第三話(最終話)
◇
―――きっと彼は気付いているだろう。
態度は変わらないが、もう俺が犯人だということに気付いているはずだ。
風はあの日、俺の味方だった。
いつ罠を仕掛ければいいかタイミングがわからなくてハラハラしたが、低気圧のおかげで海が荒れ、成功したのだ。
博之を殺すことにためらいはなかった。
あんな高慢ちきな男こそ都会に出ていけばいいのに、親の力に頼りきってずるずると田舎でお山の大将面をしている。
長年言い伝えられた漁師たちのことわざを頭から否定して機械に頼りきっている様は、俺から見れば女々しいだけだ。
奴を殺したことは後悔していない、決して。
だが、彼に知られてしまったことだけは後悔している。一番知られたくない相手だったのに‥‥‥風はもう、俺の頬をなでることはない。疲れきった腕は上げることすらできなくなっている。
もう風は吹かない。
◇
「おーい、ゲン!」
振り向くと、辰也が浜辺から駆け登ってくるところだった。
「あいかわらず、必要がないくらい元気だな」
「そんなに褒めちゃ、イヤ」
手をぱたぱたと振りながらホホと笑う。
「気持ち悪いから、やめい!」
どうしても辰也と話すと漫才のようになってしまう。
「今から親父さんのお見舞いか?」
「ああ」
「親父さん、だいぶ悪かったんだな。俺、全然気付かなかったぜ」
「僕も全然気付かなかった」
親父は元気に歩いているのが不思議なくらい、病魔に体を蝕まれていた。
博之が殺されたあの日。高波の中なんとかして漁港に戻った直後、親父は意識不明の重体で救急車で病院に運ばれてしまったのだ。
もう手が付けられないくらい悪化していた。
ガン細胞を壊そうにも、親父の体力が持たないという。今はただ薬で痛みを和らげるしか方法がない。
「そうだ。僕、もうじき結婚するんだ。招待状を出すから出席して欲しいんだ」
あの日、漁港に戻ったら清香がいて、二人で重体の親父に付いて病院に行った。
第三星光丸の乗組員が『事故』で海に落ちたという知らせが漁港に入り、その知らせを聞いた清香は心配でずっと港で待っていたのだという。
博之が行方不明で、親父は重体でICU室の中にいる。不謹慎だとは思ったのだが、その場で彼女に再度プロポーズをした。
僕は海水で頭はボサボサ、手は真っ黒で汚い毛布に包まれた情けない姿だったのに、彼女はにこやかに微笑んで「はい。喜んで」と言ってくれた。
◇
「俺なんかが出ていいのか?」
「ああ。式はこっちで挙げるから」
「そうか。おめでとう」
辰也の顔には祝福の笑顔。
「式はいつだ?」
「今年の三月くらいには‥‥‥と思っているけど」
親父が生きているうちに式だけでも挙げてしまいたいのだが式場の関係上、そううまくは行かない。
「三月? あちゃ~。もしかしたら出港と重なっちまうかも‥‥‥」
結局、博之は三日後に死体で発見された。
捜索隊によって発見された死体は、体中が膨れあがって見れたものではなかったという。
死因は心臓麻痺。
真冬の海に呑み込まれたのだ。
溺れ死ぬより楽に死ねたのだから良かったと思わなければならない‥‥‥などと理不尽なことを監察医が言っていたという。一人息子を亡くしたショックを早く忘れるために博之の父親は母親と共にこの町を離れると聞いた。
第三星光丸は新井さんが買い取ったという。新井さんの息子が船長になり、新井さんが甲板員で漁を続けるという。
粕谷さんは友人のつてでオーストラリアで漁をするマグロはえなわ漁船で働くらしい。そして、辰也も粕谷さんと一緒に遠洋漁業に出るという。
「出港する日を教えてくれよ。粕谷さんにも出てもらいたいしさ」
「ああ。決定したらすぐ教えるよ。ところで、お前はどうするつもりだ?」
辰也が顔をのぞき込んでくる。
