第三話 王太子の焦り
アルフォンス・ミルフィーユ王太子が苛立っているとき、周囲の人間はすぐにわかった。
声が大きくなる。
比喩が増える。
そしてその比喩が、だいたいズレる。
「つまりだな」
王太子は執務室を歩き回りながら言った。
「ライムブリュレ嬢があんなことを言ったのは、気の迷いだ。夜会の興奮で、冷静さを欠いていた。それだけのことだろう」
側近のクロワ男爵は、書類から目を上げずに答えた。
「はあ」
「はあ、ではない。そう思わないか」
「……殿下、その書類の決裁を本日中に」
「今はそれどころではない」
クロワは内心でため息をついた。
ため息はついたが、顔には出さなかった。
十年この方、そういう訓練を積んできた。
「ショコラオランジュ公爵が口を挟まなければ」
王太子は続けた。
「あの場はもっと上手く収まっていた。なぜ彼女の肩を持つ。あの公爵と、ライムブリュレ嬢に接点はないはずだろう」
「存じません」
「調べなさい」
「……かしこまりました」
クロワは書類の端に小さくメモを取った。
取りながら、これは厄介なことになるかもしれない、と思った。
王太子がライムブリュレ嬢に興味を持ったのは、彼女が決して逆らわないからだった。
家格は申し分なく、顔も悪くなく、何より——静かで、御しやすかった。
ところが昨夜、彼女は言った。
選びたいです、と。
あの台詞が、どうにも頭から離れないのだとクロワは読んでいた。
「気の迷いだ」
王太子はもう一度言った。
今度は、誰かに向けてではなく——自分に言い聞かせるように、聞こえた。
その頃リリエラは、実家の帳簿と向き合っていた。
数字は正直だ、とリリエラはいつも思う。
感情がなく、忖度せず、ただそこにある。
この列を眺めているとき、リリエラは誰かの顔色を読まなくていい。
ペンを走らせながら、頭の別の場所で、昨日の公爵邸のことを考えていた。
私は、待てる。
三回くらい思い返した。三回とも、少し心臓がうるさくなった。
「リリエラ」
扉が開いて、母が入ってきた。
「昨日、どこへ行っていたの」
「……少し、外に」
「馬車を使ったでしょう。マリアも口を割らないし」
母の顔を読んだ。
心配、というより——不安、という顔だった。
昨夜の婚約破棄で、家の将来を案じているのだ。
リリエラにはわかった。
「……報告しようと思っていました」
「何を」
「ショコラオランジュ公爵から、手紙が来ていました」
母が息を呑む音がした。
「……それを早く言いなさい」
「はい」
「どういった内容だったの」
リリエラは少し間を置いた。
「……婚約の申し込みを、いただきました」
沈黙が落ちた。
母の顔が、不安から驚きへ、驚きから計算へ、めまぐるしく動いた。
リリエラはその変化を全部見ていた。見慣れた変化だった。
「あなた、返事は」
「考えさせてほしいとお伝えしました」
「考えるって——公爵よ。ショコラオランジュ公爵。昨夜の今日でそんな話が来るなんて、何か意図が」
「お母様」
リリエラは静かに言った。
「私が考えます」
母が黙った。
その沈黙がいつもと違う、と母も感じたのかもしれない。
何か言いかけて、言わずに、出て行った。
部屋にひとりになって、リリエラは帳簿に視線を戻した。
でも数字が、今日は少し滲んで見えた。
それから一週間、公爵からは何も来なかった。
手紙もない。
使者もない。
鉢合わせるような偶然もない。
リリエラは最初、待っていた。
が、次第に待っていないことにした。
待っていない、と決めたら——やけに、意識するようになってしまう。
今日も来ない、と思うたびに、来なくて当然だと思い直した。
あの人は待てると言った。
待っているのだから、急かすはずがない。
それはわかっている。
わかっているのに——
「お嬢様」
マリアが声をかけた。
「今日のお茶はいつもより濃くなっております」
リリエラは自分のカップを見た。確かに、色が濃かった。
「……少し上の空でした」
「何かお考えでしたか」
「……べつに」
マリアはそれ以上聞かなかった。
ただ、お湯を少し足してくれた。
社交の場では、何度か話題に出た。
婚約破棄されたライムブリュレ嬢のこと。
ショコラオランジュ公爵が庇ったこと。
それについて、貴族社会の舌はよく動いた。
「あの令嬢、よほど公爵に気に入られたのかしら」
「公爵家に収まれたら、御の字ではなくて?」
「でも気弱な子でしょう。王太子妃にもなれなかったくらいだし」
リリエラは聞こえないふりをする術を、昔から持っていた。
微笑んで、頷いて、その場を離れる。
ただ——昔と少し違うのは。
気弱、と言われたとき。
昔は、そうです、と思っていた。
今は——少し、違う気がした。
震えながらでも言える、と、あの人は言った。
それは気弱なのだろうか。
震えていることと、弱いことは——同じなのだろうか。
答えはまだ出ない。
けれど、問いが生まれたこと自体が、何か変わったことの証だとリリエラは思った。
その日の帰り道、馬車がいつもと違う通りを通った。
御者が言った。
「橋の工事で道が変わっておりまして」
「わかりました」
窓の外を見た。
見慣れない通り、石畳の古い道。
並んだ店の中に、小さな書店があった。
ふと、目が止まった。
店先に積まれた本の中に、帳簿管理の専門書が見えた。リリエラが探していた題目だった。
王都では品薄で、もう半年近く探していた本だった。
「……少し、止めてもらえますか」
馬車を降りた。
店に入った。本を手に取った。
そこまでは、よかった。
問題は——
店を出たとき、道の向かいにショコラオランジュ公爵が立っていたことだった。
しかも、リリエラに気づいていなかった。
何かの建物を見上げていた。考え事をしているような顔だった。
リリエラは一瞬、そのまま馬車に戻ることもできると思った。
思って——
「……公爵」
呼んでいた。
公爵が振り向いた。リリエラを見つけて、一拍の間があった。
「……偶然だな」
「はい、私も今偶然に」
「本を買ったのか」
「あ、はい。ずっと探していたものが」
「そうか」
会話が止まった。
止まったが——おかしくなかった。
この人との沈黙はいつも、苦しくない。
「……お時間は、ありますか」
気づいたら、聞いていた。
公爵がこちらを見る。
「あの近くに喫茶があります。もし……よろしければ」
誘っているのは、自分だった。
一週間前まで、こんなことは言えなかった。言おうとしたことすら、なかった。
公爵はすこし目を細めた。
「それは光栄だ」
その一言が——随分と、温かく聞こえた。




