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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: テラトンパンチ


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第六話 眠れない夜

夜、眠れなかった。


眠れない理由は、わかっていた。

わかっているのに、認めたくなかった。

認めてしまったら、何かが変わってしまう気がした。

変わることが——怖かった。


リリエラは天井を見つめた。

暗い天井だった。

何もない。それなのに、そこに誰かの顔が浮かんだ。

切れ長の目。感情の読みにくい顔。

でも言葉は、いつも真っ直ぐだった。

選んでほしいのだ。


また、その聞こえた。

頭の中で、何度も繰り返す。

この一週間、ずっとそうだった。

帳簿を見ているときも、食事をしているときも、眠ろうとしているときも——ふとした拍子に、あの声が戻ってくる。

これは、何だろう。

リリエラは自分の胸に手を当てた。

何か、がある。


暖かいような、苦しいような、落ち着かないような——うまく言えない何かが、ここにある。

名前をつけようとした。


これは——

「……」

言葉が、出てこなかった。

出てこない、のではなく——出てきた言葉を、自分で止めていた。

怖かった。

名前をつけたら、本物になる。

本物になったら、どうすればいいかわからない。

こんなことは、初めてだった。

王太子との婚約期間中、こんな感覚は一度も——

一度も、なかった。

それに気づいて、リリエラは少し驚いた。


二年間、婚約者だった。それなのに、一度もこんな気持ちにならなかった。

胸に手を当てたまま、目を閉じた。

その日はあまり眠れなかった。


翌日、マリアが不思議そうな顔で聞いた。

「お嬢様、今日は随分とぼんやりされていますが」

「……そうかしら」

「三度、同じ帳簿のページをめくっておいでです」

リリエラは手元を見た。確かにそうだった。

「……少し、考えごとをしていて」

「どのような」

「……」


マリアを見た。

この侍女は、余計なことを言わない。

聞いても、どこにも話さない。

そういう人だと、長い時間をかけて知っていた。

「……マリアは、恋をしたことがある?」

マリアが少し目を丸くした。


「……ございます。昔」

「どんな感じだった」

マリアは少し考えた。

「怖かったです」

「怖い?」

「はい。楽しいとか嬉しいとか、そういうことより先に——怖かったです。この人のことを好きなのかもしれない、と思ったとき」


「……なぜ怖いの」

「叶わないかもしれないから、だと思います。大事にしたいから、怖い、というか」

リリエラは黙った。


「……そういうものなのね」

「お嬢様は」

「……まだ、わからない」

わからない、と言いながら——少し、わかっていた。

名前をつけることが怖いのは——大事にしたいからかもしれない。この気持ちを、雑に扱いたくないから。

震えながらでも言える、とあの人は言った。

でも——これは。

これは、もう少し時間がかかると思う。


その日の夕方、来客があった。

ショコラオランジュ家の使用人だった。

小さな箱を持ってきた。

「公爵より、ライムブリュレ嬢へ」

箱を開けると、小さな手帳が入っていた。

革装丁の、上質な手帳。

中には何も書いていない。白紙だった。

一枚の紙が添えてあった。


帳簿管理にご不便があれば。

使い道は自由に。——L


二行だった。

リリエラは手帳を手の中で持った。

軽く、小さかった。

でも、革の質が良くて、手になじんだ。

使い道は自由に。

自由に、という言葉は——この人はよく使う気がした。

返事はいつでも、急がない。

使い道は自由に。

選ぶのはあなた。

いつも、決定権をこちらに置いてくれる。


リリエラは手帳を胸に当てた。

怖かった。

でも——悪くない怖さだった。



雨が降り始めたのは、昼過ぎだった。

朝は晴れていた。

出かけるとき、リリエラは傘を持たなかった。

王都の商業区に用があった。

ライムブリュレ家が取引している商会への書類の受け渡しで、大した時間はかからないはずだった。


ところが商会での話し合いが長引いた。

