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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: テラトンパンチ


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第五話 前を向く


公爵邸を訪ねるのは、二度目だった。

一度目は招かれて来た。

今日は——自分から来た。

その違いが、門の前に立ったとき、妙にはっきりと感じられた。

同じ門なのに、見え方が少し違う。

自分の足で来た場所は、違って見えるのかもしれない、とリリエラは思った。


「本日はアポイントメントが——」

門番が言いかけた。

「リリエラ・ライムブリュレと申します。公爵より帳簿をお預かりしており、報告書をお持ちしました」


「……少々お待ちください」

門番が奥へ走った。

待っている間、リリエラは手の中の封筒を持ち直した。

三十ページほどの報告書が入っている。

昨日の午後から今朝にかけて書いた。

数字の根拠を全部入れた。

どこで誤差が生まれているか、どう修正すれば改善するか、改善した場合の試算まで。

書きすぎかもしれない、と思った。

でも書いている間、楽しかったので——そのままにした。

「どうぞ」

応接室に通された。

しばらくして、公爵が来た。


「来てくれたのか」

「帳簿を拝見しました。報告書をまとめましたので」

「早いな。三日しか経っていない」

「数字が面白かったので」

公爵が目を細めた。


封筒を差し出すと、公爵はその場で開いた。

リリエラは黙って待った。

部屋が静かだった。

公爵がページをめくる音だけが、小さく聞こえた。

「……」

公爵は最初のページから順番にしっかりと読んでいた。

ページは飛ばさなかった。

しかし図表のところで少し止まった。

計算式のところでも止まった。

十分ほどかかって、最後まで読んだ。


「四年前の輸送ルート変更が原因だと」

「はい。変更後、迂回距離が増えて輸送コストが上がっています。ただその増加分が帳簿上で曖昧に処理されていて、年度ごとに違う項目に混入しています。だから毎年、微妙に違う場所でずれが出る」


