第三十五話 式当日
目が覚めたのは、夜明け前だった。
まだ暗かったが窓の外が、少しだけ白くなり始めていた。
リリエラはしばらく、天井を見ていた。
今日だ、と思った。
特別なことは何も考えなかった。
ただ——今日だ、という事実だけが、胸の中に静かにあった。
怖かったけど、楽しみだった。
少し寂しかったけど嬉しかった。
気持ちが全部、同時にあった。
どれが本当か選べなくて、でも——全部が本当だった。
マリアが来たのは、夜が明けてすぐだった。
支度が始まったいつも通りの手順だった。
でも、マリアの手が——いつもより丁寧だった。髪を一本一本、確かめるように整えていた。
何も言わなかったけど、その手の動きだけで、伝わってくるものがあった。
最後にできる支度だから。
そう思っているのだと、わかった。
リリエラも、何も言わなかった。
言葉にしなくても、伝わっていた。
四年間、一緒にいてくれた気持ちが伝わる。
ドレスを着て、鏡の前に立った。
クリーム色が、朝の光に映えていた。
刺繍の野の花が、ドレスの裾に静かにあった。
髪飾りをつけた。
母からもらった白い花と、押し花の野の花の細工。
ふたつが、髪の中に収まった。
鏡を見る。
あの夜会で婚約破棄されて、震えながら立っていた自分とは——違う人みたいだった。
怖かった夜から、ここまで来た。
遠かった。
でも——一人ではなかった。
後ろに、マリアがいた。
鏡越しに目が合った。
マリアの目が、少し赤かった。
下に降りると、家族が待っていた。
母がリリエラを見て、口元を押さえた。
フランシスが「かっこいいな」と言って、すぐに顔を逸らした。
逸らした先で、鼻をすする。
泣いていないと言い張るだろう、とリリエラは思った。
父が、車椅子に座っていた。
式には車椅子での出席になった。
それでも——来てくれる。
約束通り、来てくれる。
その事実だけで、もう——十分すぎた。
父がリリエラを見た。
上から下まで、ゆっくりと見た。
「綺麗だ」と、父が言った。
それだけだった。
それだけで、胸の奥が——じわっと、温かくなった。
泣かなかった。
泣かなかったけど、鼻の奥がつんとした。
こらえた。
まだ家の中だから、式場までとっておこうと思った。
馬車に乗り込んだ。
街が、窓の外を流れていった。
見慣れた王都の景色だった。
石畳。屋根。並木。行き交う人。
何度も見てきた景色が——今日は、少し違って見えた。
見納めではなかった。
これからも、この街に来る。
でも——この街を「帰る場所」として見るのは、今日が最後だった。
明日からは、帰る場所が変わる。
寂しかった。
でも——向かう場所に、あの人がいる。
それを思ったら、寂しさより温かさの方が、少しだけ大きくなった。
少しだけ——でも、確かに。
馬車が走り続けた。
式場が、近づいていた。
式場は、王都の中心にある大聖堂だった。
馬車を降りたとき、冬の空気が頬に当たった。
冷たかった。
でも——その冷たさが、かえって頭を静かにしてくれた気がした。
控え室に通された。
父と、ふたりになった。
静かな部屋だった。
窓から、冬の光が入っていた。
父が車椅子に座っていた。
リリエラはその隣に、椅子を引いて座った。
しばらく、ふたりとも何も言わない。
外から、式の準備をする音が聞こえていた。
人の声や足音、扉の音。
でも、この部屋の中だけは——静かだった。
「緊張しているか」
父が言った。
「はい、しています」
「そうか」
「父上は?」
「もちろんしている」
リリエラは少し笑った。
父も、少し笑った。
ふたりで笑って——また、静かになった。
この沈黙が、好きだった。
父との沈黙は、昔からこうで言葉が少なくても、伝わるものがあった。
数字に似ていると、リリエラはずっと思っていた。余計なものを省いても、本当のことが残る。
「リリエラ」
「はい」
「一つだけ、言っていいか」
「どうぞ」
父が少し間を置いた。
窓の外を見た。
それから——リリエラを見た。
「お前が帳簿や数字を好きになってくれて——よかったと思っている」
「……帳簿、ですか?」
「ああ。最初にお前が帳簿を開いたとき、驚いた。でも——嬉しかった」
「そうでしたか」
「数字の中に、人の生活がある。そういうことを、お前はすぐにわかってくれた」
「父上に、教えてもらいました」
「詳しく教えた覚えはないが」
「背中を見ていました」
父が少し目を細めた。
「……そうか」
「公爵領の帳簿を見たとき——父上の帳簿に似ているな、と思いました」
「似ているか」
「丁寧で、正直で——数字の向こうに人がいる帳簿でした」
父が黙っていた。
しばらく、窓の外を見ていた。
「……お前に帳簿を任せてよかった」
静かな声だった。
リリエラの胸の奥に、その言葉がゆっくりと落ちた。
落ちて——沈んで——温かくなった。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
父が手を伸ばした。
リリエラの手を、両手で包んだ。
薄くなった手だったけど——温かかった。
この手が、帳簿のページをめくるのを見てきた。
この手が、ライムブリュレ家を守ってきた。
この手に包まれた自分の手が——
今日から、別の場所に行く。
寂しかった。
寂しかったけど——父が、ちゃんと送り出してくれていた。
それが、何より嬉しかった。
時間が来た。
扉の前に、ふたりで並んだ。
父が車椅子で、リリエラが隣に立った。
本当は父の腕に手を添えて歩くはずだった。
でも——車椅子でも、隣にいてくれる。
それで十分だった。それ以上だった。
「行くか」
父が言った。
「はい」
「まだ、怖いか?」
「怖いです」
「そうか」
「でも——行きます」
父が頷いた。
「昔のお前は怖いのが苦手だったよな‥でも怖そうな顔をして最後はちゃんと出来てた昔から——」
リリエラは少し驚いた。
小さい頃から、見ていてくれたのか。
ずっと、見ていてくれていたのか。
「……父上」
「なんだ」
「今日まで——ありがとうございました」
「大げさだな」
「大げさじゃないです」
父が少し間を置いた。
「……こちらこそ」
「何がですか」
「生まれてきてくれてよかった、本当にありがとう、リリエラ」
リリエラの目が、熱くなった。
こらえようとした。
こらえられなかった。
一粒だけ——出た。
父がそれを見て、何も言わなかった。
ただ、リリエラの手を一度、強く握った。
それだけだった。
それだけで——十分だった。
扉が、開いた。
光が、差し込んできた。
音楽が、聞こえてきた。
大勢の人の気配が、向こうにあった。
リリエラは一度、深く息を吸った。
怖かった、足が震えていた。
でも——隣に父がいた。
向こうに、あの人がいた。
怖くても、行ける。
一歩、踏み出した。
光の中へ。




