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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: テラトンパンチ


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24/25

第二十四話 公爵領にて

領地に着いたのは、夕方だった。

翌朝、リリエラは早めに目が覚めた。

カーテンを開けたら、一面緑だった。

王都の朝は石畳と屋根ばかりだったから——窓の外が全部緑、というのが、なんか不思議だった。しばらく、ぼんやり眺めてしまった。


「お嬢様、起きてますか」

マリアが扉を叩いた。

「起きてる」

「朝食を——」

「届いてる」

「え?」

「気づいたら置いてあった」

マリアが扉を開けた。

テーブルの上の朝食を見て、少し目を丸くした。

「誰が?」

「わからない。音もしなかった」

ふたりで顔を見合わせた。

「……公爵様じゃないですか」

「まさか」

「でも給仕が来た音、しませんでしたよね」

「……してなかった」

リリエラはパンを一口食べた。


温かかった。焼きたてだった。

まさかな、と思いながら——まさかじゃない気もした。


朝食の後、公爵が迎えに来た。

「今日は村を回る」

「はい」

「見たいものを見て、聞きたいことを聞いていい」

「帳簿の話もしていいですか」

「もちろん」

「農業の収支とか」

「大歓迎だ」

リリエラは少し笑った。


廊下に出たとき、クロワとすれ違った。

クロワがリリエラを見て、それから公爵を見て——何も言わずに眼鏡を直して歩いていった。

「クロワ男爵、なんか言いたそうでしたね」

「気のせいだろう」

「そうですかね」

「そうだ」

きっぱりしていた。

リリエラはそれ以上聞かなかった。


村に着いたのは、昼前だった。

石畳じゃなくて、土の道だった。

両側に家が並んで、子どもが走り回って、どこからかパンを焼く匂いがしていた。

馬車から降りたとき、村の入り口に人が集まっていた。

大人も、子どもも、お年寄りも——みんな、こちらを見ていた。


リリエラは少し緊張した。

「……みんな待っていたんですか」

「そうらしい」

「何日前から?」

「三日前に知らせた」

「三日前から待っていたんですか」

「……そうなるな」

リリエラは思わず公爵を見た。

公爵は真顔だった。


三日前から待っていた人たちが、目の前にいる。

緊張が、一気に増した。

でも——その瞬間。

村の人垣から、小さな女の子が飛び出してきた。

四歳か、五歳くらいだった。

走ってきて——リリエラの足元で、ぴたっと止まった。

そして、ずっと握りしめていたらしい一輪の花を、両手でリリエラに差し出した。


野の花だった。小さくて、少しくたっとしていた。

たぶん、朝からずっと持っていたのだろう。

「……どうぞ」

小さな声だった。

リリエラはしゃがんだ。

「ありがとう。大事にする」

女の子が、ぱっと笑った。


それからすごい勢いで人垣に戻って、お母さんらしき人の後ろに隠れた。

リリエラは花を持ったまま、立ち上がった。

目が、少し熱くなった。

泣かなかった。泣かなかったけど——こらえるのに、ちょっと時間がかかった。

「……帳簿の向こうに、この子もいたんだな、と思って」

小さな声で言ったつもりだった。

でも公爵に聞こえていた。

「そうだ」

「帳簿を見ていたとき、ずっとそう思っていました。向こうに人がいる、と。でも——こうして会うと」

「違うか」

「全然違います」


公爵がリリエラを見た。

「来てよかっただろう」

「……来てよかったです」

村の人たちが、少しずつ近づいてきた。

緊張は、まだあった。

でも——花を持った手が、温かかった。


村の人たちは、みんな話しかけてくれた。

お年寄りが今年の収穫の話をしてくれた。

農家の男性が土の状態を見せてくれた。

子どもたちが公爵の周りにまとわりついて、公爵が珍しく困った顔をしていた。


リリエラはそれをこっそり見ていた。

「……公爵、子どもが苦手ですか」

「苦手ではない。ただ、慣れていない」

「どう接したらいいかわからない感じですか」

「そうだ」

「私も最初、領民の方に何を話したらいいかわからなかったですよ」

