第十話 王都の測定会
八歳になった。
二年が経っていた。
稽古場の床に、朱音の踏み込みの跡が加わっていた。父の何十年分の跡とは比べ物にならない浅さだったが、確かにそこにあった。ゴルドの刀は四番刀まで揃っていた。セバスチャンの台帳は二冊目に入っていた。フィーナは相変わらずよく喋った。
体が育っていた。
六歳の時より筋肉がついた。腱が強くなった。一の構えから三の構えまで、流れで動けるようになっていた。実戦ではまだ使っていない。しかし形は、前世に近いものになってきた。
問題は魔法だった。
暗属性の魔力が、制御できていなかった。
稽古中に感情が高ぶると、朱音の周囲の光が僅かに薄くなることがあった。気づいているのはマルガレーテだけだった。メイド長は何も言わなかったが、そういう時にさりげなく他の者を遠ざけていた。
魔力の制御は、剣の稽古より難しかった。
剣には前世の記憶がある。体が覚えている道筋がある。しかし魔法には何もなかった。前世の京に魔法はなかった。この体に、魔法を使った記憶がない。全てがゼロからだった。
とりあえず、漏れないようにすることだけを練習していた。
抑える。押さえ込む。内側に留める。感情と魔力が連動しているなら、感情を制御すれば魔力も制御できると考えた。感情の制御は、前世から得意だった。戦場では感情を切る技術が必要だった。その技術を、魔力の制御に転用した。
うまくいっていた。
大体は。
王都での公式魔力測定は、年に一度行われる儀式だった。
八歳になった年、エルシアはその測定を受ける年齢になった。
王都に向かう馬車の中で、母のイレーナが隣に座っていた。父も同行していたが、別の馬車だった。貴族の慣習として、公爵は別に移動する。
「エルシア」
「なんでしょう、お母様」
「今日、測定器が壊れるかもしれないわね」
朱音はイレーナを見た。
母は窓の外を見ていた。微笑んでいた。いつもの完璧な微笑みだった。しかしその横顔には、いつもとは違う何かがあった。
「壊れた場合の準備は、もうしてあるから」
「準備、でございますか」
「測定器が壊れると、会場が混乱するでしょう。混乱した会場では、誰が何を言ったかが曖昧になる。その隙に、私が先に動く」
朱音は母を見た。
この女は今、何の準備をしてあると言っているのか。
「具体的には」
「あなたが心配しなくていいことよ」イレーナは振り返って、朱音を見た。「あなたは、今日、完璧な令嬢でいなさい。それだけでいい」
完璧な令嬢。
令嬢語変換が常時動いている以上、言葉の面では問題ない。問題があるとすれば、目だった。
「目が問題かもしれませんわね」
イレーナが少し驚いた顔をした。
それからまた微笑んだ。今度は違う微笑みだった。完璧ではない、少し本音に近い微笑みだった。
「あなたは私に似ているわね」
「まあ」
「目のことは、大丈夫よ」とイレーナは言った。「クロイツェル家の令嬢は、生まれつき目が鋭いと、もう社交界には流しておいたから」
朱音は少し止まった。
もう流しておいた。
この女は娘の目が変わったことに、いつ気づいて、いつそれを対策として動かしたのか。
(二年前から動いていたのか)
「お母様は」
「なあに」
「いつ、気づかれましたか」
イレーナは窓の外に視線を戻した。
「誕生日の夜よ」
朱音は黙った。
あの夜に。蝋燭の火を見ていた時に。目が変わった瞬間に。その場にいた全員の中で、母だけが気づいていた。そしてそこから二年間、何も言わずに準備を進めていた。
怖い女だと、二年前にも思った。
今も同じことを思った。
「お母様」
「なんでしょう」
「ありがとう存じますわ」
イレーナは振り返らなかった。
しかし窓ガラスに反射した顔が、微笑んでいた。本物の微笑みだった。
測定会場は王都の中心にある大広間だった。
高い天井。広い石畳。壁際に並ぶ測定器。貴族の子弟が一堂に会していた。八歳から十歳の子供たちと、その親たちと、魔法教会の関係者と、王家の役人たちが。
朱音は会場に入った瞬間、視線を感じた。
