第二十五話 過去と向き合う
領地最終日の朝は、少し曇っていた。
昨日の晴れとは違う、柔らかいグレーの空だった。
朝食のとき、公爵が言った。
「今日、帰る前に行きたい場所がある」
「どこですか」
「ついてきてくれるか」
「はい」
それだけだった。
どこへ行くか、教えてくれなかった。
でも——聞かなかった。
聞かなくていい気がした。
馬車ではなく、歩いていった。
屋敷の裏手から、緑の中の細い道に入った。
木が多くて、少し薄暗かった。
でも怖くはなかった。鳥の声がして、葉が風で揺れていた。
公爵が前を歩いていた。
いつもより、少しゆっくりだった。
リリエラはその背中を見ながら、黙ってついていった。
五分ほど歩いたところで、開けた場所に出た。
小さな広場だった。
木々に囲まれて、真ん中に——白い石があった。
小さかった。苔がうっすらついていて、でも丁寧に手入れされていた。花が一輪、供えてあった。誰かが最近来た跡があった。
リリエラはすぐに、わかった。
「……もしかしてこれ‥」
「ああエレナの墓だ」
公爵は静かに立っていた。
お墓の前に、でも少し距離を置いて。
「ここに来るのは、久しぶりですか」
「いや。定期的に来ている」
「そうでしたか」
「忘れたくないから」
リリエラはお墓を見た。
白い石に、名前が刻んであった。
エレナ・アルジャン。
享年二十歳。
二十歳で——逝ってしまったのか、と思った。
公爵が二十二歳の時、伝えたい事を言えないまま、終わった。
「リリエラに、会わせたかった」
公爵が言った。
「……私に?」
「おかしいか」
「おかしくないです」
リリエラはお墓に近づいた。
しゃがんだ。
白い石を、しばらく見た。
何を言えばいいかわからなかった。
でも——言葉が、自然に出てきた。
「はじめまして。リリエラ・ライムブリュレと申します」
静かに、言った。
「レオンハルトに、お世話になっています」
風が吹いた。
木の葉が、さわさわと揺れた。
「あなたが大切にしていた人を、私も大切にします。ちゃんと大切にしていきます」
それだけだった。
うまくはなかった。
でも——本当のことだけ言った。
立ち上がって、後ろを振り向いた。
公爵がリリエラを見ていた。
いつもと少し違う顔をしていた。
感情が——珍しく、表に出ていた。
何も言わなかった。
でもその目が——何かを、言っていた気がした。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「エレナさんは——どんな人でしたか」
公爵は少し間を置いた。
それから、ゆっくり歩いてきて——リリエラの隣に、立った。
「……穏やかな人だった」
「はい」
「怒らない人だった。いつも笑っていた」
「そうでしたか」
「私が言いかけて止まるたびに——笑って待っていてくれた」
リリエラは黙って聞いていた。
「最後に会ったとき、言ってくれた。レオンハルトは、いつか必ず言える、と」
「……」
「言えなかった。間に合わなかった」
「でも——今、言えていますよね」
公爵がリリエラを見た。
「あなたの前では——言いかけて、止まらなくなった」
「エレナさんが言った通りになりましたね」
公爵は少し間を置いた。
「……そうかもしれない」
「だからここに連れてきてくれたんですか」
「……報告したかった」
「報告」
「言えるようになった、と」
リリエラは白い石を見た。
この人が最後に笑いながら言った言葉が——六年後に、本当になった。
「……優しい人だったんですね」
「ああ」
「レオンハルトのことを、ちゃんとわかっていた人だったんですね」
公爵は何も言わなかった。
でも——頷いた。
ゆっくり、頷いた。
リリエラは手の中に何もないことに気づいた。
花を、持ってくればよかった。
そう思ったとき——公爵が、ポケットから小さな花を出した。
野の花だった。
「……どこで」
「来る途中で摘んだ」
「私の分も、ありますか」
公爵がリリエラに一輪渡した。
リリエラはそれを受け取って、白い石の前に置いた。
公爵も、隣に置いた。
ふたりで供えた。
二輪の花が、白い石の前に並んだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
木の葉が揺れた。鳥が鳴いた。
曇り空から、細い光が差してきた。
「エレナ」
公爵が言った。
初めて、リリエラの前でその名前を呼んだ。
「来た」
それだけだった。
報告は、それだけだった。
でも——その二文字に、六年分が入っていた気がした。
リリエラは目が熱くなった。
こらえた。
こらえたけど——少し、滲んだ。
「……泣いているか」
「泣いていません」
「目が」
「光の加減です」
「曇っているが」
「……少し、滲んでいます」
「無理に止めなくていい」
「止めます」
「なぜ」
「あなたの報告の場なので。私が泣くのは違うと思って」
公爵は少し間を置いた。
「一緒に来てもらったのだから——一緒に泣いていい」
リリエラは俯いた。
こらえていたものが、少しだけ——出た。
声は出なかった。ただ、目から涙が出た。
少しだけ出て、止まった。
顔を上げたとき、公爵がハンカチを差し出していた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
受け取った。目を拭いた。
それから——白い石を、もう一度見た。
二輪の花が、並んでいた。
「エレナさん」
リリエラが、もう一度言った。
「ちゃんと、大切にします。約束します」
風が吹いた。
花が、少し揺れた。
返事みたいだ、とリリエラは思った。
そう思うのは、おかしいかもしれなかった。
でも——そう思った。
帰り道、ふたりで並んで細い道を歩いた。
来るときより、空が少し明るくなっていた。
「連れてきてくれてよかったです」
「そうか」
「会えてよかったです。エレナさんに」
「……こちらこそ」
「こちらこそ?」
「会わせることができてよかった」
しばらく、ふたりとも黙って歩いた。
葉の間から、光が差してきた。
「リリエラ」
「はい」
「言えなかったことを——あの場所で、ずっと持ち続けていた」
「……はい」
「あなたが来てくれてから——少しずつ、置いてこれる気がしている」
リリエラは足を止めなかった。
歩きながら、聞いた。
「全部じゃなくて、いいんです」
「全部じゃなくても」
「大切だったものは、大切だったままでいい。それと一緒に、ここから歩いていけばいいと思っているので」
公爵が、リリエラを見た。
「……そういうことを、どこで学んだ」
「レオンハルトに学びました」
「私が?」
「待てる人は——手放さなくていいものを、ちゃんと知っている人だと思ったので」
公爵は何も言わなかった。
でも——歩く速度が、少し遅くなった。
ふたりで、ゆっくり歩いた。
光が増えてきた。
屋敷が見えてきた。
「リリエラ」
「はい」
「来てくれてよかった」
「……私も」
「今日だけじゃなくて——ここに来てくれてよかった」
リリエラは少し止まった。
ここに、というのが——領地のことだけじゃない気がした。
自分の人生に、という意味に聞こえた。
「……私も、です」
「出会えてよかった」
「私も」
「選んでくれてよかった」
「私も、選んでよかったです」
公爵の手が——リリエラの手に触れた。
強くなかった。ただ、そこにある、という触れ方だった。
でもそれが——今日は、どんな言葉より重かった。
ふたりで、屋敷に向かって歩いた。
光の中を、歩いた。