「修正するには」

「輸送コストを独立した項目として立てれば、以後は明確になります。過去分は——修正仕訳が必要ですが、六年分であれば半日もあれば」


「半日で」

「……多めに見積もって一日で」

公爵は報告書から目を上げた。

「これを、独力で」

「はい」

「三日で」

「……数字が面白かったので」

二度目だった。同じ言葉を繰り返してしまった。

リリエラは少し恥ずかしくなった。

でも公爵は笑っていた。

今日ははっきりわかった。

口元が、ほんのすこし動いていた。

「ありがとう」

「いいえ、帳簿を見せていただいて——」

「ライムブリュレ嬢」

公爵が言った。


「礼を受け取るのが苦手か」

「……苦手です」

「なぜ」

「……大したことをしていないと思ってしまうので」

「大したことだ」

きっぱり言った。

迷いがなかった。

リリエラはその迷いのなさに、少し圧倒された。

「この報告書は、私の担当者が半月かけてもたどり着けなかった答えだ。それを三日で、図表と試算まで添えて出してきた。大したことでないはずがない」

「……でも」

「でも?」

リリエラは口を閉じた。


でも、私なんて。

言いかけた言葉が、喉のところで止まった。

何かが引っかかった。


なんて——なぜ、そう続けようとしたのだろう。

「……ありがとうございます」

絞り出すように言った。

公爵は静かに頷いた。

「受け取った」

その言い方が、おかしかった。

こちらの礼を、受け取った。


まるで、ちゃんと届いたと確認するような言い方。

窓から午後の光が入っていた。

リリエラは少し考えてから、言った。

「……もうひとつ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「公爵は——なぜ、こんなに」

言葉を探した。

「こちらのペースに合わせてくださるのですか」

急かさない。

待てると言った。

その通りにしている。

なぜそんなことができるのか、リリエラにはまだわからなかった。

公爵は少し考えた。


それから、静かに言った。

「選ばれたいのではない」

「……」

「選んでほしいのだ」

低い声だった。静かな声だった。


でも、その言葉が——リリエラの中の何かに、真っ直ぐ触れた。

選ばれたいのではなく、選んでほしい。

その違いを、リリエラはうまく言葉にできなかった。

でも、違うとわかった。

全然違うと、わかってしまった。

「……」

何も言えなかった。

公爵も、何も言わなかった。

沈黙が部屋に満ちた。


苦しくない沈黙だった。

ただ、何かが——静かに、積み重なっていくような沈黙だった。

帰り道、馬車の中でリリエラはずっと窓の外を見ていた。

選んでほしい。

その言葉が、ずっと、胸の中で鳴っていた。



王太子アルフォンスが社交の場に現れたのは、その翌週のことだった。

茶会だった。

こぢんまりとした集まりで、リリエラも母に連れられて出席していた。

王太子が来るとは思っていなかった。

「リリエラ嬢」

声をかけられたとき、リリエラは紅茶のカップを持っていた。


「殿下」

「少し話せるか?」

周囲の視線が集まった。リリエラはわかった。これも——また、見せている。

「……少しでよければ」

庭の隅へ移動した。

アルフォンスは歩きながら、先に話し始めた。

「手紙の返事を読んだ」


「はい」

「あれはどういう意味だ。お気持ちはいただきました、では、答えになっていない」

「答えのつもりでした」

「答えになっていない」


同じ言葉を繰り返した。

リリエラは静かに続けた。

「婚約解消は承知しております。そのうえで、殿下のお気持ちは受け取りました。それが私の返事です」

「君は怒っているのか」


「いいえ」

「では、なぜ」

「怒っていないからです」


アルフォンスが眉を寄せた。

「……どういう意味だ」

「怒っていれば、まだ殿下のことを考えているということです。でも私は——」

リリエラは言葉を選んだ。


「もう、前を向いています」

沈黙が落ちた。

アルフォンスの顔が、わずかに変わった。

想定外の返事だったのだろう、とリリエラは読んだ。

怒るか、泣くか、縋るか——そういう反応を想定していた顔だった。

「ショコラオランジュ公爵のことか」

「それは」

「世間ではそういう話になっている。君が公爵に気に入られたと」

「……存じております」

「あの男は、何を考えているかわからない」

「そうでしょうか」

「わからない男だ。付き合い方を、気をつけた方がいい」

リリエラは少し考えた。


わからない男、と言われた。

確かに、感情が読みにくい人だとリリエラも思った。

表情が動かない、言葉が少ない。

でも——

わからないのではない。

言葉が少ないだけで、言ったことは全部、本当のことだった。


「殿下」

リリエラは言った。

「ひとつ、聞いてもいいですか」

「なんだ」

「殿下は私の婚約を解消されたとき、私が何を考えているか——考えてくれましたか?」

アルフォンスが黙った。


「怖くないか、恥ずかしくないか、悲しくないか‥そういうことを」

「……それは」

「考えなかったと思います」

静かに言った。責めているのではなかった。ただ——事実として。


「考える必要があるとは、思わなかったのだと思います。私が何も言わない人間だと、知っていたから」

アルフォンスの目が、揺れた。

「でも私は——あの夜、初めて言えました」

リリエラは続けた。

「震えながらでも、言えました。それは殿下が婚約を解消してくださったから、言えたことです。ですから、感謝しています」


「……感謝、だと」

「はい」

アルフォンスは何も言えなかった。

怒鳴ることも、言い返すこともできない様子だった。

用意していた言葉が、全部、どこかへ行ってしまったような顔だった。

リリエラは小さく頭を下げた。

「失礼します」

踵を返して、歩いた。

震えていない、とは言えなかった。足は少し震えていた。


でも、止まらなかった。

茶会の会場に戻ったとき、人垣の向こうに深い紺青の燕尾服が見えた。

公爵がいた。

いつ来たのか、わからなかった。

目が合った。

公爵は何も言わなかった。

ただ、かすかに頷いた。

それだけだった。


それだけで——なぜか、十分だった。

傍らに立っていた側近のクロワ男爵が、小さく息をついた。

また完璧なタイミングで。

心の中だけで、深くため息をついた。


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