第一話 誕生日の火
六歳の誕生日というものは、どうやら盛大に祝われるものらしい。
広間には蝋燭が並び、テーブルには色とりどりの菓子が積まれ、父も母も兄も、普段は滅多に揃わない家族全員が揃っていた。クロイツェル公爵家の令嬢として生を受けたエルシア・フォン・クロイツェルの、六回目の誕生日だった。
侍女たちが笑顔で祝いの言葉を述べる。兄のヴァルターが「エルシア、もう六歳だな」と頭を撫でてくる。母のイレーナが「大きくなったわね」と微笑む。父のライナルトは何も言わないが、それはいつものことだった。
エルシアは蝋燭の火を見ていた。
揺れている。
ゆらり、ゆらりと、風もないのに揺れている。赤い。赤くて、小さくて、しかしその小ささの中に何か確かなものがあって、エルシアはそこから目が離せなかった。
揺れている。
ゆらり。
ゆらり。
その瞬間だった。
走馬灯というものを、彼女はこの世界で知らなかった。
しかしそれ以外の言葉で言い表せないものが、音もなく頭の中に流れ込んできた。
血の匂い。
土の匂い。
夜の京の、石畳の冷たさ。
風が切れる音。刃が鳴る音。それを上回る、骨が断たれる鈍い音。黒い空。星もない夜。走る。走る。追われる。いや、追う。どちらだったか、もうわからない。
包帯が解けかけている。構わない。顔が見えたところで、誰も私の名前を知らない。
剣が重い。血で柄が滑る。それでも手放せない。手放したら、次の朝が来ない。
ここは京か。
いや、もう違う場所だ。
どこだ。
どこに、私は、
「お嬢様?」
声がした。
エルシアはゆっくりと目を上げた。侍女が心配そうにこちらを見ている。テーブルを囲む家族全員の視線が、自分に集まっていた。
何秒、黙っていたのだろう。
「まあ」
口が動いた。
自分の意思ではなかった。しかし確かに、自分の喉から声が出た。
「少し、蝋燭の火が綺麗で見とれておりましたわ。申し訳ございません」
違う。そんなことを言うつもりはなかった。
言うつもりがなかったのに、出た。
言葉が、勝手に出た。
侍女たちが「まあ、詩的なお子様ですこと」と笑う。兄が「エルシアらしいな」と微笑む。母は何も言わずに微笑んだ。父は、じっとエルシアを見ていた。
長い沈黙だった。
ライナルト・フォン・クロイツェルは、言葉を持たない男だった。感情を表情に出すことを知らない男だった。四十八年間を剣と共に生きてきた、この国で最も武骨と呼ばれる公爵だった。
その男の目が、今だけ、ほんの一瞬だけ、何か別のものを映した気がした。
しかし次の瞬間には元に戻っていた。
「食べなさい」
それだけ言って、父は菓子の皿をエルシアの前に押した。
エルシアは皿を見た。
頭の中が、静かだった。
嵐が来て、そして去ったような静けさだった。走馬灯は止まっていた。血の匂いも、刃の音も、もうしない。ただ六歳の体と、六歳の視野と、テーブルの上の甘い菓子だけがそこにあった。
しかし何かが、確かに変わっていた。
この体に流れ込んできたものを、エルシアは知っていた。知っているというより、それが自分だった。三十年以上をかけて積み上げてきた記憶が、今この瞬間、六歳の体の中に全て収まっていた。
名を、霧島朱音という。
京の夜を駆けた。新選組と剣を交えた。志士として戦った。女として隠れた。人斬りとして恐れられた。そして歴史のどこにも名前を残さないまま、消えた。
消えた、はずだった。
六歳の体の中で、朱音はゆっくりと息を吸った。
肺が小さい。空気の量が足りない。前世の感覚で吸うと、体がついてこない。
(……また、生まれたか)
菓子を一つ、口に入れた。
甘かった。
拍子抜けするほど甘くて、しかしそれが不思議と悪くなかった。前世で甘いものを食べた記憶が、ほとんどなかった。そういう余裕のある生き方を、したことがなかった。
兄が隣で「美味いか?」と聞いてくる。
(美味い。それは認める)
「ええ、とても美味しゅうございますわ」
また、出た。
勝手に出た。
朱音は口を押さえたかったが、もう遅かった。侍女たちが「まあ上品なお言葉」と言っている。兄が「そうか、よかった」と笑っている。
(私はそんな言い方をするつもりはなかった)
(ただ「美味い」と言おうとしただけだ)
(なぜ「とても美味しゅうございますわ」になる)
口の中で菓子の甘さが広がりながら、霧島朱音改めエルシア・フォン・クロイツェルは、この世界での最初の問題を把握した。
口が、言うことを聞かない。
蝋燭の火が、また揺れた。
部屋の中は明るく、暖かく、家族の声で満ちていた。
朱音はもう一度、その火を見た。
前世の最後の夜も、こんな火があったかどうか、思い出せなかった。たぶん、なかった。暗い夜だった。星もなかった。自分の行く末も、見えなかった。
今は違う。
蝋燭の火がある。家族の声がある。甘い菓子がある。
そして言葉が、勝手に令嬢らしく出てくるという、前世では想定したこともない問題がある。
(とりあえず)
朱音は菓子をもう一つ取った。
(生き直すか)
蝋燭の火が、静かに揺れていた。




