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第一話

 かなり昔に書いたお話です。漁業→林業の順で書いています。後は農業を書き終えれば三部作が完成する予定です。

 林業に比べて2時間ドラマ臭が強いと思います。



 風は前触れ。

 蛇のように、空中でうねる風は、まるで命を持っているようにすら感じる。

 夜。

 海の色より星空のが明るい。空は真珠を散らしたかのように眩しい。見上げる星空は自分とは掛け離れた世界のようだ。

 まるで遠くに見える家族団欒の窓。

 望むことは簡単だが手に入れるには大変な努力がいる。

 手を伸ばせば届く距離にあるように見えるが、本当は気が狂いそうになるくらい遠い場所にある。

 届かぬからこそ、絶望し、渇望するものだ。

 狂おしいほどの思いに胸を掻き毟られ、悶え苦しむ。


 そろそろ楽になりたい。

 もう、疲れた。


 また風が通り過ぎる。

 巻き上がる風、渦巻く風、叩き付ける風、優しく頬を撫でる風。

 風が吹く。

 これから起きることに風が歓喜の歌を歌っているのだろうか。

 たとえ思い違いでも良い。

 この風は俺の未来にある幸福の前触れだ。

 俺は空中の蛇を掴むように拳を握った。

 疲れている腕を風を掴むように空に翳す。

 風は総ての前触れだ。

 だからこそ俺は‥‥‥











 F県****市。緑の多い田舎だ。

 周りは田んぼと家と漁港しかない。

 小学校と中学校は田んぼの真ん中にひょろりと建っているし、夜中に外に出れば電気がほとんど点いていないから天の河が見える。漁港の側は幾分民家が連ねていて、「蛸せんべい」や「えびせんべい」を製造直売している小さな店もある。

 防波堤に囲まれた漁港には、百五十隻あまりの漁船が停まっている。

 ここはそんないたって平凡な田舎な町だ。

 紹介が遅れたが僕の名前は戸川元。

 今年で二十七才になる。

 ちなみに名前は「元」と書いて「はじめ」と読む。たいてい「もと」と読まれてしまうのだが、「ゲン」と呼ばれるよりはよっぽどマシだ。

「おーい、ゲン!」

 早速トラウマの原因がやって来た。

「なんだー、タツ坊?」

 僕は思いっきり不機嫌な声で、呼びかけてきた青年に返事をした。

「やめてくれよぉ~。俺がその呼ばれ方嫌がってるの知ってるくせに。それより! お前を捜してる美人がいるぜ」

「美人?」

 僕には美人の友人などいない。

 きっと都会からUターンしてきたことを聞きつけた保険の勧誘員か何かだろう。

「ソバージュの美人さん。もうっ、ゲンさんたら隅に置けないねえ」

 タツ坊こと市川辰也が、ドラマに出てくるどこかの飲み屋のおかみさんのようなシナを作って肘をつついてくる。

 辰也は小さなころに母親をなくしていて祖母に育てられていた。そのお祖母さんの辰也の呼び方が「タツ坊」なのである。

 辰也の父親が僕の父と同じ職場のせいか、僕たちは小さなころからよく一緒に遊んだ。年中笑っていて、悩みがまるで無いような明るい男である。

 彼がいるとその場が華やぐ。そんな性格の彼が羨ましくなるときもあるが、僕は呆れているときのが多い。

「きっとセールス・レディか何かだよ」

 素っ気なくそう言うと辰也は「そうだよな、ゲンにあんな美人の彼女が出来るなら俺には山口智子のような奥さんが出来るはずだからな」などととんでもないことを言っている。

「お前なあ、朝子さんにチクるぞ」

「うわっ、それだけは勘弁してくれ!」

 辰也は心底情けない顔をしている。

 そんなに奥さんとは怖いものなのだろうか。独身の僕には分からない。

「とにかく家に戻るよ。じゃあ、明日港で」

「ああ、親父さんによろしくな」

 軽く手を上げて別れた。今までいた堤防から家までの道をゆっくりと戻っていく。それほど離れてない所に建っている、古ぼけた茶色いトタンの僕の実家の前には、チャコール・グレーのコートを着た女性が立っていた。

