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緋色の魂は二度、剣を握る ~人斬り令嬢の異世界無双~  作者: N


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第十二話 母の笑顔

屋敷に戻ったのは夕方だった。


王都からクロイツェル領までの道のりを、馬車は夕日の中を走った。窓の外が赤く染まっていた。京の夕暮れに似た色だった。似ているが違う。あの頃の夕暮れには次の夜への緊張があった。今日の夕暮れには、別のものがあった。


何があるかは、まだうまく言えなかった。


屋敷に入ると、イレーナがマルガレーテに何かを指示していた。手短に、しかし正確に。メイド長は一言も聞き返さずに頷いて、すぐに動いた。二人の間に無駄がなかった。長年の信頼が作った動き方だった。


「エルシア」


母が振り返った。


「少し休んでから、私の部屋にいらっしゃい」


「はい」


自室に戻った。


フィーナが着替えを手伝いながら、今日のことを聞いてきた。測定会のことを、王都での様子を、ルミナールの少年との会話を。フィーナは屋敷で待っていたから、全部聞きたかった。


「測定器が壊れたって、本当ですか」


「ええ」


「怖くなかったですか」


「何が」


「周りの人たちの反応が、ですよ」


朱音はフィーナを見た。


赤毛の侍女は心配していた。本当に心配していた。演技のない顔だった。


「慣れておりますわ」


「慣れてるって、エルシア様は今日が初めてじゃないですか」


「さあ」


フィーナが困った顔をした。いつものことだった。


着替えが終わって、フィーナが部屋を出た後、朱音は少しだけ窓の外を見た。


夕日が沈みかけていた。


今日一日で、この世界での立場が変わった。暗属性の公爵令嬢という事実が、公式に記録された。測定器の破損とともに。ルミナール家との最初の接触とともに。


始まった。


前世でも、始まった日があった。最初に刃を持った日。最初に人に向けた日。最初に血を見た日。始まった後は、止まれなかった。


今度も止まれないだろう。


しかし今度は、止まれない方向が違う。


前世は夜に向かって走っていた。どこへ行くのかも分からずに走っていた。


今度は、自分で方向を決められる。


それだけが違った。それだけで、随分と違うと思った。



母の部屋は南棟にあった。


日当たりが良くて、花の鉢が窓辺に並んでいて、家の中で一番明るい部屋だった。父の書斎が北棟で、祖母の部屋も北棟で、家の中の暗い場所に男たちと老婦人がいて、明るい場所に母がいた。


それが何か意味を持つのかどうか、朱音には分からなかった。


扉をノックした。


「どうぞ」


入ると、イレーナはソファに座っていた。向かいにもう一脚のソファがあった。テーブルに茶が二つ置いてあった。祖母の部屋と同じ構図だった。この家の女性は、客を迎える準備を先にする習慣があるらしかった。


