第二十四話 公爵領にて
領地に着いたのは、夕方だった。
翌朝、リリエラは早めに目が覚めた。
カーテンを開けたら、一面緑だった。
王都の朝は石畳と屋根ばかりだったから——窓の外が全部緑、というのが、なんか不思議だった。しばらく、ぼんやり眺めてしまった。
「お嬢様、起きてますか」
マリアが扉を叩いた。
「起きてる」
「朝食を——」
「届いてる」
「え?」
「気づいたら置いてあった」
マリアが扉を開けた。
テーブルの上の朝食を見て、少し目を丸くした。
「誰が?」
「わからない。音もしなかった」
ふたりで顔を見合わせた。
「……公爵様じゃないですか」
「まさか」
「でも給仕が来た音、しませんでしたよね」
「……してなかった」
リリエラはパンを一口食べた。
温かかった。焼きたてだった。
まさかな、と思いながら——まさかじゃない気もした。
朝食の後、公爵が迎えに来た。
「今日は村を回る」
「はい」
「見たいものを見て、聞きたいことを聞いていい」
「帳簿の話もしていいですか」
「もちろん」
「農業の収支とか」
「大歓迎だ」
リリエラは少し笑った。
廊下に出たとき、クロワとすれ違った。
クロワがリリエラを見て、それから公爵を見て——何も言わずに眼鏡を直して歩いていった。
「クロワ男爵、なんか言いたそうでしたね」
「気のせいだろう」
「そうですかね」
「そうだ」
きっぱりしていた。
リリエラはそれ以上聞かなかった。
村に着いたのは、昼前だった。
石畳じゃなくて、土の道だった。
両側に家が並んで、子どもが走り回って、どこからかパンを焼く匂いがしていた。
馬車から降りたとき、村の入り口に人が集まっていた。
大人も、子どもも、お年寄りも——みんな、こちらを見ていた。
リリエラは少し緊張した。
「……みんな待っていたんですか」
「そうらしい」
「何日前から?」
「三日前に知らせた」
「三日前から待っていたんですか」
「……そうなるな」
リリエラは思わず公爵を見た。
公爵は真顔だった。
三日前から待っていた人たちが、目の前にいる。
緊張が、一気に増した。
でも——その瞬間。
村の人垣から、小さな女の子が飛び出してきた。
四歳か、五歳くらいだった。
走ってきて——リリエラの足元で、ぴたっと止まった。
そして、ずっと握りしめていたらしい一輪の花を、両手でリリエラに差し出した。
野の花だった。小さくて、少しくたっとしていた。
たぶん、朝からずっと持っていたのだろう。
「……どうぞ」
小さな声だった。
リリエラはしゃがんだ。
「ありがとう。大事にする」
女の子が、ぱっと笑った。
それからすごい勢いで人垣に戻って、お母さんらしき人の後ろに隠れた。
リリエラは花を持ったまま、立ち上がった。
目が、少し熱くなった。
泣かなかった。泣かなかったけど——こらえるのに、ちょっと時間がかかった。
「……帳簿の向こうに、この子もいたんだな、と思って」
小さな声で言ったつもりだった。
でも公爵に聞こえていた。
「そうだ」
「帳簿を見ていたとき、ずっとそう思っていました。向こうに人がいる、と。でも——こうして会うと」
「違うか」
「全然違います」
公爵がリリエラを見た。
「来てよかっただろう」
「……来てよかったです」
村の人たちが、少しずつ近づいてきた。
緊張は、まだあった。
でも——花を持った手が、温かかった。
村の人たちは、みんな話しかけてくれた。
お年寄りが今年の収穫の話をしてくれた。
農家の男性が土の状態を見せてくれた。
子どもたちが公爵の周りにまとわりついて、公爵が珍しく困った顔をしていた。
リリエラはそれをこっそり見ていた。
「……公爵、子どもが苦手ですか」
「苦手ではない。ただ、慣れていない」
「どう接したらいいかわからない感じですか」
「そうだ」
「私も最初、領民の方に何を話したらいいかわからなかったですよ」
「どうした」
「帳簿の話をしました」
「それは特殊だろう」
「でも通じました」
公爵が少し考えた。
それから、足元にまとわりついている子どもを見て——