「元さん」

 つい数日前まで勤めていた会社の経理部の子で僕の恋人だった女性、伊藤清香いとう せいかである。

 会社を辞めて父の仕事を手伝うと言った時に、冷たく突き放した女だ。

「話があるの。少し付き合って」

「僕には何も無い」

 平行線だ。

 もう彼女と語りあうことなど無い。

「あたしがあなたの傍にいたいと言っても? 確かに漁師の奥さんになるなんて全然考えてなかったことだけど、でもあなたと別れることに比べたらそんなこと‥‥‥」

「いきなり考えが変わるんだな」











 前の職場は椅子を造る会社で、僕はコンピュータ入力や電算などのバックアップなどを受け持っていた。今は何でもコンピュータを使う時代だから、会社からすればかなり重宝する人材だったはずだ。

 「もうじきシステム運用課を作る予定だから、そこの係長に推薦しておこう」とまで言われていた。

 前途洋々な筈だった。

 そんな時に親父の危篤の知らせが入ったのだ。

 慌てて戻ってきてみると、親父は元気でピンピンしていた。

 人を騙したくせに全然反省する様子もなく、反対に会社を辞めて家に戻ってこいとしつこく説教を始めた。

 漁船はどうする気だとか、網を捨てるなど俺の目が黒いうちは許さねえとか、勝手なことをヌカす。なぜ親の職業に子供が縛られなければならないのか。あまりの理不尽さ、親の身勝手さに腹が立ち怒鳴り返そうとした所で母さんと目が合った。

 疲れきった苦痛に満ちた顔で、静かに首を横に振っていた。

 ――― 嫌な予感がした。

 予感は的中した。

 親父は胃ガンだった。

 長くみても半年の命だという。

「お願いよ。元。父さんの言うこと聞いたって。もう永く無いんだから、一度でいいから一緒に漁に出てやってちょうだい。父さんの長年の夢なんだからさ」

 病院の屋上で、母さんは涙をはらはらと流しながらこう言った。

 今まで母さんが泣いた姿など見たことが無かった。東京の大学に入ってから独り暮らしを始めてもう九年近くが経つ。久しぶりにゆっくり見つめる母さんは小さく感じた。こんなに肩は薄かっただろうか。髪の毛はバサバサで所々白髪が見える。

 一言で九年と言ったが、あっという間に過ぎた訳ではない。

 流れる月日は、ゆっくりゆっくりと父の体を蝕み母から健やかさを奪っていったのだ。

 母さんは一度でいいからと言うが、そんなことをすれば親父は自分の体の異変に気付くはずだ。

 親父の夢だという「親子で漁に出る」を叶えてあげるのならば、まずは僕の考えが変わったことにしなければならないだろう。故郷の空気が恋しくなったとか人間関係に嫌気がさしたとか、理由は何でもいいから自分から戻ってくるということにしなければならない。

 親父の夢だというのならば叶えてやりたい。

 辞めたと親父には言っておいて会社は長期休暇願いか何かを出しておけばいい。

 半年の辛抱だ。

 冷たい息子だと思われるだろうが僕には親父の仕事、漁業を受け継ぐつもりは毛頭ない。

 ‥‥‥漁業は体力が第一だ。

 だが僕は筋肉などまるでついていない優男だ。

 コンピュータをいじっているほうが性に合う。ところが世の中とは理不尽なもので社内でリストラが敢行され始めたのだ。

 突然の肩たたき。

 会社側はコンピュータに関するエキスパートをヘッドハンティングしてきて、一機種しか扱えない者や設計に関してはまるで無知な者を御払い箱にし始めた。

 僕も例に漏れなかった。「係長に~」というのは方便だったらしい。

「君はまだ若いのだからいくらでも職は見つかるよ」

 そんな言葉とともに僕は五年間、真面目に勤めた会社を追い出されたのだ。

 形は「退職願いを受理した」ということになっているが実際は追い出されたのである。

 ――― そんな屈辱的なことをたとえ恋人であろうと言える訳が無い。プライドが許さない。だから彼女には親父の病気のことだけを話し故郷に戻ると伝えた。そしてできたら僕に着いてきて欲しいとも伝えた。