「しばらくは第三星光丸で働かせてもらう。働きながら無線と船舶の免許を取るつもりだ」
へえ、と辰也が感心する。
「もう東京には戻らないのか?」
「うん、もう戻らないよ。漁船の通信士になりたいんだ」
突然の方向転換である。
でも、漁船できびきび働く親父の姿を見て、僕は素直に格好いいと思った。
漁業は素敵な仕事だ。
体力的に甲板員は向かないと思うが、何か漁業に携わる仕事につきたいと思ったのだ。
「そっか。そのうち船の中で会えるといいな」
「そうだな」
心からそう思う。
遠洋漁業はアメリカ、カナダ、ブラジル、南アフリカと世界中の海を回る。一度出港したら半年は帰って来ない。家族とそんなに長い間離れるのは辛いが、やりがいのある仕事である。辰也には良く似合う仕事だと思う。
僕たちは病院の前で別れた。
親父に会っていかないのかと聞いたら「ベッドで寝ている姿なんて見られたくないだろうからさ、遠慮するよ」とのことだった。
病院に入り、親父のいる三階の病室を目指す。
◇
ノックして病室に入ると、清香がいた。
「元さん、どこふらふらしていたのよ」
唇を尖らせる。週末になると彼女はわざわざ僕のところまで訪ねてきてくれる。
「果物、冷蔵庫に入れてくるわね」
彼女はお見舞い品の籠盛のフルーツを持って、静かに病室から出ていった。
親父は、青白い顔をしてベッドに横たわっている。
点滴を受けている様は痛々しくて、これが第三星光丸でおおらかに笑っていた親父と同一人物かと疑いたくなるくらいだ。
親父は意識を回復している時間のが少ない。
あの日からもう二週間が経つが、一言も会話を交わしていなかった。
どう記憶を辿っても、博之殺しの犯人は親父以外いない。
皺くちゃの瞼がぴくりと動く。
ゆっくりと開く。
首をゆっくりと動かし僕と目線を合わせる。
口がぱくぱく動くが、声にならないらしい。
「親父、水だ」
僕はだく飲みを親父の唇に当てた。湿らす程度にのどに水を流し入れる。
「‥‥‥博之‥‥‥を‥‥‥」
すべてを言い終わらないうちに、僕は親父の言葉を切った。
「自業自得だよ。ワイヤーの上に乗ったら、海に投げ出されてしまうってこと知ってたはずだろ」
顔が引きつらないよう気を付けて、僕は微笑む。
「親父に最初に注意されていなかったらさ、僕もあんなふうになってたかもしれないんだな。ありがとう」
親父はほうっと安心した顔になった。
「粕谷さんと辰也が、三月にマグロ漁船に乗って出港するって。行き先はオーストラリアだそうだよ」
僕は微笑みながら続ける。
「第三星光丸の新しい船長は新井さんの息子さんで、僕もしばらくの間乗せてもらおうと思っているんだ」
僕の言葉に親父はかすかに目を見開いた。きっと僕は東京に戻ってしまうと思っていたのだろう。
「親父も、早く元気になっていろいろ教えてくれよ。新井さん親子と戸川親子で第三星光丸に乗って漁に出よう」
「‥‥‥そう‥‥‥だな」
親父の目から涙がはらはらと流れる。僕はタオルで涙を拭いながら軽口を叩く。
「年寄りは涙もろいなあ」
「うる‥‥‥せえ‥‥‥」
僕は最低な男だ。
博之の死の真実を世に公表するということをする気は毛頭ない。
そんなことより親父の安らかな死のが大切だ。
‥‥‥僕は何も見ていない。
そう、何も見ていない。
病院の帰り道。
僕たちは夕焼けを見ながら、砂浜を二人で歩いていた。
「あたしには、本当のこと話してくれるわよね? 今度こそ隠し事はなしよ」
そっと僕の手をつないでから、清香がそう言った。
「‥‥‥」
「また黙る。あたしってそんなに役に立たない? 一人で抱え込むより誰かに話したほうが気が楽になるわよ」
やはり黙るしかできない。
「そうやって一人で抱え込んでどうするつもり?黙っているってことは、他人には話すつもりがないってことよね。あたしって、あなたにとってまだ『他人』なの?」
