第三十一話 リリエラの父、倒れる
知らせが来たのは、夜だった。
夕食を終えて、手帳を開こうとしていたとき——フランシスが部屋に飛び込んできた。
息が切れていた。
「はぁはぁ‥、リリエラ」
「どうしたの、兄様」
「父上が——」
フランシスの顔を見た。
読んだが怖い顔だった。
「……父上が、どうしたんですか」
「倒れた。今、医者が来ている」
リリエラは手帳を置いた。
机から立ち上がった。
「行きます」
「ああ」
廊下に出て走った。
走りながら——心臓が、うるさかった。
父の部屋に入ったとき、医者がちょうど立ち上がるところだった。
母が椅子に座っていた。
顔が白かった。
「お母様」
「リリエラ」
「父上は」
「……今は、落ち着いています」
医者が静かに言った。
「急に高熱が出ました。今夜は様子を見てください。明日の朝、また来ます」
「式まで——体が持ちますか」
リリエラが聞いた。
医者が少し間を置いた。
「……わかりません」
正直に言ってくれた。
正直に言ってくれたことが——逆に、怖かった。
「今夜は、できるだけそばにいてあげてください」
「はい」
医者が出ていった。
部屋に、三人が残った。
父は眠っていた。
呼吸は安定していた。でも顔色が悪かった。
リリエラは父の隣の椅子に座った。
手を取った。
温かかった。
ただ‥先月会ったときより——少し、細くなっていた気がした。
「……リリエラ」
母が言った。
「うん」
「式に——出てほしいわね、お父様に」
リリエラは気丈に答える。
「はい、でも大丈夫です、出てくれます」
「……約束してくれたので」
母が黙った。
フランシスが窓のそばに立って、外を見ていた。
冬の夜の窓は暗かった。
でも——リリエラは父の手を握ったまま、放さなかった。
その夜、父の部屋に三人でいた。
交代で休もうという話になったが——結局、誰も休まなかった。
夜中の二時頃、父が目を開けた。
「……みんな、いるのか」
「います」
フランシスが言った。
「心配させた、すまない」
「謝らなくていいです」
父がリリエラを見た。
「リリエラ」
「はい」
「式まで——頑張るよ」
リリエラは頷いた。
頷いたけど——口元が、少し歪んだ。
泣くつもりはなかった。
泣かないつもりだった。
でも——
「……父上、ちゃんと来てください」
声が、少し震えた。
「行く、絶対に行く」
「……約束ですよ」
「約束だ」
父がリリエラの手を握り返した。
薄い手だったけど——力があった。
ちゃんと、力があった。
リリエラは泣かなかった。
泣かなかったけど——鼻の奥が、ずっとつんとしていた。
翌朝、公爵に手紙を書いた。
昨夜のことを、そのまま書いた。
怖かったこと。
父が目を開けたこと。約束してくれたこと。
最後に一行添えた。
少し、怖いです。でも大丈夫です。——リリエラ
送ってから、少し後悔した。
大丈夫です、は——少し、嘘だったかもしれない。
返事は昼前に来た。
怖くていい。
大丈夫じゃなくてもいい。
今夜、会いに行く。——レオンハルト
読んで——手紙を胸に当てた。
少しだけ、目が熱くなった。
泣かなかった。
でも——手紙を、いつもより長く手に持っていた。
その夜、公爵が来た。
応接室で向かい合って、座った。
「顔色が悪いな、リリエラ」
「昨夜ほとんど眠れていないので」
「今夜は眠れるか?」
「父上の様子次第になりますが‥」
「……そうか」
公爵がリリエラを見た。
「式のことは——考えなくていい」
「でも」
「父上の体が先だ」
「でも式の日取りは決まっているので」
「日取りなんか変えられる」
「変えたくないです」
公爵が静かにリリエラを見た。
「変えたくない、とは?」
「父上が来られる可能性がある限り——待ちたいです」
「……待つ意味か‥」
「あります」
リリエラは言った。
「父上に——見てほしいので。私が選んだところを、見ていてほしいので」
公爵が黙っていた。
窓の外に、冬の風が吹いた。
「……わかった」
「はい」
「待とう」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「受け取ってください」
公爵がリリエラを見た。
「……今日だけは、素直に受け取れない」
「なぜですか」
「あなたが、かなり辛そうだから」
「大丈夫です‥」
「……本当は少し、辛いです‥」
リリエラは少し俯いた。
「……ありがとうございます、来てくれて」
「これが一番の礼だ。受け取った」
「ずるいですね」
「そうか」
ふたりで、少し笑った。
笑えた。辛かったけど——笑えた。
それだけで、少し楽になった。
父の容体は、三日かけてゆっくりと落ち着いた。
熱が下がって、顔色が戻って、食事が少し取れるようになった。
医者が「式には出られるかもしれません」と言ったのは、四日目の朝だった。
リリエラはその言葉を聞いて——廊下で、しばらく壁に手をついていた。
泣かなかったけど、立っていられなかった。
「お嬢様」
マリアが来た。
「……大丈夫です」
「大丈夫ではない顔をしています」
「少し、力が抜けて」
「当然です」
マリアが隣に立った。
何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
しばらくして——リリエラは壁から手を離した。
「ありがとう隣にいてくれて」
「お嬢様の側にいたかったので」
リリエラは廊下を歩いた。
父の部屋に向かった。
父は起きていた。
「来たか、顔色が悪いぞ」
「父上もです」
「お互い様だな」
「……そうですね」
父がゆっくりと身を起こした。
リリエラが枕を直した。
「式の日まで——あと二週間だな、何とか出られそうだ」
「医者から聞きました、よかったです」
「リリエラ」
「はい」
「心配をかけた、すまない」
「……謝らないでください」
「しかし」
「謝らないでください、父上」
リリエラは父の手を取った。
「来てくれることの方が、大事なので」
父が静かに頷いた。
「行くよ、ちゃんと行く」
「はい」
「幸せになりなさい」
「なります」
父がリリエラの手を、両手で包んだ。
とても温かかった。




