第三十四話 式前夜
式の前夜は、静かだった。
夕食を家族で食べた。
父も、椅子に座って食べられた。
量は少なかったけど——一緒に食べた。
それだけで、リリエラは胸がいっぱいだった。
「明日、緊張するか」
父が聞いた。
「します」
「そうか」
「父上は?」
「もちろん、するよ」
「なぜですか」
「娘を渡す日だから」
「……渡す、というより——増えるんだと思います」
「増える?」
「公爵が、家族に増えるので」
父が少し間を置いた。
「……そういう考え方をするのか」
「はい」
「増える、か」
「増えます」
「……なら、緊張しなくていいな」
「しなくていいです」
でも父は、どう見ても緊張していた。
フランシスが「父上、絶対緊張してる」と言って、母に「静かにしなさい」と言われた。
いつもの食卓だった。
でも——明日が来たら、変わっていく食卓だった。
リリエラはそれを、少し寂しいと思った。
少し寂しいと思いながら——でも、嬉しかった。
両方、あった。
夕食の後、マリアが部屋に来た。
「明日の準備ができました」
「ありがとう」
「何か、入り用のものはありますか」
「ないです」
「緊張していますか」
「してます」
「そうですか」
マリアが部屋の中を確認した。
ドレスが掛かっていた。
髪飾りが置いてあった。
母からもらった白い花の飾りと——押し花にした野の花を、細工師に頼んで髪飾りにしてもらったものが、並んでいた。
「——両方、つけるんですね」
「はい。母のと、領地のと」
「素敵です」
「‥つけすぎでしょうか」
「全然」
「よかった」
マリアが窓のそばに立った。
「今夜は早く休んだ方が——」
「マリア」
「はい」
「少し、話しませんか」
マリアが振り向いた。
「……いいんですか」
「最後の夜なので」
「最後、というか——」
「この部屋で、ふたりで話す最後の夜なので」
マリアが静かに頷いた。
椅子を引いた。
向かいに座った。
お茶が来た。
ふたりで飲んだ。
しばらく、黙っていた。
苦しくない沈黙だった。
ずっと一緒にいた人と過ごす沈黙は——苦しくなかった。
「マリア」
「はい」
「四年間、ありがとう」
「こちらこそ」
「私の一番ぐちゃぐちゃなところを——全部見てくれましたね」
「はい、見ていましたね」
「嫌じゃなかったですか?」
「全然嫌じゃなかったです」
「ぐちゃぐちゃでも——お嬢様はお嬢様だったので」
「どういう意味ですか」
「怯えていても、怖がっていても——帳簿や数字を見るときの目だけは、いつも真剣でした」
「……そんなに、見えていましたか」
「見えていました」
リリエラはお茶を飲んだ。
「マリアに見えていたなら——他の人にも、見えていたのかもしれないですね」
「見えていたと思います」
「レオンハルトにも?」
「公爵様は——一番最初から、見えていたんじゃないですか」
「そうかもしれないです」
「だから声をかけたんだと思います」
リリエラは窓の外を見た。
冬の夜の空だった。
「マリア」
「はい」
「明日——泣きそうになったら、どうしましょう」
「泣いていいです」
「式で泣くのは‥」
「泣いていいです」
「でも、みんなが見ている」
「泣いていいです」
リリエラは少し笑った。
「……泣いてもいいかな」
「いいです」
「マリアは?」
「泣きます」
「泣くんですか」
「泣きます。隠しません」
「珍しいですね」
「明日だけは、隠せません」
「そうなのね」
「はい」
ふたりで、少し笑った。
「マリア」
「はい」
「明日も——よろしくお願いします」
「はい。明後日も、その次の日も」
「……ずっと、よろしくお願いします」
「ずっと、よろしくお願いします」
ふたりで、頭を下げた。
主人と侍女ではなくて——ただの、リリエラとマリアふたりで。
顔を上げたら、マリアの目が少し赤かった。
「泣いていますか」
「泣いていません」
「目が」
「……少し」
「マリア」
「はい」
「泣いていいですよ」
「……ありがとうございます」
今度は、マリアが小さく泣いた。
声は出なかった。
リリエラは黙って見ていた。
泣かせてあげようと思った。
いつも隣にいてくれた人が、泣いているのを——ちゃんと見ていようと思った。
しばらくして、マリアが顔を上げた。
「……失礼しました」
「失礼じゃないです」
「お嬢様の前で」
「見たかったので」
「……見たかったとは」
「マリアが泣くところを——ちゃんと見たかったです。隣にいてきた人が、泣いているのを」
マリアがリリエラを見た。
「……お嬢様は」
「はい」
「本当に——変わりましたね」
「そうですか」
「昔は、誰かが泣いていたら——どうしたらいいかわからない顔をしていました」
「今は?」
「今は——ちゃんと、一緒にいられます」
リリエラは少し考えた。
「一緒にいることを——レオンハルトに教えてもらいました」
「どうやって」
「ただ、そこにいてくれたので」
「それだけで?」
「それだけで、わかりました。一緒にいるとは——何かをすることだけじゃ無いじゃなくてことだと」
マリアが静かに頷いた。
「……そうですね」
「だから今夜——マリアが泣いているそばに、いたかったです」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ふたりで、また笑った。
お茶が冷めていた。
マリアが立ち上がった。
「温め直してきます」
「もういいです、遅いので」
「では——休んでください」
「はい」
「明日は早いので」
「わかっています」
「おやすみなさい、お嬢様」
「おやすみなさい、マリア」
「——良い夢を」
「マリアも」
マリアが扉を出た。
静かになった。
リリエラは一人で、部屋にいた。
手帳を出した。
最後のページを開いた。
式の前夜。 父上が夕食を食べた。 それだけで、胸がいっぱいだった。 マリアと話した。 泣くところを、ちゃんと見た。 一緒にいるとは、そこにいることだ。 それを、レオンハルトに教えてもらった。 明日——怖い。でも怖いまま、行く。 震えていても、行く。 それしかないし——それで十分だと、今は思える。 マリア、四年間ありがとう。 父上、来てくれてありがとう。 お母様、産んでくれてありがとう。 兄様、ずっといてくれてありがとう。 レオンハルト——
少し、ペンが止まった。
書きたいことが、多すぎて。
でも——一番言いたいことは、一言だった。
——選んでくれてよかった。
書き終えた。
ペンを置き手帳を閉じた。
この手帳は——明日から、新しいページが始まる。
新しい場所で、新しい朝を書く。
続きは——まだ、ずっとある。
窓から、冬の星が見えた。
「……明日」
小さく呟いた。
怖かった。
楽しみだった。
両方、あった。
ベッドに入った。
目を閉じた。
すぐには眠れなかった。
でも——じきに、眠れた。
夢は見なかった。
それが——よかった気がした。
明日のために、ちゃんと眠れた。
それで十分だった。