「どうした」

「帳簿の話をしました」

「それは特殊だろう」

「でも通じました」

公爵が少し考えた。

それから、足元にまとわりついている子どもを見て——

「今年の麦の出来は、どうだと思うか」

子どもたちが顔を見合わせた。


「いっぱいとれた!」

「うちのほうがとれた!」

「ちがうよ、うちのほうが!」

なんか違う方向に盛り上がり始めた。

リリエラは笑いをこらえた。

「……通じましたね」

「少し違う方向に行ったが」

「でも笑ってます、みんな」

公爵が子どもたちを見た。


子どもたちが口々に今年の収穫自慢をしていた。

公爵の口元が、小さく動いた。


昼過ぎ、農地を歩いていたとき——リリエラは盛大に足を滑らせた。

土の道が、少し湿っていた。

「わっ——」

公爵の腕をつかんだ。

なんとか転ばなかった。

でも——泥が、ドレスの裾にはっきりついた。


「……あ」

「大丈夫か」

「大丈夫です。でも、ドレスが」

見た。

結構ついていた。

「……領地視察用の厚めのドレスを持ってきてよかった」

「そうだな」

「クロワ男爵、ちゃんと教えてくれていたんですね」

「有能だから」

「でも転んだことは言わないでください」

「なぜ」

「笑われそうなので」

公爵が少し目を細めた。


「笑わない」

「本当に?」

「……少しは笑うかもしれない」

「正直すぎます」

「嘘はつかない」

リリエラは泥のついた裾を見た。

「……マリアには怒られそう」

「怒られたら、私が言っておく」

「何を言うんですか」

「土地の状態を確認していた、と」

「……嘘をつかないんじゃないですか」

「状態は確認していた」

「身体全体で確認しちゃったんですけど‥」

公爵が、静かに——笑った。


小さな笑いだったけど、ちゃんと笑っていた。

リリエラも笑った。

農地の真ん中で、ふたりで笑った。

遠くで子どもたちが走り回っていた。

風が吹いて、麦が揺れた。

悪くない午後だった。


村を出る前、最初の女の子がまたやってきた。

「おねえさん、また来る?」

リリエラはしゃがんだ。

「来ます」

「ほんとに?」

「ほんとに。また来ます」

女の子が、ぱっと笑った。

さっきと同じ笑顔だった。


リリエラは立ち上がって、手の中の花を見た。

くたっとしていたけど、まだちゃんと咲いていた。

「……押し花にします」

「何?」

「この花、押し花にして手帳に挟もうと思って」

公爵がリリエラを見た。

「手帳に」

「はい。大事なものは、残しておきたいので」

公爵が少し間を置いた。

「……誰かに教えてもらった話だな」

「はい。レオンハルトに」


公爵の目が、やわらかくなった。

馬車に乗り込んで、村が遠ざかっていく窓の外を見た。

まだ手を振っている子どもたちが見えた。

リリエラも、小さく手を振り返した。

また来る。

今度は、もっと長く。

そう思えることが——嬉しかった。


その夜、夕食が終わった後、公爵が言った。

「少し歩かないか」

「外をですか?」

「領地の夜を、見せたい」

「暗くないですか」

「月が出ている」

リリエラは窓の外を見た。確かに、明るかった。


「行きます」

「靴は、昼間と別のにしろ」

「昼間の靴、何かありましたか」

「泥がついている」

「……見ていたんですか」

「見ていた」

「一言言ってくれれば」

「楽しそうだったので」

「転んだのが、楽しそうでしたか」

「転んでいない。滑っただけだ」

「……細かいですね」

マリアに別の靴を出してもらって、外に出た。

マリアが「行ってらっしゃいませ」と言った。なんか嬉しそうだった。


夜の領地は、昼間と全然違った。

虫の声がしていた。遠くで川の音がした。

空が——広かった。

王都では見えない星が、たくさん出ていた。

「……星が多い」

「王都は明るいから、見えない」

「こんなに出てるんですね、いつも」

「いつも出ている」

リリエラは空を見上げながら歩いた。

歩きながら空を見ていたら、段差に気づかなかった。

「あっ——」

また、つまずいた。

今度は公爵の腕をつかむ間もなかった。

転んだ。


「……リリエラ」

「……転びました」

「見えている」

「……昼間は滑っただけでしたが、今回はちゃんと転びました」

