえた。


さっきより近かった。


土を踏む音と、低い唸り声が混じり始めていた。グラウルという魔物の声を、朱音はまだ聞いたことがなかった。しかし唸り声の種類から、大きさと数がある程度分かった。


大きい。数も多い。


(まあ、仕方がありませんわね)


完璧な令嬢スマイルで、朱音は夜の中に歩き出した。


メイドが三名、後ろについた。マルガレーテが隣を歩いた。


「エルシア様」


「なんでしょう」


「初めての実戦でございますね」


「この世界では、そうなりますわね」


「ご無理はなさらず」


「まあ」朱音は前を見たまま言った。「無理かどうかは、やってみなければ分かりませんわ」


マルガレーテは何も言わなかった。


南の集落が見えてきた。


明かりが灯っていた。まだ人がいた。避難が完了していなかった。動けない老人がいるらしく、騎士団の一人が荷車を引いていた。子供の泣き声がした。


その向こう、領境の方向に、影が見えた。


一つではなかった。


月明かりの中に、動く影が複数あった。大きかった。人の背丈より大きかった。四つ足で動いていた。頭が低く、背が高く、外皮が月光を反射していた。


グラウルだった。


数えた。十二。いや、もう少しいるかもしれなかった。月明かりだけでは端まで見えなかった。


朱音は腰の五番刀に手をかけた。


柄の感触があった。


ゴルドが打った刀の、慣れた重さがあった。


(体が軽い)


前世より動くと、この瞬間に思った。


十歳の体は、六歳の時より確かに動いた。前世の三十代の体とは比べ物にならないが、前世の十歳の頃より動いた。転生した体というのは、前世の記憶で育てれば、前世より早く仕上がるらしかった。


「マルガレーテ」


「はい」


「集落の人間が全員出るまで、後方を」


「承知しました。南東の退路を確保します」


メイドたちが動いた。


音もなかった。気配を消して、南東方向に散った。暗器の点検をする音が一瞬して、それから消えた。


朱音は一人で前に出た。


集落と魔物の群れの間に、立った。


群れの先頭が止まった。


人の気配に反応したのか、新しい何かを感知したのか、先頭の一体が低く唸りながら止まった。後続がそれに続いて止まった。


月明かりの中で、十数体のグラウルと、十歳の令嬢が向かい合った。


(懐かしい構図だ)


前世でも似たような夜があった。一人で、複数の相手と向かい合う夜が。あの時も夜だった。月があったかどうかは覚えていない。


違うのは、相手が人間ではないことだった。


人間ではないということは、交渉ができない。言葉が通じない。心理的な揺さぶりが効かない。


しかし動く生き物である以上、本能はある。


本能には、本能で答えればいい。


朱音は殺気を放った。


絞り込んで、集中して、前世の記憶にある、人を相手にした時の殺気を、そのまま放った。


グラウルの群れが止まった。


先頭の一体が、一歩後ろに退いた。


動物の本能は正直だった。理屈より先に、体が反応した。目の前にいる小さな何かが、非常に危険なものだという信号を、本能が受け取っていた。


しかし止まっているだけだった。


引き返す判断をするほど、賢くはなかった。


群れの後方から唸り声が上がった。


前方への圧力がかかった。


先頭の一体が、迷うように揺れた。


それから踏み込んできた。


(来た)


朱音は動いた。


一の構え。


右足を踏み込んだ。腰を落とした。五番刀の柄に手をかけた。


相手が大きかった。人間ではなく四つ足の獣だった。頭の位置が低かった。頸部と腹部の接合点、セバスチャンが言っていた弱点は、地面に近い位置にあった。


踏み込みを深くする必要があった。


前世の人間相手の間合いより、低く、深く。


二の構えで軌道を修正した。


相手の突進を横に受け流しながら、腰を落として体を沈める。突進の速度を利用して、自分の踏み込みに変換する。これは前世でも使っていた。重い相手の力を逆用する技術は、筋力の劣る者が筋力のある相手を倒す基本だった。


