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第二話




 午前七時十分。

 また船内にベルが鳴り響いた。網を引き上げる合図だ。

 網を降ろして約二時間、船は水しぶきを上げながら約十キロほど進んでいる。

 親父がワイヤーを巻き上げる機械のスイッチを押した。ぐんぐんワイヤーが巻き上げられていく。

 青く澄みきった空に、海鳥たちが集まってくる。彼らは網からこぼれた魚を狙っているのだ。

 上がってきた網を船長の博之がウインチを使って吊り上げ、吊り上げた網を5人がかりで手繰り寄せる。網を開けると色とりどりの魚が甲板の上に躍り出た。ピンピン跳ね回っている。

はじめ。お前はこの袋に蛸を集めろ」

 親父に手渡された袋を持って、僕は蛸を集め出した。ミズダコが甲板に張り付いている。

「ゲン。そいつは足を使って力ずくで引きはがしたほうがいい」

 新井さんが親切に教えてくれる。

 新井さんと粕谷さんがカレイやヒラメを活魚として売るために、船底に取りつけられたいけすに投げこむ。辰也と親父がメバルやアナゴ、アイナメ等をそれぞれのかごに入れていた。

「また博之君は何もしないな」

 飽きれた表情を隠すことなく、新井さんが溜息を吐く。

「彼には、漁業が共同作業だという認識がないんだよ。俺たちのことを従業員か何かだと思っているんだ」

 粕谷さんが怒りの混じった声でつぶやいた。

「何様のつもりだか!」

 辰也は怒りをあらわに罵っている。

「この一年間、あいつの船で仕事をしてきたが正直言ってもう愛想を尽かした! 一年も我慢をすれば充分だ。俺は今月いっぱいでこの船を降りる」

「おいおい、タツ。本気か?」

「本気ですよ、俺は。新井さんはこのまま、この船に乗り続ける気ですか?」

「いや、俺は何も考えてないからねぇ」

「俺は、遠洋漁業をやってる友人から前々から誘われているんだが‥‥‥博之君が、船を降りるのを快く思っていないんだよな」

 粕谷さんの思わぬ告白にみんなの手が止まる。

「第三星光丸は気に入っているんだが、なにせ船長があれだからねえ」

 顎をクイッと操縦室に向ける。

「船長があれじゃ甲板員は付いていく気になれないよなあ」

 辰也がつぶやく。みんな辰也のつぶやきが聞こえなかったかのように黙々と作業を続けた。

 ――― 風が頬をなでた。









 魚の選別を終えた後、また最初と同じようにワイヤーに底びき網を付けて海に投げ降ろした。

「さあ、朝飯にしようか」

 粕谷さんが台所に駆け込んだ。第三星光丸での食事当番は粕谷さんと決まっている。約十五年間、彼はずっと船の上で料理を続けている。

 野菜炒めにあさりのみそ汁に大きな丼のご飯。いつもならとても食べきれないような量のご飯を、僕はぺろりとたいらげてしまった。ご飯にはかすかに塩の味がする。

「海水で米をとぐから、かすかに塩の味がするんだよ。なかなかうまいだろう?」

 粕谷さんが僕に説明をしてくれる。

 食べながら僕は頷く。こんなふうに必死にご飯を食べるのは久し振りだ。

 それにしてもみんな食べるのがムチャクチャ速い。噛まずに飲み込んでいるのではないかというくらい、バクバク食べていく。はたで見ていると気持ちいいくらいだ。

 食べ終った食器を粕谷さんが海水が出るホースで洗っていた。僕は彼の手伝いをした。

「ゲン。お前、本気で漁師になるつもりか?」

 突然の質問に僕は絶句する。

 一度や二度の漁ならやっても楽しいが、正直言って‥‥‥一生この仕事をしたいとは思えない。

「お前はどちらかというと、通信士とかそういうのが向いているんじゃないか? 無線の免許とか取ってみたらどうだ」

「‥‥‥そうですね」

 そうか、漁師ばかりが漁業に携わっているわけではないのだ。僕は粕谷さんの提案を本気で考えてみる気になる。



 午後三時。

 四回目の網の引き上げのときに新井さんが叫んだ。