「座って」


朱音は向かいのソファに座った。


茶を一口飲んだ。温かかった。


イレーナはすぐには話し始めなかった。


自分の茶を手に持って、少し遠くを見ていた。考えているのか、整理しているのか、それとも始め方を探しているのか。


「今日の測定会の結果が、明後日には正式に記録されるわ」


母が言った。


「存じておりますわ」


「クロイツェル家の令嬢、暗属性、測定器破損。全部、王家の記録に残る」


「ええ」


「そうなると、動く者が出てくる」


「ルミナール家が最初かと」


イレーナが少し驚いた顔をした。すぐに戻った。


「そうね。今日の様子を見れば、あの息子が父親に報告するでしょう。ルミナール公爵が動けば、魔法教会も動く。順番はそうなるわ」


「お母様は、どう動きますか」


イレーナは朱音を見た。


真っ直ぐに見た。


「もう動いているわ」


「今日のうちにですか」


「馬車の中でね」


朱音は母を見た。


王都から屋敷までの道のりで、馬車の中で、イレーナは何をしていたのか。朱音は窓の外を見ていた。母は何をしていたのか。


「ヴァレンシア家への手紙を書いていたの。私の兄への手紙よ。今夜中に届くように、別の馬を走らせてある」


「伯父上に、何をお願いになりましたか」


「情報網を動かすこと。クロイツェルの令嬢の話が、どう広まるかを先に決めること」


先に決める。


朱音は今日の測定会場でのことを思い出した。母が役人の耳元で何かを言っていた。ヴァレンシア家の縁者が周囲に向かって話し始めていた。


「今日の会場でも、すでに動いていらっしゃいましたわね」


「気づいていたの」


「ええ」


イレーナはまた少し驚いた顔をした。今度は戻るのが遅かった。


「八歳の娘に気づかれるとは思わなかったわ」


「お母様のお動きは、分かりやすゅうございましたわ」


「そう」イレーナは少し笑った。「精進しなければいけないわね」


本音の笑いだった。完璧な令嬢スマイルではない、少し崩れた笑いだった。この部屋では、少しだけ本音が出てくるらしかった。


「具体的には、どのような話を流されましたの」


「クロイツェルの神秘の令嬢、という話よ」


「神秘」


「暗属性を不吉と取るか、神秘と取るかは、言葉の問題だわ。最初に広まった言葉が、その後の認識を作る。だから最初に動く」


認知心理学でいう、フレーミング効果である。

この世界にその言葉はないが、やっていることは同じだった。最初の枠組みが、その後の見え方を決める。母はそれを直感で知っていた。


「うまくいきますかしら」


「全部はうまくいかないわ」とイレーナは言った。「ルミナール派は変わらない。魔法教会の強硬派も変わらない。でも、中間にいる人たちの一部が変わる。一部で十分よ、最初は」


「なぜ、最初は、とおっしゃいますの」


「時間をかければ、一部が全体になることがあるから」


朱音は母を見た。


この女は長期的に考えていた。今日明日ではなく、数年先を見て動いていた。


「お母様は」


「なあに」


「怖くはありませんか」


イレーナが少し首を傾けた。


「何が」


「私が、暗属性であることが」


母は答えなかった。


すぐには答えなかった。


朱音は待った。急かさなかった。


窓の外で、完全に日が落ちた。部屋の中が少し暗くなった。イレーナが手を伸ばして、テーブルの蝋燭に火を灯した。小さな火が揺れた。


「怖い、という感覚とは少し違うわね」


母が言った。


「では、どのような」


「あなたが生まれた日のことを覚えているわ」イレーナは蝋燭の火を見ながら言った。「小さくて、黒い髪で、泣き声が大きかった。ライナルトが抱いた時、珍しく困った顔をしていたわ。あの人が困った顔をするのは、滅多に見られないのよ」


朱音は父の顔を思い浮かべた。


困った顔をする父を、想像しようとした。


できなかった。


「その子が暗属性であることが、怖いかどうかと言えば」イレーナは朱音を見た。「あなたが私の娘であることの方が、ずっと大事なことよ」


朱音は黙った。


令嬢語変換が来なかった。


来る前に、何かが来た。変換ではなかった。喉の奥で何かが止まった。目の奥が、六歳の体の正直さで、熱くなった。


前世では一度も言われなかった言葉だった。


前世の朱音には母がいなかった。いたかもしれないが、知らなかった。薩摩藩士の庶子として生まれて、誰かの娘として育ったことがなかった。誰かの大事な何かであったことが、なかった。


「お母様」


声が出た。


変換が来た。しかし今回は変換の前に、声が震えそうになった。震えなかった。前世から、声を震えさせない練習は十分にしていた。


「なあに」


「明後日から、動く者が出てくるとおっしゃいましたわね」


「ええ」


「私も、動きますわ」


イレーナは朱音を見た。


「どうやって」


「剣と」朱音は言った。「令嬢として」


母は少しの間、朱音を見ていた。


それから微笑んだ。


今日一日で、何度か見た笑顔があった。完璧な社交用の笑顔。少し崩れた本音の笑顔。驚いた後に戻る笑顔。


この笑顔は、どれとも違った。


「そう」とイレーナは言った。「なら私は、令嬢の動きやすいように整えるわ」


「ありがとう存じますわ、お母様」


変換された言葉だった。


しかし今回は、変換される前の言葉と、ほとんど同じだった。


蝋燭の火が揺れた。


部屋の中が、小さな火の分だけ暖かかった。


母と娘は、しばらくそのまま座っていた。


茶が冷めていくのも構わずに。


話すことは、もう全部話していた。


話さなくていいことは、話さなかった。


それで十分だった。この部屋では、それで十分だということが、朱音にはわかった。


部屋を出る前に、朱音は一度だけ振り返った。


イレーナはまた窓の外を見ていた。完全に暗くなった夜の窓を。


その横顔が、少しだけ、公爵夫人ではない顔をしていた。


何かを心配している顔だった。


心配を顔に出さない女が、一瞬だけ出していた。


朱音は何も言わなかった。


扉を閉めた。


廊下に出ると、マルガレーテが壁際に立っていた。


朱音の護衛として、扉の外で待っていたらしかった。


「お待たせしましたわ」


「いいえ」


二人で廊下を歩いた。


マルガレーテは何も言わなかった。朱音も何も言わなかった。


自室に戻る前に、朱音は稽古場の鍵を触った。


ポケットの中で、稽古場の鍵と書庫の鍵が当たり合った。


今夜も稽古場に行く。


動く者が出てくる前に、動けるだけ動いておく。


前世でも、静かな夜は稽古に使った。嵐の前の静けさを、無駄にしたことはなかった。


廊下の窓から、夜空が見えた。


星が出ていた。


測定会の日の夜に、星が出ていた。


(悪くない夜だ)


朱音はそう思いながら、自室への廊下を歩き続けた。

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