第八話 王太子との決別、そして
招待状が来たのは、三日後だった。
王太子主催の小さな夜会。
出席者は限られた顔ぶれで、リリエラの名前もそこにあった。
「行かなくていいのでは」
マリアが、珍しくはっきりと言った。
「……行きます」
「なぜ」
「逃げたくないので」
マリアは何も言わなかった。
ただ、今夜一番の礼装を出してきた。
夜会は王宮の小ホールで開かれた。
煌びやかだった。
シャンデリアが光を散らして、人々の衣装を照らしていた。
リリエラは入り口で一度だけ深呼吸して、中へ入った。
人垣をいくつかかわしながら、飲み物を受け取った。
「来てくれた」
振り向かなくても、声でわかった。
「殿下」
アルフォンスは今夜、よく整った顔をしていた。
礼装も完璧だった。完璧すぎて——何かを隠しているように見えた。
「少し話せるか」
また、その言葉だった。
今夜もそのつもりで来た。
リリエラは頷いた。
窓際の人の少ない場所へ移動した。
アルフォンスはしばらく、庭の暗がりを見ていた。
話し始めるまでに、間があった。
それがいつもと違った。いつもはすぐに話し始める人だった。
「リリエラ嬢」
「はい」
「私は‥」
また、止まった。
リリエラは待った。
「私は‥君を軽く見ていたと思う」
静かな声だった。
いつもの、よく通る声ではなかった。
少し——絞り出すような声だった。
「婚約期間中、君が何を考えているか、考えたことがなかった。君が何も言わないから、何も考えていないと思っていた」
「……」
「それは、傲慢だった」
リリエラは少し驚いた。
この人がこういうことを言うとは、思っていなかった。
謝罪の言葉は何度か来たが——それは体裁を整えるための言葉だった。今の声は、違った。
「……殿下」
「だから——もう一度、と言いたいわけではない」
アルフォンスが、リリエラを見た。
「君があの夜会で言ったこと。選びたい、と言ったこと。あれは——正しかったと思う」
リリエラは何も言えなかった。
「ショコラオランジュ公爵は、信頼できる男だ。私は好きではないが——信頼はできる」
「……」
「君を守れるのは私だけだ、と言おうとしていた」
「……はい」
「言えなかった。嘘になるから」
窓の外で、夜風が木の葉を揺らした。
リリエラはアルフォンスの横顔を見た。
脆いと思ってしまった。
体裁を重視する人間の内側は——案外、脆い。
鎧が重いほど、中身が心細い。
この人も——そういう人だったのかもしれない。
「殿下」
リリエラは言った。
「ありがとうございます」
「礼を言われることは、していない」
「本当のことを言ってくださったので」
アルフォンスが黙った。
しばらくして、小さく笑った。
自嘲のような笑いだった。
「君は——不思議な令嬢だな」
「よく言われます」
「……分かった、本当は圧力をかけてでも振り向いて欲しかったが‥無理そうだな」
アルフォンスは自嘲気味に告げた。
「幸せになれよ!」
それだけ言って、アルフォンスは歩き去った。
背中を見送りながら、リリエラは思った。
怒りはなかった。憐れみも、なかった。
ただ——終わった、と思った。
何かが終わった。
帰り道、馬車の中で手帳を出した。
暗くてよく見えなかったが、書いた。
終わった。
次を始める番だ。
手帳を閉じたとき、馬車が大きな通りに出た。
沿道の街灯が、窓から差し込んだ。
リリエラはそれを、少し眩しいと思った。
翌朝、手紙が来た。
公爵からだった。
今週の土曜日、時間があれば、領地の改善案について、意見を聞きたい。——L
三行だった。
少し増えた、とリリエラは思った。
最初は一行だった。二行になった。
今日は三行。
そう思ったら、なんだかおかしくなった。
声には出さなかったが、笑った。
「どうされましたか、」
マリアが不思議そうな顔をした。
「……なんでもない」
「最近、よく笑っておいでですね」
「そう?」
「ええ、以前より」
リリエラは少し考えた。
「……そうかもしれない」
土曜日、公爵邸を訪ねた。
今回は応接室ではなく、書斎に通された。
書斎は、公爵らしい部屋だった。
余分がなく、必要なものだけがある。
本棚は天井まであって、全部埋まっていた。
窓が大きくて、庭の緑が見えた。
「座ってくれ」
公爵は机の前に立っていた。
手に書類を持っていた。
リリエラは椅子に座った。
「先日の帳簿の件で、いくつか追加で確認したいことがある」
「はい」
「輸送ルートの変更について、現在の担当者が代替案を三つ出している。コスト面で見ると——」
公爵が書類をリリエラの前に置いた。
リリエラは数字を見た。
「……この二案目は、計算が合っていないと思います」
「どこがだ?」
「季節変動のコストが織り込まれていません。冬季の山越えルートは、通常期の一・四倍かかります。それを入れると、三案目の方が年間コストは低くなります」
公爵が書類を取り上げた。しばらく見た。
「……確かに。その通りだ」
「担当の方も、数字は合わせているつもりでいると思います。ただ変動費の扱いが——」
「わかった、修正させる」
公爵が椅子に座った。
リリエラと正面から向き合う形になった。