「ありゃあ、こりゃひどい!」

 みんなで集まって見てみると、網が破れていた。そのせいで魚はほとんどかかっていない。

「海底の岩に引っかかってしまったんだな」

「とっとと繕ってしまおう」

 太い糸を通した木製の針を使って、みんなで黙々と網を修理する。

 網の修理は子供のころにさんざん手伝わされたから覚えている。覚えているが慣れていないからみんなの半分くらいスピードでしか直せない。

 粕谷さんと新井さんなどはペチャクチャしゃべりながらも手はものすごいスピードで網を直している。

 職人技だな。









 午後六時くらいから、海がしけだしてきた。

 午後七時の、六回目の網の引き上げ時には波しぶきが激しい音をたてて頭の上から降り注いでくる。船体がぐらぐら揺れる。

「こりゃ、低気圧だな」

 見ると、空がだんだん薄暗くなってくる。

「博之君! おい、船長!」

 親父が操縦室に向かって叫ぶ。

 しばらくして、険悪な顔をした博之が操縦室から出てくる。波しぶきと高波のせいで体が安定しない。なさけないことに腰が引けているらしい。

 まあ、僕も人のことを言えたものじゃないけれど。

「もう引き上げよう! すぐ視界が悪くなって漁どころじゃなくなる!」

「まだだ! あと一度くらいできるだろう!」

 博之は人の言うことに耳を貸さない。

「わかった‥‥‥」

 怒鳴り返すだろうと思っていたら、親父はあっさりと甲板に戻り網を海に投げ降ろし始めた。

「うわあああああああ!」

 叫び声とともに人形が宙に舞う。

 いや、人形ではない。

 博之だ。

 博之の体が空中にぽーんと飛んで、まるで高波に引き込まれるように海中に消えた。

 ――― 博之が海に呑み込まれた。

「た、大変だ!」

 みんな為す術もなく、彼を呑み込んだ海を見つめていた。

 一番最初に覚醒したのは親父だった。

「船を止めろ! 辰也は無線で周りの船に救援を呼んでくれ。新井さんは操縦室を頼む。洋一は元と一緒に向こう側で網を引いてくれ!」

 真冬の海に博之は投げ出されたのだ。

 生きている確率は低いだろう。

 だが、もしかしたら運良く網に引っかかっているかもしれない‥‥‥僕たちは大慌てで網を引き戻す。

 波しぶきが体中にかかる。かかると言うより殴られているようだ。海水が意識を持っているかのように、したたかに僕らの体を叩く。

「最悪だ‥‥‥」

 親父が持ち上げたところは前に破れた箇所だった。大きな穴がぽっかり開いている。もしかしたら網に引っかかっているかもしれないという希望は断ち切られたのだ。

「‥‥‥とにかくウインチを使って網を全部引き上げましょう。博之君のことはタツが漁港から何か指示を受けるでしょうし」

 粕谷さんが、努力をして作ったらしい冷静な声で親父に提案した。

「そうだな」

 固い顔で親父が答えた。

 ウインチを使って何とか網を引き上げたが、引っかかっていたのは海草と博之の左足用の長靴だけだった。

 僕はその長靴を網から外した。

 キラッと何かが光る。

 不思議に思い、その光った場所を捜してみた。網に引っかかっていたのはチヌ鈎だった。一.五センチメートルくらいの小さなハゼ釣りなどで使う鈎に、かなり強い力で引きちぎられたらしい釣り糸がつながっている。

 長靴のほうを良く見ると外側に小さな針であけたような穴があった。

「元! 早く操縦室に来い! 風邪をひくぞ!」

 僕はガクガク震える手で、なんとか網から鈎を取り外した。

 一瞬迷ったが鈎をポケットにしまい、博之の、たぶん遺品になるであろう長靴をもってみんなが集まっている操縦室に向かう。

 博之が海に投げ出されたのは殺人だった。

 犯人は第三星光丸の中にいる。

 ‥‥‥風が僕の頭を殴りつける。


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