 伝えたが返事はNOだった。

「あたしは田舎で暮らすことなんて出来ないわ。朝早くに起きて市場に魚を持っていって‥‥‥なんて暮らしは我慢出来ない」

 「にべもない」というのはこういう時に使うのだろう。

 考える間もなく、彼女はすぐにこう返事をしてきたのだ。三年間の付き合いなど生活や一生が懸かってしまえば意味の無いものになってしまう。

 その時、恋の無意味さを初めて知った。


 僕は傷心を癒すことなく故郷に帰ってきた。

 もう東京で新しい職を探す気になれなかった。

 ヤケになっていたのだ。

 だけどそんな僕にも故郷は変わりなく優しかった。何にも無い所だけど、その何にも無い所が優しい。ただ目の前に広がる海も、空も、吹く風も優しい。そんなことを考えながら無為なまま数日を過ごした。

 そして明日九年ぶりに漁に出る。

 そんな僕の目の前に清香が現れたのだ。












「だって‥‥‥元さん、もう会社を辞めたなんて一言も言わなかったじゃない! だからキツイことを言えば考え直すんじゃないかって思ったのよ」

 そういえば、彼女には故郷に帰って漁師になるとしか言っていない。

「どうして何も話してくれなかったの? 会社の人からあなたが辞めた本当の理由を聞いたわ。あたしってそんなに信用出来ない?」

 清香は怒りながら泣いている。

 悲しくて泣いているのではない。

 あまりにも腹が立つと涙が出ると前に言っていた。

 清香は辰也が太鼓判を押すくらいの美人だ。泣いている顔ですら綺麗だ。そんな彼女には東京が似合う。

 市場でリヤカーを引いて魚を運ぶ姿より、夜の洒落たバーでカクテルを飲むほうが似合う。

 彼女の泣き顔を見つめながらそんなことを思った。

 会いに来てくれて嬉しい気持ちと、僕と一緒になることで彼女が鄙びてくるのではないかという不安とが、心の中でゴチャゴチャになっている。

「‥‥‥続きは今度にしないか? 明日二時に起きて漁に出るんだ。だから、もうそろそろ夕飯食べて寝ないと起きれそうにないんだ」

 なるべく彼女のほうを見ないで僕は言った。

 泣いている彼女の横を通り過ぎようとした時、袖を引っ張られた。

「あたし港で待ってるから」

「‥‥‥ああ」

 結局、清香の瞳を見ないまま家の中に入った。

 情けない。

 僕はいつもこうだ。

 優柔不断な僕の性格が、いつも彼女を怒らせ、泣かせている。

 やっぱり僕といることは彼女のためにならないのではないだろうか。清香は聡明な女性だ。経理部でもかなり重要な仕事を任されていて、バリバリと熟している。そんな清香に田舎で漁師の奥さんをさせるということは、彼女の才能と可能性を潰してしまうことになるのではないか?

 プロポーズした時には浮かばなかったことが脳裏に浮かぶ。

 一時の熱で仕事を辞めてしまったら後々彼女は後悔をするだろう。

 まだ彼女は二十四才だ。

 美人だからすぐに新しい恋人も出来るだろう。僕は身を引いたほうがいいのだ。だが、そんなことをして、僕は彼女を思い切れるのか‥‥‥?