「今年の麦の出来は、どうだと思うか」
子どもたちが顔を見合わせた。
「いっぱいとれた!」
「うちのほうがとれた!」
「ちがうよ、うちのほうが!」
なんか違う方向に盛り上がり始めた。
リリエラは笑いをこらえた。
「……通じましたね」
「少し違う方向に行ったが」
「でも笑ってます、みんな」
公爵が子どもたちを見た。
子どもたちが口々に今年の収穫自慢をしていた。
公爵の口元が、小さく動いた。
昼過ぎ、農地を歩いていたとき——リリエラは盛大に足を滑らせた。
土の道が、少し湿っていた。
「わっ——」
公爵の腕をつかんだ。
なんとか転ばなかった。
でも——泥が、ドレスの裾にはっきりついた。
「……あ」
「大丈夫か」
「大丈夫です。でも、ドレスが」
見た。
結構ついていた。
「……領地視察用の厚めのドレスを持ってきてよかった」
「そうだな」
「クロワ男爵、ちゃんと教えてくれていたんですね」
「有能だから」
「でも転んだことは言わないでください」
「なぜ」
「笑われそうなので」
公爵が少し目を細めた。
「笑わない」
「本当に?」
「……少しは笑うかもしれない」
「正直すぎます」
「嘘はつかない」
リリエラは泥のついた裾を見た。
「……マリアには怒られそう」
「怒られたら、私が言っておく」
「何を言うんですか」
「土地の状態を確認していた、と」
「……嘘をつかないんじゃないですか」
「状態は確認していた」
「身体全体で確認しちゃったんですけど‥」
公爵が、静かに——笑った。
小さな笑いだったけど、ちゃんと笑っていた。
リリエラも笑った。
農地の真ん中で、ふたりで笑った。
遠くで子どもたちが走り回っていた。
風が吹いて、麦が揺れた。
悪くない午後だった。
村を出る前、最初の女の子がまたやってきた。
「おねえさん、また来る?」
リリエラはしゃがんだ。
「来ます」
「ほんとに?」
「ほんとに。また来ます」
女の子が、ぱっと笑った。
さっきと同じ笑顔だった。
リリエラは立ち上がって、手の中の花を見た。
くたっとしていたけど、まだちゃんと咲いていた。
「……押し花にします」
「何?」
「この花、押し花にして手帳に挟もうと思って」
公爵がリリエラを見た。
「手帳に」
「はい。大事なものは、残しておきたいので」
公爵が少し間を置いた。
「……誰かに教えてもらった話だな」
「はい。レオンハルトに」
公爵の目が、やわらかくなった。
馬車に乗り込んで、村が遠ざかっていく窓の外を見た。
まだ手を振っている子どもたちが見えた。
リリエラも、小さく手を振り返した。
また来る。
今度は、もっと長く。
そう思えることが——嬉しかった。
その夜、夕食が終わった後、公爵が言った。
「少し歩かないか」
「外をですか?」
「領地の夜を、見せたい」
「暗くないですか」
「月が出ている」
リリエラは窓の外を見た。確かに、明るかった。
「行きます」
「靴は、昼間と別のにしろ」
「昼間の靴、何かありましたか」
「泥がついている」
「……見ていたんですか」
「見ていた」
「一言言ってくれれば」
「楽しそうだったので」
「転んだのが、楽しそうでしたか」
「転んでいない。滑っただけだ」
「……細かいですね」
マリアに別の靴を出してもらって、外に出た。
マリアが「行ってらっしゃいませ」と言った。なんか嬉しそうだった。
夜の領地は、昼間と全然違った。
虫の声がしていた。遠くで川の音がした。
空が——広かった。
王都では見えない星が、たくさん出ていた。
「……星が多い」
「王都は明るいから、見えない」
「こんなに出てるんですね、いつも」
「いつも出ている」
リリエラは空を見上げながら歩いた。
歩きながら空を見ていたら、段差に気づかなかった。
「あっ——」
また、つまずいた。
今度は公爵の腕をつかむ間もなかった。
転んだ。
「……リリエラ」
「……転びました」
「見えている」
「……昼間は滑っただけでしたが、今回はちゃんと転びました」
「そうだな」
公爵がしゃがんで、手を差し伸べた。
