第二十二話 公爵領へ
公爵領への出発は、八月の末に決まった。
三泊四日。
公爵領の視察と、領民への挨拶を兼ねた旅だった。
婚約者として、正式に領地を訪れる最初の機会だった。
旅支度を始めたのは、一週間前からだった。
「何を持っていけばいいですか」
クロワに手紙で聞いた。
返事が来た。
公爵より:必要なものは全部こちらで用意する。手ぶらで来ていい。
クロワ補足:一応、動きやすい靴と、領地視察用の少し厚めのドレスをご準備ください。
あと帳簿の道具があればお持ちください。
公爵が喜びます。
「クロワ男爵、公爵に読まれませんでしたか、これ」
マリアが笑った。
「読まれたんじゃないですか」
「読まれているのに、送ってきた、ということは——公爵も同意している、ということかな」
「そうだと思います」
「……帳簿の道具、持っていきます」
「喜ばれますよ」
「マリアは」
「はい」
「一緒に来てほしい」
マリアが少し目を丸くした。
「いいんですか」
「一番信頼している侍女を連れていきたいので」
「……光栄です」
「大げさ」
「大げさではないです」
ふたりで顔を見合わせて、笑った。
出発の前夜、父の部屋に行った。
父は最近、少し起き上がれる時間が増えていた。
「明日、出発するね」
「そうか」
「三泊四日で、帰ってきます」
「楽しんで来い」
「楽しめるかな」
「楽しめるだろう」
父が笑った。
「公爵領は、広いと聞いている」
「うん」
「帳簿を見てくるんだろう」
「見ます」
「それがお前の一番の楽しみだろう」
「……父上」
「違うか」
「半分は」
「半分は公爵か」
「……そうかもしれないです」
父がゆっくりと笑った。
「幸せそうだな」
「……幸せです」
「よかった」
「父上も、早く元気になってください」
「なるよ、お前が帰ってくるまでに」
「約束ですよ」
「約束だ」
父の手が、リリエラの手に触れた。
温かかった。
病気になってから、少し冷たくなっていた手が——今日は温かかった。
出発の朝は、晴れていた。
八月の終わりの朝は、少しだけ涼しかった。
馬車が来た。
いつもより大きい馬車だった。
公爵家の紋章が入っていた。
公爵が来た。
「おはようございます」
「ああ」
「いい天気ですね」
「そうだな」
「緊張しています」
「領地のことか」
「領民の方に会うのが」
「心配しなくていい」
「でも初めてなので」
「大丈夫だ」
「根拠はありますか」
「あなたが来るのを、みんな楽しみにしている」
「……本当ですか」
「クロワから聞いた。農業担当のソランが、三日前から準備しているらしい」
「三日前から」
「そういう人たちだ」
リリエラは少し胸が温かくなった。
まだ会ったことのない人たちが、来るのを待っていてくれている。
「乗ろう」
「はい」
馬車に乗り込んだ。
マリアが続いた。クロワが御者台に上がった。
馬車が動き出した。
王都の石畳を、ゆっくりと走り始めた。
窓から外を見た。
見慣れた街並みが、後ろへ流れていった。
「リリエラ」
「はい」
「緊張は取れたか」
「少し」
「少しか」
「でも——楽しみになってきました」
公爵が目を細めた。
「それでいい」
馬車は大通りを抜けて、王都の門へ向かった。
門をくぐる瞬間、リリエラは後ろを振り返った。
王都が、小さくなっていくのが見えた。
あの街で、婚約を破棄された。
震えながら言えた。
出会った。
選んだ。
色んなことがあった。
全部、あの街で起きた。
「……行ってきます」
小さく、呟いた。
誰に向けたわけでもなかった。
でも——公爵が聞いていた。
「行こう」
ただそれだけ言った。
馬車は北へ向かった。
三時間ほど走ったところで、景色が変わる。
建物が減って、緑が増えた。
丘が見え空が広くなった。
「……広い」
「領地はまだ先だ」
「でもこの景色だけで、もう」
「もう?」
「好きです」
公爵が少し目を細めた。
「帳簿の道具、持ってきたのか」
「持ってきました」
「クロワが嬉しがっていた」
「クロワ男爵が?」
御者台のクロワが、小さく咳払いをした。
聞こえているらしかった。
リリエラはおかしくなって、笑った。
マリアも、窓の外を見ながら笑っていた。
公爵の口元が、動いていた。
馬車の中に、笑いが満ちた。
空が、どんどん広くなっていった。
昼頃、馬車が丘の上で止まった。
「降りてみろ」
公爵が言った。
「ここで止まるんですか」
「見せたいものがある」
馬車から降りた。
丘の上だった。
風が吹いていた。
目の前に——広大な緑が広がっていた。
畑が見えた。林が見えた。川が光っていた。
遠くに、小さな村の屋根が見えた。
ショコラオランジュ領だった。
「……」
リリエラは言葉が出なかった。
広かった。
地図では見ていた。帳簿の数字では知っていた。
でも——目で見ると、全然違った。
この大きさの土地を、人が生きている。
この景色の中に、帳簿の数字がある。
数字の向こうに、生活がある。
「どうだ」
「……数字が、生きていると思いました」
公爵がリリエラを見た。
「帳簿を見ていても、いつも思っていたんです。この数字の向こうに、人がいる、と。
でも——こうして見ると」
「実感するか」
「はい。全然違います」
リリエラは目を細めて、遠くの村を見た。
「早く行きたいです」
「会いたくなったか」
「領地の方達に、数字の向こうの人たちに」
公爵が静かに笑った。
風が吹いた。
リリエラの髪が、少し揺れた。
公爵がそれを見ていた。
「リリエラ」
「はい」
「来てくれてよかった」
「……来てよかったです」
「ここが——あなたの場所にもなればいいと思っている」
「今日来ただけで、もうなっている気がします」
「早いな」
「数字を好きになるのも、早かったので」
「そうか」
「そういう性格みたいです」
公爵が目を細めた。
「行こう」
「はい」
馬車に戻った。
また北へ向かった。
丘の景色が、後ろへ流れていった。
でもリリエラの目には、まだ広がっていた。
緑と、光と、川と、村と——数字の向こうにある、生きている景色が。
手帳を出した。
走る馬車の中で、揺れながら書いた。
丘の上から、領地を見た。 数字が、生きていた。 早く会いたいと思った。 ここが、私の場所にもなる。 なっていい、と言ってもらった。 なる。
一言だけ、最後に付け加えた。
来てよかった。
馬車は北へ向かって、走り続けた。