三の構えで抜いた。


低い軌道の、上向きの一閃だった。


頸部と腹部の接合点を、下から斬り上げた。


音がした。


外皮を断つ、硬い音だった。刀身に衝撃が伝わった。刃こぼれが心配な衝撃だったが、六番刀を厚みを増して作ってあるというゴルドとセバスチャンの仕事を信じた。


グラウルが倒れた。


着地した。


二体目が来ていた。


考えていなかった。体が動いていた。


二体目への一の構えが、一体目への三の構えの着地からそのまま繋がった。朱の糸の形だった。前世では人間相手に使っていた連鎖だったが、四つ足の相手にも軌道を修正すれば使えることが、この瞬間に分かった。


(使える)


二体目。


三体目。


止まらなかった。考えなかった。体が次を知っていた。


(魔力が)


気づいた。


魔力が、勝手に刀に乗っていた。


意図していなかった。しかし五番刀の刀身が、僅かに黒く染まっていた。暗属性の魔力が、感情ではなく、戦いの高ぶりに反応して流れ込んでいた。


制御を試みた。


切れなかった。


前世では感情を切って戦っていたから魔力が乗らなかった。しかし今夜は違った。感情を切ることに集中する余裕が、多数の相手との戦いの中になかった。


(まあ、今は構わない)


割り切った。


制御できないなら、乗せたまま使う。乗っている魔力が何をするかは未知数だったが、止まる方が危険だった。


四体目。


五体目。


刀が黒く光っていた。暗の魔力を帯びた刀身が、斬撃の軌道に薄い黒の残像を引いていた。


六体目への踏み込みで、五番刀の感触が変わった。


刃こぼれだと分かった。


止まらなかった。鞘に収めながら次の踏み込みに転換した。右手が六番刀の柄に移った。


抜いた。


七体目。


八体目への二の構えで、魔物の群れの後方が乱れ始めているのが分かった。先頭から順番に倒れていく状況に、後方の個体が反応し始めていた。本能的な恐怖が伝播していた。


九体目を倒した時、群れが止まった。


残りが後退を始めた。


引いていった。


来た方向に、そのまま引いていった。


朱音は追わなかった。


追う必要がなかった。集落から遠ざかれば十分だった。


六番刀を鞘に収めた。


息が上がっていた。十歳の体は、この程度の消耗で限界に近かった。前世なら準備運動程度の運動量だったが、今の体には違った。


振り返った。


集落の明かりが見えた。


人影が動いていた。避難が続いていた。


マルガレーテが来た。


「集落の全員が退避しました。負傷者はいません」


「よろしいですわ」


「エルシア様の御怪我は」


「ありませんわ」


マルガレーテは朱音を見た。


五番刀の刃こぼれを見た。


六番刀の刀身にまだ残る黒い光を見た。


何も言わなかった。


一礼した。


朱音は六番刀の刀身を布で拭いた。黒い光は拭いても消えなかった。しばらくして、自然に消えた。魔力が戻っていった。


地面に伏した魔物が九体あった。


倒せなかった分が引いていった。


領民は全員無事だった。


刀が一振り、刃こぼれした。


(まあ)


朱音は夜空を見上げた。


月が出ていた。


(これが、この世界での最初の実戦か)


悪くなかった。


課題は山積みだった。魔力の制御。消耗速度の計算違い。魔物の体格に合わせた軌道修正の精度。全部、次に活かす必要があった。


しかし領民は全員無事だった。


それで十分だった。


今夜は。


セバスチャンが来た。


手に台帳を持っていた。


「エルシア様、ご報告申し上げます。五番刀、刃こぼれにより稽古用に移行。六番刀は問題なし。残りの実戦用は七番刀のみとなりました」


「ゴルドへの発注を」


「緊急発注の手紙を、すでに書きました。明朝一番で送ります」


朱音はセバスチャンを見た。


夜中の戦闘の後で、月明かりの中で、台帳を持って立っている銀髪の少年だった。


「よく気が利きますこと」


「恐れ入ります」


二人で屋敷に向かって歩き始めた。


マルガレーテとメイド三名が後ろについた。


集落の明かりが遠くなっていった。


腰に差した七番刀の重さが、いつもと同じようにあった。


前世でも、戦いの後はいつも同じことを思っていた。


次の夜も、刀を持って立てるかどうか。


今夜は違うことを思った。


次の夜も、この刀が手元にあるかどうか。


それを考えている人間が、一人ではなく、後ろに複数いた。


それだけが、前世と今夜の、一番大きな違いだった。

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