リリエラはその手を取った。
起き上がった。
「怪我は」
「ないです。ドレスは……少し」
「暗いから見えない」
「明るくなったら見える」
「明るくなる前に払っておこう」
公爵が、リリエラのドレスの裾についた草を払ってくれた。
「……ありがとうございます」
「空を見ながら歩くな」
「見たかったので」
「転んだ」
「転びましたが、見たかったので」
「強情だな」
「星が綺麗だったので」
公爵がリリエラを見た。
それから——空を見た。
「確かに、綺麗だ」
「でしょう」
「でも、足元も見ろ」
「はい」
「次に転んだら——」
「転びません」
「転ぶと思うが」
「転びません」
公爵が目を細めた。
信じていない目だった。
「……手を貸そう」
「大丈夫です」
「貸す」
「……ありがとうございます」
公爵の手を取った。
昼間、大通りで繋いだのと同じ手だった。
でも夜は——少し違って感じた。
静かだから、かもしれなかった。
ふたりの足音と、虫の声と、川の音だけで——他に何もなかった。
小さな橋のところで、ふたりは止まった。
欄干に寄りかかって、川を見た。
月明かりが水面に映りきらきらして、綺麗だった。
「レオンハルト」
「なんだ」
「この領地——好きです」
「今日だけで?」
「今日だけで」
「早いな」
「一輪の花をもらったので」
「あの子か」
「あの子に花をもらったら、もうここが好きになってしまいました」
公爵が川を見ながら、小さく笑った。
「あの子は——毎年花を育てている。摘んでいいのは、特別な人だけ、と自分で決めているらしい」
「……特別な人だけ」
「お前が最初だと、母親から聞いた」
リリエラは手の中の花を——押し花にするために、夕食前にマリアに頼んで本に挟んでいた——その感触を思い出した。
「……嬉しいです」
「来てよかっただろう」
「来てよかったです」
少しの間、川の音だけが聞こえた。
「リリエラ」
「はい」
「ここを——一緒に守ってほしい」
静かな声だった。
大きなことを言っているのに、静かだった。
「この人たちを、一緒に」
「……はい」
「帳簿も、畑も、あの子も」
「全部」
「全部、一緒に」
リリエラは川を見た。
月明かりが揺れていた。
怖いとか、嬉しいとか——うまく言えなかった。
ただ、ここにいたいと思った。
この川の音を、ずっと聞いていたいと思った。
「……約束します」
「ありがとう」
「私の方が、ありがとうです」
「なぜ」
「ここに連れてきてくれたので」
公爵が繋いだ手を、少し強く握った。
強くないけど——しっかりした。
リリエラも、握り返した。
川が、月を映してきらきらしていた。
虫の声が、遠くで続いていた。
ここに、いたい。
ここが、好きだ。
屋敷に戻ったとき、マリアが待っていた。
リリエラの顔を見て——何も言わなかった。
ただ、お茶を淹れてくれた。
「今日、どうでしたか」
「最高でした」
「転んだ、と公爵様から伺いましたが」
「え」
「二回、と」
「……報告しなくていいのに」
「心配されていましたよ」
「転んでも大丈夫です」
「存じています」
マリアがお茶を置いて、少し笑った。
「お嬢様、顔が——すごく、幸せそうです」
「そう?」
「はい。今まで見た中で、一番」
リリエラは温かいお茶を一口飲んだ。
「……幸せです」
「よかったです」
「うん。よかった」
部屋の窓から、星が見えた。
さっき、ふたりで見た空だった。
リリエラは手帳を出した。
本の間に挟んだ押し花を、手帳の最後のページの隣に、そっと挟んだ。
それから書いた。
村で、一輪の花をもらった。 特別な人だけに摘む花、だって。 転んだ。二回。 夜、川のそばで、一緒に守ってほしいと言ってもらった。 約束した。 ここが好きだ。 この場所が、私の場所になっていくと信じて。
書き終えて、ペンを置いた。
窓から見える星が、さっきより少し少なかった。
雲が出てきたのかもしれない。
でも——さっき見た星は、ちゃんと覚えていた。
この手帳に残った。
押し花と一緒に。