少し、近かった。
書斎は応接室より狭かった。
机を挟んでいても——応接室のソファの距離より、近い気がした。
「……他にも確認点はありますか」
「ある」
公爵が次の書類を出した。
リリエラは数字に集中しようとした。
集中——しようとした。
なぜか今日は、公爵の声が近く聞こえた。
書斎が狭いからだろうと思った。
窓から入る光の角度が、公爵の横顔を照らしていた。
横顔、が。
「……ライムブリュレ嬢」
「は、はひっ」
声が少し大きくなった。
公爵が僅かに眉を上げた。
「大丈夫か」
「……はい、失礼しました。続けてください」
「この収支表の——」
「はい」
「……ライムブリュレ嬢」
「はい」
「書類が、逆だ」
「……へ?」
手元を見た。
書類を逆さまに持っていた。
しかも気づかずに、数字を読もうとしていた。
「っ……」
リリエラは書類をそっと、正しい向きに持ち直した。
公爵は何も言わなかった。
ただ——口元が、確かに動いていた。
「わ、笑っていますか」
「笑っていない」
「笑っています」
「……少し」
少し、と認めた。
リリエラは恥ずかしくなって、書類に視線を落とした。
「集中していなかったのか」
「……していました」
「書類が逆でも?」
「……少し、ぼんやりしていました」
「何を考えていた」
聞かないでほしかった。
聞かないでほしかったが——この人は、待てる人だった。
待てるから、返事を強要しない。
「……横顔が」
言いかけた。
止まった。
言いかけたことに、自分で気づいた。
公爵がリリエラを見た。
「横顔が?」
「……な、なんでもないです」
「なんでもない、ではなさそうだが」
「なんでもないですっ」
「そうか」
引かなかったが、追わなかった。
リリエラは書類を、今度はちゃんと正しい向きで持った。
集中した。
今度は、ちゃんと集中した。
ただ——頬が、ずっと少し熱かった。
仕事が終わって、帰り際に公爵が言った。
「今日は助かった」
「いいえ」
「礼を受け取れ」
「……ありがとうございます」
「よろしい」
よろしい、と言った。まるで先生のようだった。
リリエラは少しおかしくなった。
「次も、頼んでいいか」
「……はい」
「楽しみにしている」
短かった。さらりと言った。
でも——楽しみにしている、という言葉は。
私も、そうだ、と思った。
言えなかった。
でも、そう思った。
馬車に乗り込んで、手帳を出した。
走り書きで、一言書いた。
書類を逆さまに持っていた。最悪だ。
でも笑っていた。ちゃんと笑っていた。
横顔のことは、書かない。
書いてから、書かない、と書いてしまったことに気づいた。
「……最悪だ」
今度は声に出た。
御者には聞こえていないはずだった。
たぶん。
リリエラ・ライムブリュレは、机の前で固まっていた。
「……あの」
目の前には、公爵。
今日も無駄に整っている。
窓からの光がなぜか完璧に差し込んでいる。
(どうして毎回こうなんでしょう……)
「どうした」
低く、落ち着いた声。
「その……」
リリエラは両手をぎゅっと握った。
「……わ、わたしのことを、どう思いますか?」
一瞬の沈黙。
公爵は迷わない。
「尊敬している」
即答。
リリエラの顔が真っ赤になる。
「つ、続けてください……」
「勇気がある」
「そ、それは……」
「怖いまま進む強さを持っている」
なぜ毎回こうも真っ直ぐなのか。
「だが」
公爵は少しだけ首を傾げた。
「君は、自分の価値を知らなすぎる」
リリエラは目を瞬いた。
「価値、ですか……?」
「君の言葉ひとつで、社交界は揺れた」
「そ、そんな大げさな……」
「事実だ」
静かに言い切る。
リリエラは固まった。
そんなこと、考えたこともなかった。
公爵はわずかに身を屈め、視線を合わせる。
「だからもっと自信を持て、と言いたいところだが」
「それが難しいなら、せめて」
まっすぐな瞳。
「君を応援してくれる者の存在を、信じろ」
心臓がどくんと鳴る。
「……応援、ですか?」
「評価だ」
公爵はさらりと言った。
「人は、正しく評価されることで強くなる」
側近が小さく咳払いをする。
「閣下、それは少々露骨では」
「事実だ」
リリエラはおろおろと視線を彷徨わせる。
「で、では……その……」
勇気を振り絞る。
「もし、わたしの物語を見守ってくださる方がいるなら……」
声は小さい。
でも、震えながら続ける。
「少しでも、評価、ブックマークで応援していただけたら……嬉しいです」
ぺこり、と小さく頭を下げた。
公爵は静かに頷く。
「彼女は物ではない」
「作品を気に入ったなら、手を伸ばせ」
側近が小声で呟く。
「閣下、それはほぼ“星を入れてください”という意味では」
「違う、正当な評価を求めているだけだ」
リリエラは慌てて顔を上げる。
「む、無理のない範囲で……!」
「面白いと思っていただけたらで構いません!」
公爵は満足げに頷いた。
「それでいい」
そして最後に。
「君の一歩は、小さく見えても世界を変える」
完璧な締めの決め台詞。
リリエラは真っ赤になりながら思う。
(公爵様のほうが、よほど革命的です……)