クロイツェル公爵家の令嬢が来た、という視線だった。暗属性の噂がすでに広まっているかどうかは分からなかった。しかし武門の公爵家の娘という注目は、入場した瞬間からあった。
完璧な令嬢スマイルで会場を進んだ。
測定は順番に行われた。
子供たちが一人ずつ測定器の前に立つ。測定器は手のひら大の水晶のような装置で、触れると属性に応じた色の光を発する仕組みだった。
火属性の子供が赤く光らせた。歓声があった。
水属性の子供が青く光らせた。拍手があった。
風属性の子供が緑に光らせた。また歓声があった。
光属性の子供が白く輝かせた。一番大きな歓声があった。魔法教会の関係者が熱心に手を叩いていた。
一人ずつ、順番が来た。
エルシアの番になった。
会場が少し静かになった。
測定器の前に立った。右手を出した。装置に触れた。
一瞬、何も起きなかった。
次の瞬間、測定器が黒く染まった。
黒い光、とは本来矛盾した表現だった。しかしそれ以外に言いようがなかった。測定器が放ったのは光ではなく、周囲の光を吸収する黒さだった。装置の周囲だけが暗くなった。
それから、音がした。
ひびが入る音だった。
測定器に亀裂が走った。亀裂は一瞬で広がって、装置全体に及んだ。そして砕けた。
破片が石畳に散らばった。
会場が静かになった。
完全な静寂ではなかった。衣擦れの音がした。誰かが息を呑む音がした。しかしそれだけだった。誰も声を上げなかった。誰も動かなかった。
一拍置いて、誰かが言った。
どこからか、小さく漏れた声だった。
「暗属性だ」
その声が、波紋のように広がった。
隣にいた子供が、半歩後ろに退いた。
後ろにいた親が、子供を引き寄せた。
魔法教会の関係者が、顔を見合わせた。
朱音は測定器の破片を見た。
石畳に散らばった欠片が、光を反射していた。光る欠片と、光を吸った黒い欠片が混じって、まだらに光っていた。
(また、始まった)
前世でも似た感覚があった。
包帯を巻いた女が通ると、人が距離を置いた。見えない線が引かれた。向こう側に行くことを、誰も望まなかった。誰も言葉にしなかったが、全員が知っていた線だった。
今も同じだった。
ただ今回は包帯がなかった。顔が出ていた。会場の全員に顔を見られながら、距離を置かれた。
完璧な令嬢スマイルを保った。
崩さなかった。
会場が少し動き始めた時、母のイレーナが動いた。
人混みをかき分けるのではなく、自然に流れるように、いつの間にか王家の役人の隣に立っていた。耳元で何かを言っていた。役人の顔が変わった。
それから別の方向で、ヴァレンシア家の縁者と思われる婦人が、周囲に向かって何か言い始めた。朱音には聞こえなかったが、周囲の反応が少しずつ変わっていった。
母が事前に言っていた、流す、というのはこういうことだった。
会場全体が反応する前に、反応の方向を決める。誰がいつどこで動くかを、事前に組んでいた。
測定器の破片はまだ石畳の上にあった。
朱音はその場を動かずに、静かに立っていた。
スマイルを保ちながら、目だけが動いていた。
誰が距離を置いたか。誰が顔を背けたか。誰が向こうを向かなかったか。
全部、見ていた。
前世でも戦場で同じことをした。まず観察する。誰がどこにいて、どう動くかを見る。動き出すのはその後だった。
会場の隅に、一人の少年が立っていた。
年は十一歳前後だった。金色の髪で、光属性の測定結果を出した子供だった。先ほど、一番大きな歓声を受けた少年だった。
その少年が、朱音を見ていた。
距離を置かなかった。
後ろに退きもしなかった。
代わりに、まっすぐに見ていた。好意ではなかった。敵意でもなかった。何かを判断しようとしている目だった。
朱音は少年と目が合った。
少年は視線を外さなかった。
会場の混乱が少し落ち着いてきた頃、役人が「次の方、お進みください」と言った。
測定会が再開された。
朱音は測定器の破片を最後にもう一度見て、それから前を向いた。
完璧な令嬢スマイルで、会場の端に移動した。
(また、始まった)
前世と同じだと思った。
しかし前世には母がいなかった。前世には、準備をしてくれている人間がいなかった。
今度は違う。
それだけが、また違った。