清香はつないでいない手で、僕の手の甲をおもいっきり叩いた。
パチンッと良い音がする。
「痛いなあ」
「話しなさい! じゃないともっと叩くわよ」
口調は怒っているが、これは彼女なりの優しさの表れだ。
もし、僕がしゃべって後悔したとしても「あたしが無理やりしゃべらしたのだから」と、言ってくれるのだ。
「しゃべったら僕は忘れる。だから君も聞いたらすぐ忘れて欲しい」
清香は神妙な顔で頷く。
「‥‥‥驚くと思うけど、この前の第三星光丸の船長の遭難事故」
僕は言葉を切る。
「あれは事故じゃなくて‥‥‥殺人なんだ」
清香の手が僕の手をきゅっと握りしめる。
「船長の博之さんの左足用の長靴には、チヌ鈎が引っかけてあった。
底びき網漁業ではチヌ鈎なんてほとんど使わないし、博之さんはずっと漁を手伝わずに操縦室にこもっていた。だから、彼の長靴に偶然鈎が引っかかったてことはまず考えられないんだ。
博之さんは操縦室ではいつもスニーカーを履いていたという。長靴はいつも操縦室に置きっぱなしになっていたらしい。
たぶん博之さんが煙草を吸っている間、操縦室に入る前に、長靴に長い‥‥‥そうだな三メートルくらいの釣り糸の付いた鈎を、わからないように引っかけておいたんだ。
そして釣り糸はどこかわかりやすいところ、たとえば配管パイプか何かにくくり付けておいたんだと思う」
僕は唇をなめた。
「計画性はあるがよっぽど環境が整っていないと成功しない犯罪だ。犯人は偶然に賭けたんだと思う。船で嫌でも一緒になるんだからチャンスはいくらでもあるからね。
網を下ろす前、波が高くて甲板が濡れているところに博之さんを呼び出す。
彼はスニーカーを濡らしたくないはずだから、長靴に変えて出てくるはずだ。
そして彼が出てくるまでに釣り糸を網にくくり付ける。あとは海に投げ出された網の引っ張る力で海に放り出されるのを待つばかり‥‥‥
最初、粕谷さんが犯人じゃないかと思った。
仮眠室で寝ていなかったからね。でもその時は船は動いていたから操縦室には博之さんがいた。だから博之さんにバレないように長靴に鈎を引っかけるのは出港前じゃなければならない。
船に乗ってから、僕と新井さんと粕谷さんと辰也はずっと一緒にいた‥‥‥
甲板に博之さんを呼び出すことができたのも、長靴に鈎を引っかけることができたのも‥‥‥
親父しか、いないんだ」
清香は息を呑み込んだ。
「‥‥‥さて、ご飯でも食べに行くか」
僕は努めて明るく言った。
「そうだね」
清香が僕の腕に抱きついてくる。
あたたかい。
忘れよう。
見たことも、考えたこともすべて忘れよう。
博之には悪いけど僕には今生きている人たちが大切なのだから‥‥‥波が足下で踊っている。
風が、優しい。
◇
彼は‥‥‥元はすべてをわかっていただろうに俺を責めることも、問いただすこともしなかった。
俺の寿命のことを知っていて、知っているからこそ俺の罠に気づかないふりをしてくれた‥‥‥元がそうするなら俺も気付かれなくてほっとしている振りをしよう‥‥‥
風は前触れ。
憧れていた団欒の窓は一時だけ手に入った。
それだけで充分だ。
風が‥‥‥吹‥‥‥く‥‥‥風が‥‥‥
‥‥‥風を掴もうとした手が、力をなくしてゆっくりと落ちる‥‥‥
了
>>この作品を書き上げるのにあたり、漁業関係の資料を読みましたが、もし間違っている点などございましたら申し訳ありません。
ふじさわ、本気で漁業は素晴らしい仕事だと思っています。
>>作品自体はかなり古いものです。文章が現在と違う気がするのはきっと本人だけなんでしょうね。
予定は未定ですが、農業探偵で『第一次産業三部作』は完結予定です。
ご拝読ありがとうございます。