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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: テラトンパンチ


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第四話 帳簿


喫茶は小さな店だった。

窓際の席に向かい合って座ると、通りを歩く人の影が、ゆっくりと横切っていった。


公爵は場所を選ばない人だとリリエラは思った。

豪奢な公爵邸の応接室でも、庶民的なこの喫茶でも、同じ顔をしている。

同じ姿勢で、同じ落ち着きで——どこにいても、その場所が自分の場所であるように見えた。


その点、リリエラはどこへ行っても、少しだけ場所を借りているような気持ちになる。


「帳簿の専門書だったな」

運ばれてきた紅茶に口をつけながら、公爵が言った。

「……よくご覧になっていましたね」

「表紙が見えた」

「はい。ライムブリュレ家の財務管理を、少し前から任されていて」


「少し前から、とは」

「……二年ほど前から」

公爵の目が、わずかに動いた。

「伯爵家の財務を、令嬢が」

「父が病を患いまして。兄はまだ学院に。それで私が」

「誰かに習ったのか」


「独学です。もともと数字が好きだったので」

言ってから、少し恥ずかしくなった。

令嬢が帳簿好きというのは、あまり褒められた話題ではない。

社交の場で言えば、大抵、奇妙なものを見る顔をされた。

けれど公爵は奇妙なものを見る顔をしなかった。

「なぜ好きなのか」


「……正直だからです」

「数字が?」

「はい。数字は、嘘をつきません。足せば足した分だけ増えて、減らせば減ります。誰かの機嫌で変わらない」


言い終えてから、少し言いすぎたと思った。

でも公爵は静かに聞いていた。

「実は」

公爵は紅茶を置いた。


「折り入って相談したいことがあった。偶然だが、ちょうどいい機会かもしれない」

「……相談?」

「ショコラオランジュ領の農業収支が、ここ数年おかしい。担当の者が精査しているが、どこかに誤差が出ている。専門家に頼むほどではないが、素人が見るには複雑で——」


リリエラは少し前のめりになった。

「どのような誤差ですか」

「毎年、収穫量と売上の比率が微妙にずれる。天候の変動では説明しきれない」

「……輸送コストは別計上ですか」


「そうだが」

「徴税のタイミングと出荷時期が重なっている年はありませんか。そこで一時的に手元資金が圧迫されると、翌年の種籾への投資が減って——」


公爵がリリエラを見ていた。

じっと、見ていた。

リリエラは自分が早口になっていたことに気づいて、口を閉じた。

「……すみません、つい」

「続けてほしい」

「え」

「続きを聞きたい」


真っ直ぐな目だった。值踏みではない。

ただ——聞きたいという目だった。

こんな顔で聞かれたことが、なかった気がした。


数字の話をするとき、大抵の人は目が泳ぐ。

興味がない、早く終わってほしい、そういう顔になる。令嬢がするような話ではないと思っているのが、顔に出る。

この人の目は、泳いでいなかった。


「……数年分の帳簿を、拝見できますか」

気づいたら言っていた。

「見ていただけるのか」

「見てみたいです。おそらく数字の中に、答えがあると思うので」

公爵はすこし間を置いた。


それから言った。

「助かる」

ただそれだけだった。

ありがとう、でもなく、さすがでもなく——助かる、と言った。

対等な言い方だとリリエラは思った。

令嬢を褒めているのではなく、仕事のできる相手に言う言い方だった。

窓の外で、夕方の光が石畳を橙色に染めていた。

気づいたら、一時間が過ぎていた。


帰り道、馬車の中でリリエラは手の中の本を見た。

今日は、誰かに誘われたのではなかった。

自分で声をかけて、自分で誘って、自分で話した。


悪くない、と思った。

悪くない、どころでは、なかった。



使者が来たのは、翌々日の朝だった。

「王太子殿下より、リリエラ・ライムブリュレ嬢へ」

差し出された手紙は、封蝋が豪奢だった。

見るからに、格式を主張していた。

正反対だ、と思った。

あの一行だけの手紙と。

リリエラは受け取って、使者を下がらせた。

マリアが心配そうな顔で見ている。

封を開いた。

読んだ。

もう一度、読んだ。


「……」

便箋三枚にわたって、丁寧に書かれていた。婚約破棄は軽率だった、あの夜のリリエラの言葉が頭から離れない、もう一度話し合いたい——そういう内容だった。

文章は上手かった。


どこかで、誰かに手伝ってもらったかもしれないほど上手かった。

「奥様……」

マリアが、恐る恐る聞いた。

「どうなさいますか」

リリエラは手紙を、そっとたたんだ。

「……返事を書きます」

「どのような」

少し考えた。


婚約破棄は承知した、と言った。次は自分で選ぶ、と言った。あの言葉は——撤回しない、したくない。

「お気持ちはいただきました、とだけ書きます」

マリアが静かに頷いた。


返事を書きながら、リリエラは自分の中に怒りがないことに気づいた。

怒りがあるとすれば、婚約破棄の屈辱に対して、だろう。

けれどあの夜会で何かが変わった。

怒りよりも先に——あの震えた声が出て、それで何かが変わった。

捨てられたことよりも、初めて言えたことの方が、今は大きく残っている。


おかしいだろうか、と思った。

おかしくても——それが本当のことだった。

返事を書き終えた頃、別の使者が来た。

「ショコラオランジュ公爵より」

リリエラの手が、少し止まった。

受け取って、開いた。


先日の件、帳簿を届けさせます。

お手すきのときに。

急ぎではありません。——L


また一行だった。

今度は二行あった。

急ぎではありません、という一文が、また——あの人らしかった。

急がなくていい。待てる。お

手すきのときに。

こちらのペースを、ひとつも乱さない。

リリエラは二通の手紙を見比べた。


一方は、三枚。格式ある封蝋。上手な文章。

一方は、二行。それだけ。

どちらが誠実か、などと決めるつもりはなかった。

ただ——どちらの手紙を、もう一度読み返したいか。

それは、わかった。


午後、約束通り帳簿が届いた。

六年分。きちんと整理されていた。

リリエラは机に向かった。


数字の列を眺め始めたとき、不思議と気持ちが落ち着いた。

いつもそうだった。

帳簿に向かうと、余分なことが静かになる。

三時間後、リリエラはペンを置いた。

見えた、と思った。


四年前から、特定の季節に微妙な誤差が発生している。輸送ルートが変わった年と、ぴたりと重なっていた。

原因は、おそらくここだ。

リリエラは報告書を書き始めた。

書きながら、自分が少しわくわくしていることに気づいた。

誰かの役に立っている——という感覚が、数字の中から来ていた。


令嬢として、婚約者として、家の顔として、誰かの役に立ったことはある。

でもこれは、違う種類の感覚だった。

私の力で、役に立っている。

その違いが——思ったより、ずっと大きかった。

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