第三十二話 母が泣いた夜
その夜、母がリリエラの部屋に来た。
珍しかった。
母がリリエラの部屋に来ることは——あまりなかったから。
「入っていいかしら」
「どうぞ」
母が入ってきた。
いつも背筋が伸びていて、きちんとしている人だった。
今日も、きちんとしていた。
でも——少し、疲れた顔をしていた。
「座ってください」
「ありがとう」
母が椅子に座った。
リリエラも向かいに座った。
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
「お父様が、大丈夫そうでよかった」
母が言った。
「はい」
「怖かったわ」
「私もです」
「……あなた、泣かなかったわね」
「泣きませんでした。父上の前で泣きたくなかったので」
母が少し間を置いた。
「強くなったわね」
「‥そうでしょうか」
「昔は——もっと、すぐ泣いていたのに」
リリエラは少し考えた。
「泣かないようになったというより——泣く場所を、選べるようになった気がします」
「泣く場所を、選ぶ?」
「はい。泣きたいときに、全部その場で泣くのではなくて——ここなら泣いていい、という場所で泣けるようになった、というか」
母が静かに聞いていた。
「公爵が——そういう場所になったんだと思います」
「……そうなの」
「はい」
母が窓の外を見る。
「リリエラ」
「はい」
「一つ——謝りたいことがあるの」
リリエラは少し驚いた。
「謝る、というのは?」
「アルフォンス殿下との婚約のこと」
「……」
「あのとき——私は、あなたに何もしてあげられなかった」
「それは」
「あなたが婚約破棄されて、あの夜会で傷ついていたのに——私は何もしなかった」
「お母様」
「できることがあったはずなのに。でも——どうしていいかわからなくて、何もしなかった」
母の声が、少し震えていた。
リリエラは母の顔を読んだ。
後悔していた。
ずっと、後悔していた顔だった。
「……お母様」
「ごめんなさい」
母が言った。
静かな声だった。
でも——本当の声だった。
「あの時、あなたを一人にしてしまってごめんなさい」
「お母様は——何もしなかったわけじゃないです」
「でも」
「あの夜、泣いて抱きしめてくれました」
「……あれだけじゃ」
「十分でした」
「リリエラ」
「あのとき、抱きしめてもらえたから——次の日、ちゃんと立てました」
母が俯いた。
「……そうかしら」
「そうです」
「でも、あの後も——もっとできることがあったはずで」
「お母様は十分やってくれていました」
「十分じゃなかった。あなたが一人で色々抱えていたのに——気づいてあげられなかった」
「気づいていました」
「え?」
「気づいていたけど——あまり心配させたくなかったので、見せていませんでした」
「……それは」
「私が隠していたんです。お母様が気づかなかったのではなくて」
母がしばらく黙っていた。
「……そういう言い方をするのね」
「本当のことなので」
「あなたって——いつからそんなに」
「そんなに?」
「優しくなったの」
リリエラは少し考えた。
「優しいのではなくて——お母様のことが、好きなので」
母が顔を上げた。
目が、赤かった。
「リリエラ」
「はい」
「……お母様は」
「はい」
「あなたのことが、自慢なのよ」
リリエラは少し止まった。
「自慢、ですか」
「ずっとそう思っていたけど——言えなかった。うまく言えなかった」
「……言ってくれてよかったです」
「遅かったでしょう」
「遅くないです」
「本当に?」
「今日、言ってくれたので」
母が俯いた。
それから——泣いた。
静かに泣いた。
リリエラは驚いた。
母が泣くのを——あまり見たことがなかった。
いつも背筋が伸びていて、きちんとしていた母が——今日は、ただの人だった。
リリエラは立ち上がった。
母の隣に行った。
隣に座って——母の背に、手を当てた。
昔、母がリリエラに何度もやってくれたように。
「お母様」
「……なに」
「ありがとうございます」
「何が」
「産んでくれて、育ててくれて、ありがとうございます」
母がまた泣いた。
今度は、少し声が出た。
リリエラは背中に当てた手を、そのままにした。
窓の外で、冬の風が吹いていた。
でも部屋の中は——温かかった。
しばらくして、母が顔を上げた。
目を拭いた。
「……みっともないわね」
「みっともなくないです」
「公爵に——いい花嫁を渡せるかしら」
「十分すぎるくらい育ててもらいました」
「お世辞でしょう」
「いえ、本当のことです」
「……もう」
母が、少し笑った。
泣いた後の、少し赤い顔で笑っていた。
「いい人を選んだわね」
「はい」
「公爵は——本当に、あなたを大切にしてくれている。見ていればわかるわ。あの人の目を見れば」
「……そうですか」
「あなたを見るときの目が——特別だもの」
リリエラは少し、頬が熱くなった。
「お母様、それ以上言わないでください」
「なぜ」
「恥ずかしいので」
「もうすぐ結婚するのに?」
「それでも恥ずかしいです」
母がまた笑った。
「……可愛いわね、やっぱり」
「そういうこと言わないでください、お母様」
「だって本当のことだから」
リリエラは俯いた。
頬が、じわじわと熱かった。
「ありがとうございます、お母様」
「何が」
「今日、話してくれて」
「こちらこそ」
ふたりで、しばらく黙っていた。
苦しくない沈黙、温かい沈黙だった。
「そろそろ戻るわ。お父様が起きているかもしれないから、じゃあおやすみなさい」
「おやすみなさい、お母様」
母が扉を出た。
リリエラは一人で、部屋にいた。
手帳を出した。
開いた。
父上の容体が、落ち着いた。 式に来てくれる約束をした。 母が部屋に来た。 謝ってくれた。 自慢だと、言ってくれた。 泣いていた。 私が背中に手を当てた。 昔、やってもらったように。 お母様、ありがとうございます。
書き終えて、ペンを置いた。
窓の外に、冬の夜が広がり星が出ていた。
式まで、あと二週間。
怖かったけど——怖いまま、行こう。
手帳を閉じた。
冬の星が、窓の外で光っていた。