 僕が乗るのは、沖合底びき網漁船『第三星光丸だいさんせいこうまる』だ。港には十八隻の底びき網漁船があるが、二十九トンの第三星光丸は一番大きな船になる。

 底びき網漁業とは海底にいる魚を袋にした網で海底を引きずって取る漁業で、一隻で引く方法と二隻で引く方法とがある。

 第三星光丸は一隻で漁を行う。


 午前二時に起きて、船主であり船長である勝野博之が運んできた食料や毛布などを、乗組員がリレー式でてきぱきと船に投げこんでゆく。

 博之は僕と辰也よりひとつ上で、一年前に父親に代わって第三星光丸の船長になった。衛星探知機や、自分で改良した魚群探知機に頼りきっているせいかまだまだ魚が全然かからない空網を起こすという。

 いつも冷笑を浮かべ、船長というのを笠に着て甲板員ともめ事を起こしているらしい。

 魚がいる場所を捜し出すのは海面の色や魚の飛び具合、風の具合、海鳥の飛び方などを見てカンで見つけるのだが、まだまだ経験が足らないため第三星光丸では特別に漁労長という現場主任のような役目を親父がしている。

 だからこそ、よけい親父とは仲が良くない。

 そのせいか息子の僕に対する態度も褒められたものではない。

「ゲン、なれない早起きで眠いだろう?」

 甲板員の新井修一が笑いかけてきた。四十くらいののんびりしたおじさんで主に捕った魚を仕分けるのが仕事だ。

「大丈夫ですよ」

 正直言ってあんまり大丈夫ではない。

 清香のことを考えて結局寝たのは十二時を過ぎていた。

「お前らしゃべっとらんでさっさと荷を回せ!」

 漁労長の親父、戸川高司が怒鳴る。

「タカさん、博之君が呼んでるぜ」

 もう一人の甲板員の粕谷洋一が親父を呼んだ。

 第三星光丸に今日の漁では六人乗る。たいてい四人だからかなり人数は多い。だが船長になって一年の奴に今日が九年ぶりの漁の僕がいるのだから六人でも少ないくらいだと思う。もう一人の甲板員は辰也である。