先方の帳簿に疑問点が出て、リリエラが指摘したら、

先方の担当者が顔色を変えて、確認に時間がかかった。

終わった頃には、外は本降りになっていた。


「馬車をお呼びします」と商会の者が言ったが、今日は馬車を使っていなかった。

天気が良かったから、歩きで来た。

「傘をお貸しします」

「ありがとうございます」

借りた傘を差して外に出た。

雨の王都は、静かだ。

人が少なくて、石畳が濡れて光っていた。

悪くない景色だ、とリリエラは思いながら歩いた。


三分ほど歩いたところで、雨が更に強くなった。

傘は小さかった。肩が濡れ始めた。

軒下で少し待とうかと考えたとき——

「ライムブリュレ嬢」

声がした。


振り向いた。

黒い馬車が、道沿いに止まっていた。

扉が開いていて、中から公爵が顔を出していた。

「乗りなさい」

「……公爵?なぜここに」

「商会の近くに用があった。通りかかったら、見覚えのある人間が雨に濡れていた」

リリエラは少し考えた。

馬車に乗るべきか、断るべきか。

断る理由がなかった。

「……お邪魔します」

乗り込んだ。


馬車の中は静かだった。雨の音が屋根を叩いていた。

公爵がリリエラの肩を見た。

「濡れたか?」

「少し」

「風邪をひくぞ」

「丈夫なので」


「丈夫でも、風邪はひく」

馬車の中の小さな収納から、折りたたんだ布を出してきた。膝掛けだった。

「どうぞ」

「……ありがとうございます」

受け取り膝の上に乗せた。

温かかった。

しばらく、ふたりとも黙っていた。

雨の音だけが続いていた。

「先日の茶会で」

公爵が言った。


「王太子と話していたな」

「……見ていたのですか」

「着いたとき、ちょうど庭から戻ってくるところだった」

「そうでしたか」

「何を話した」

リリエラは少し考えた。


「……感謝していると、伝えました」

「感謝」

「婚約を解消してくれたことへの。おかげで初めて、言いたいことが言えたので」

公爵が静かにリリエラを見た。


「……そういう捉え方をするのか」

「変ですか?」

「いや、変ではない」

「でも、普通ではないかもしれません」

「私も普通ではないかもしれない、と言ったことがある」

リリエラは思い出した。

喫茶での会話。

あのとき、公爵は笑っていた。

今も——目が、細くなっていた。

「ライムブリュレ嬢」

「はい」

「最近、よく眠れているか」

唐突な問いだった。


リリエラは少し驚いて、つい、正直に答えた。

「……実はあまり」

「そうか」

「……なぜ聞くのですか」

「顔色が、先週より少し悪い」

「……よく見ていますね」

「見ているさ」


あっさり言った。

隠すつもりがない言い方だった。

見ている、と。それだけのことだ、というように。

リリエラは膝掛けを少し引き上げた。

顔が熱かった。雨で冷えた体に、温かい布と——温かい、なんと言えばいいかわからない何かが、重なった。

「……公爵」

「なんだ」


「私は今、少し——」

言いかけた。

怖い、と言おうとした。

この気持ちに名前をつけることが怖い、と言おうとした。

でも——

「……いいえ、なんでもないです」


まだ、言えなかった。

公爵は追わなかった。

「そうか」とだけ言って、窓の外を見た。

雨はまだ続いていた。


馬車は静かに、ふたりを乗せて走っていた。

ライムブリュレ邸が近づいたとき、公爵が言った。

「眠れない夜は——」

リリエラは顔を上げた。

「あの手帳に、何か書くといい」

「……手帳に」

「言えないことも、書けることがある」


それだけ言った。

馬車が止まった。

リリエラは降りながら、振り返った。

「……ありがとうございました」

「ああ、気をつけて」

扉が閉まった。


馬車が走り去るのを、リリエラは雨の中で見送った。

借りた膝掛けを、まだ手に持っていた。

返しそびれた、と気づいた。

でも——少しだけ、返したくなかった。


部屋に戻って、机の引き出しを開けた。

革の手帳を取り出した。

白紙のページを開いて、ペンを持った。

しばらく迷った。

それから——一言だけ書いた。


怖い。でも、嫌いじゃない。

書いたら、少しだけ眠れる気がした。

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