「そうだな」

公爵がしゃがんで、手を差し伸べた。

リリエラはその手を取った。

起き上がった。

「怪我は」

「ないです。ドレスは……少し」

「暗いから見えない」

「明るくなったら見える」

「明るくなる前に払っておこう」

公爵が、リリエラのドレスの裾についた草を払ってくれた。


「……ありがとうございます」

「空を見ながら歩くな」

「見たかったので」

「転んだ」

「転びましたが、見たかったので」

「強情だな」

「星が綺麗だったので」

公爵がリリエラを見た。

それから——空を見た。

「確かに、綺麗だ」

「でしょう」

「でも、足元も見ろ」

「はい」

「次に転んだら——」

「転びません」

「転ぶと思うが」

「転びません」

公爵が目を細めた。

信じていない目だった。


「……手を貸そう」

「大丈夫です」

「貸す」

「……ありがとうございます」

公爵の手を取った。

昼間、大通りで繋いだのと同じ手だった。

でも夜は——少し違って感じた。

静かだから、かもしれなかった。

ふたりの足音と、虫の声と、川の音だけで——他に何もなかった。


小さな橋のところで、ふたりは止まった。

欄干に寄りかかって、川を見た。

月明かりが水面に映りきらきらして、綺麗だった。

「レオンハルト」

「なんだ」

「この領地——好きです」

「今日だけで?」

「今日だけで」

「早いな」

「一輪の花をもらったので」

「あの子か」

「あの子に花をもらったら、もうここが好きになってしまいました」

公爵が川を見ながら、小さく笑った。


「あの子は——毎年花を育てている。摘んでいいのは、特別な人だけ、と自分で決めているらしい」

「……特別な人だけ」

「お前が最初だと、母親から聞いた」

リリエラは手の中の花を——押し花にするために、夕食前にマリアに頼んで本に挟んでいた——その感触を思い出した。

「……嬉しいです」

「来てよかっただろう」

「来てよかったです」

少しの間、川の音だけが聞こえた。


「リリエラ」

「はい」

「ここを——一緒に守ってほしい」

静かな声だった。

大きなことを言っているのに、静かだった。

「この人たちを、一緒に」

「……はい」

「帳簿も、畑も、あの子も」

「全部」

「全部、一緒に」

リリエラは川を見た。

月明かりが揺れていた。


怖いとか、嬉しいとか——うまく言えなかった。

ただ、ここにいたいと思った。

この川の音を、ずっと聞いていたいと思った。

「……約束します」

「ありがとう」

「私の方が、ありがとうです」

「なぜ」

「ここに連れてきてくれたので」

公爵が繋いだ手を、少し強く握った。

強くないけど——しっかりした。


リリエラも、握り返した。

川が、月を映してきらきらしていた。

虫の声が、遠くで続いていた。

ここに、いたい。

ここが、好きだ。


屋敷に戻ったとき、マリアが待っていた。

リリエラの顔を見て——何も言わなかった。

ただ、お茶を淹れてくれた。

「今日、どうでしたか」

「最高でした」

「転んだ、と公爵様から伺いましたが」

「え」

「二回、と」

「……報告しなくていいのに」

「心配されていましたよ」

「転んでも大丈夫です」

「存じています」

マリアがお茶を置いて、少し笑った。

「お嬢様、顔が——すごく、幸せそうです」

「そう?」

「はい。今まで見た中で、一番」

リリエラは温かいお茶を一口飲んだ。

「……幸せです」

「よかったです」

「うん。よかった」

部屋の窓から、星が見えた。

さっき、ふたりで見た空だった。


リリエラは手帳を出した。

本の間に挟んだ押し花を、手帳の最後のページの隣に、そっと挟んだ。

それから書いた。


村で、一輪の花をもらった。 特別な人だけに摘む花、だって。 転んだ。二回。 夜、川のそばで、一緒に守ってほしいと言ってもらった。 約束した。 ここが好きだ。 この場所が、私の場所になっていくと信じて。


書き終えて、ペンを置いた。

窓から見える星が、さっきより少し少なかった。

雲が出てきたのかもしれない。

でも——さっき見た星は、ちゃんと覚えていた。

この手帳に残った。


押し花と一緒に。


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