「やっぱり、出港する気か?」

「山の上の三日月が水平に見えるから‥‥‥なんていう迷信に振り回されて出港しないなんて馬鹿げていますよ」

「言い伝えがすべてとは言わん。だが海の色も少しおかしいじゃないか」

「おじさん、臆病すぎませんかね。天気予報だって晴れだと言っているし、雲も出ていない」

「お前は海の天候を甘く見ている!」

「『船長は船員の命を預かる大事な仕事だ嘗めてかかるんじゃない』でしょ。もう聞き飽きましたよ。それに天候がおかしくなったらすぐ戻ればいいじゃないですか」

 博之は大袈裟に手を広げて捨て台詞のように言う。

「おじさんみたいな頭の固い頑固ジジイが多いから、いつまでたっても漁業はダサイ仕事だと言われるんですよ」

 親父の手ががくがくと震えている。

 殴りたくてたまらないのを無理に押えつけているのだろう。

 親父が言うとうり、山の上の三日月は水平に見える。星が散らばるように瞬いているなか、ぽっかりと浮かぶ水平の三日月は羊の瞳を連想させる。

 博之は言いたいことは言ったとばかりにスニーカーの踵を反し背を向け第三星光丸に乗り込む。

 荷を船に積む気はないらしい。

「親父」

 まだ怒りのあまり立ちつくす親父に、僕は声をかけた。

「魚がたくさん取れるといいな。まあ、それより僕は船酔いしないかどうかのが心配だけどな」

「‥‥‥」

 博之に対して何も言わない僕を、親父は怪訝そうに見つめる。

 僕にはどちらが正しいかはよくは分からないのだから、何とも言えはしない。

 博之のことは快くは思わないが、そんなことを親父に言っても仕方がない。

「酔い止めの薬、飲んでこれば良かったかな」

 何とも言えないのだから僕は違う話を続ける。

「ばかやろう。そんな生っちょろいこと言っとるな。一か月も乗っとれば慣れる」

「うげ~。一か月も我慢出来るかなあ」

 親父は僕の嫌そうな顔を見て大笑いをした。

「笑うことないだろう」

「スマン、スマン」

 親父はバンッと僕の背中を叩いてからみんなのところに戻った。

「うちの船長は気難しがり屋だから、早く出港の準備を済ませちまおう」

「ほーい」だの「オウ」だのそれぞれの個性に合った返事が返ってくる。

「元。お前も早く手伝え!」

「はい!」

 僕は側にあった毛布を、船にむかって放り投げた。







 午前三時に第三星光丸は出港の準備を完了した。

 同じように朝早くから出港する船で意外と港は明るいのだが、目の前に広がる海はどこからが空でどこからが海なのかよく分からないぐらい薄暗い。

「やっぱり今日は出る船は少ないな」

 新井さんがのんびりと周りを見渡して言う。

「なかなか判断が難しい天気ですからね」

 粕谷さんが答える。粕谷さんはいかにも『海の男』という感じのおじさんだ。実際は僕らとは五つも違わないのだが十才くらいから漁に出ているせいかやけに落ち着いているし、顔も髭モジャでよけい年を取っているように見える。

「新井さんと粕谷さんだったらどうします? 漁に出ますか?」

 後ろから辰也が聞いてくる。

「俺だったら出るぜ。荒れそうならすぐに戻ってくればいいしな」

 粕谷さんが快活に答える。

「ハハハ。洋ちゃんらしいねえ。俺だったら休んじゃうかなあ。もし空網とか、すぐ戻ってこないといけないとかになったら損なだけじゃないか」

「俺だったら出ますよ。もし大漁だったら、港に残っている奴等に自慢出来るじゃないですか」

「タツらしいねえ」

 粕谷さんはいつでも元気な辰也をにこにこ顔で見ている。

「ゲンだったらどうする?」

 新井さんに話の矛先を急に向けられて、僕は慌ててしまった。辰也が助け船を出してくれる。

「新井さん。ゲンは九年ぶりの漁なんだから‥‥‥」

「いや、初心者の意見も聞いとかないとね」

 僕は考えつつ答える。

「一度、統計とか取って言い伝えがどれくらい信憑性があるか確かめないと分からないですけど‥‥‥僕だったら出しません。漁が出来なかったら赤字になってしまいますからね。ゆっくり休んで天気のいい日に挽回します」

 真面目に答えた僕を待っていたのは三人の大爆笑だった。

「な、何で笑うんですか?」

「いやあ、ゲンは本当にタカさんと正反対だな」

「本当に」

 三人はゲラゲラ笑っている。

 失礼だなあ。

「何をやってる! 早く寝ろ! 出港するぞ!」

 甲板で今まで煙草をふかしていた博之が怒鳴った。

 怒鳴るとすぐに博之は操縦室に消える。

「寝るとしますか」

 辰也が頭を掻きながら言った。

 今までの穏やかな雰囲気は一瞬に消え、妙な白々しさが残った。

 ‥‥‥船が動き出した。

「そうだな」

「あれ、タカさんは?」

 そういえば親父の姿が見当たらない。

「もう仮眠室にいるんじゃないか? 最近疲れやすいって言ってたし、病み上がりだからな」

 みんなで機関室の上の仮眠室に向かう。

 するともう親父が横になっていた。

 仮眠室の中はエンジン音が響き、熱気で蒸し暑い。

 今日はやや波が高いらしくて船体は激しく揺れる。こんな状態で仮眠出来るのだろうか。

「ほら、毛布」

 辰也に渡された毛布に包まって体を横たえる。

 ゴウンゴウンというエンジン音に耳が集中し、慣れない揺れで気持ち悪くなる。全然寝ていないのだから熟睡できるだろうと思っていたが、反対に目が冴えてしまった。

 グルグルと胸の中で渦巻きが起こっているようだ。口が乾いてきてだんだん脂汗が滲んでくる。室内の熱気でよけいに気持ち悪さが増す。

 しばらく寝ようと頑張ってみたが吐き気が込み上げてくるだけだ。僕はみんなを起こさないように気をつけてベッドからすり抜けた。

 目が慣れたせいか空が明るく感じる。吹きつける風が心地いい。

 吐き気が治まった訳ではないがいくぶん楽になった。

 ゴウンゴウンとエンジン音が響く。

 僕は仮眠室のドアに凭れ掛かった。

 空に満天の星。

 オリオン座はもちろんのこと、その側の古代ギリシャで兵役のための視力検査で使われたという小さな星まではっきり見える。

 静かに目を閉じた。

 清香とのことをどうしよう。

 寝不足になるまで考えたが、どうすればいいのか僕には分からない。

「!」

 突然のベルによって考えを中断させられた。

 リリーン!

 リリーン!リリーン!

 けたたましく鳴るベルに僕は慌ててしまった。

 仮眠室のドアが乱暴に開けられ、僕はしたたか頭をぶつけてしまう。

 かなりすごい音がしたのだろう。

「大丈夫か?」と辰也が心配そうに聞いてくる。

「元。行くぞ」

 辰也の後ろにいた親父がはっきりした声でいった。

 漁が、始まる。










 みんなゴムの作業服を身につけている。僕は慌てて仮眠室に戻り作業服を身につけた。ふと時計を見た。

 午前五時。

 ドアが乱暴に開き、粕谷さんが仮眠室に戻ってきて、さっさと着替え始める。

 早い。

「先に行くぜ」

 粕谷さんはそう言うとさっさと仮眠室を出ていく。

 僕も慌てて彼に着いていった。船の前方ではすでにワイヤーを巻いた機械が動き出している。

 ダーン、ダダーンと轟音が響く。耳がおかしくなってしまいそうだ。

「元はタツと洋一の間に入れ! 洋一は元の付けた所がちゃんとなっているか見てくれ! 元! 絶対にワイヤーに足を乗せるな! 足を取られると海に放り出されるからな!」

 キビキビと指示をだす親父は頼もしい。

「はい!」

 僕は大きな声で返事をすると持ち場に着いた。

 辰也と粕谷さんと僕で底びき網を取り付け、親父と新井さんが海にワイヤーを下ろしていく。船が動き始めた。海に投げ出されたワイヤーはするすると伸びていく。

 底びき網漁で使うワイヤーは、網の長さを合わせると六百八十メートルにも及ぶ。

 乱獲になりやすいから普通の漁で使う網より目を大きくして、小さな魚は逃げられるようにしてある。

 だが、それでも少しはかかってしまう。

 二時間後のことを考えると頭が痛い。

 甲板いっぱいに引き上げられた魚を、いちいち選別しなければならないのだ。

 小魚を海にかえし、魚を種類別に分けなければならない。

 たった少しの間の、網を投げ降ろす作業で僕の手はビリビリしている。

 ただでさえ船酔いでむかむかしているのに、それなのに生臭い魚を相手にしなければならないなんて。

 やっぱり僕には漁業は向いていない。

「ゲン。見てみろよ」

 辰也に促されて顔を上げると、黄金色の海が広がっていて陸地はもう見えない。

 地平線にオレンジ色の雲がたなびいている。

 空は上から水色、薄紫、オレンジと綺麗にグラデーションしている。

「綺麗だな‥‥‥」

「俺が?」

 僕は思いっきり辰也の頭を殴りつけた。

「あいたたた。ひどいなー。真実を聞いただけなのにぃ」

「もう一発いるか?」

「いらん、いらん。もう結構です。‥‥‥それよりさ昨日の美人さん、やっぱりお前の彼女だったんだな」

「昔の、だけどな」

「うそつけ。お前はいらんところで素直じゃないからな。そのくせ直したほうがいいぞ」

 辰也は辰也なりに気を使ってくれている。

 そういえば、僕は誰にも故郷に戻ってきた理由をしゃべっていない。

 知っているのは今、町のどこかの旅館で泊まっているはずの清香と前の会社の上司と総務部の連中だけである。

「そうかもな」

 僕にしては珍しく素直にうなずいた。

 それからの二時間は博之以外のみんなで甲板で他愛ないおしゃべりをして時を過ごした。

 やっぱり胸のムカムカは治まらない。

 酔い止めを飲んでおけば良かったと後悔した。

 風が頬を叩く。




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