第二十話 噂の真相
面会の場所は、王都の中心にある老舗の格式のある店だった。
壁には古い絵画が飾られていて、カーペットは深い赤で、給仕は音もなく動いていた。
貴族が密談に使う類の場所だった。
ベリーナ・パンナコッタは、約束の時刻ちょうどに現れた。
淡いピンクのドレス。
完璧に整えられた金の巻き毛。
扇を右手に持って、背筋を伸ばして歩いてくる姿は——どこからどう見ても、侯爵令嬢だった。
入り口でリリエラと目が合った。
一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、目が揺れた。
でもそれはすぐに消えて、ベリーナは完璧な社交の顔を作った。
テーブルに近づいて、扇を胸元に当てて、優雅に会釈した。
「ライムブリュレ嬢、本日はお招きいただきありがとうございます」
声も、顔も、所作も——全部、完璧だった。
それからベリーナは公爵に向いた。
「ショコラオランジュ公爵閣下、ご機嫌うるわしゅう存じます。このような機会にお目にかかれますこと、光栄に存じます」
深く、丁寧なお辞儀だった。
公爵が静かに頷いた。
「パンナコッタ嬢、座りなさい」
「はい、失礼いたします」
ベリーナが着席した。
給仕がお茶を運んできた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
格式ある沈黙だった。カップを持つ音だけが、静かな店内に響いた。
リリエラはベリーナを見た。
完璧な貴族令嬢の顔をしていた。
読めなかった。
でも——指先が、わずかに動いていた。扇の骨を、指でゆっくりなぞっていた。
緊張している。
「パンナコッタ嬢」
公爵が口を開いた。
「本日、お時間をいただいた理由はご存知かと思うが」
「……存じております」
「単刀直入に聞こう」
「はい」
「帳簿の件、あなたが動いたのか」
ベリーナは扇を持ち直した。
少しの間、テーブルの上を見ていた。
それから——顔を上げた。
「はい」
一言だった。
認めた。
公爵の目が、すうっと細くなった。
「続けて」
「ライムブリュレ嬢が手を入れた帳簿を改ざんしたという噂を、取引商会を通じて広めさせました。直接指示したのは私です。
殿下の名前は使っていません。
私個人の判断です」
「理由は」
「……ライムブリュレ嬢が、怖かった」
「怖かった、とは」
「婚約発表の夜会で——あの方を見て、自分にないものを持っていると思いました。それが怖くて、揺さぶろうとしました」
部屋が静かだった。
公爵の顔は、表情が動かなかった。
でも——空気が変わっていた。
「パンナコッタ嬢」
公爵の声が、低くなった。
「あなたは今、何をしたか、わかってるのか」
「……はい」
「わかっていて、やったのか」
「はい」
沈黙。
「ショコラオランジュ公爵家の帳簿に不正があるという噂を流した。これは——ライムブリュレ嬢個人の問題ではない」
ベリーナが黙っていた。
「公爵家の信用に、直接関わる話だ。領地の取引先、王家との関係、家臣への影響——噂ひとつで、動くものがある」
「……」
「それをわかった上で、やったのであれば」
公爵が静かに言った。
静かだった。怒鳴っていなかった。
でも——それが、かえって重かった。
「ライムブリュレ嬢個人への嫌がらせとは、話が別になる」
ベリーナの顔が、少し青くなった。
「公爵家として、正式な対応を取る事になる」
「……閣下」
「パンナコッタ侯爵家には、然るべき形で話をする」
ベリーナが俯いた。
扇を持つ指が、白くなっていた。
リリエラはその指を見ていた。
ベリーナの顔を読んだ。
怖い。
当然、怖い。
公爵家と侯爵家の話になれば——ベリーナ個人だけでは済まない。
家に、火が回る。
わかっていて、認めた。
逃げなかった。嘘をつかなかった。
ここで「私ではありません」と言えば、証拠は状況証拠だけだった。
逃げようと思えば、逃げられたかもしれなかった。
それでも、認めた。
「公爵」
リリエラが言った。
公爵がリリエラを見た。
「少し、よいですか」
「……何を」
「お時間を、いただけますか。少しだけ」
公爵が静かにリリエラを見た。
しばらく、間があった。
「‥三分だ」
立ち上がって、テーブルから少し離れたところへ歩いた。
リリエラもついていった。
ふたりで、低い声で話した。
「リリエラ、どういうつもりだ」
「庇いたいわけではないですが‥
」
リリエラは言った。
「ベリーナ嬢は、逃げられたと思います」
「……」
「証拠は状況証拠だけでした。否定しようと思えば、できた。でも認めた」
「それで、許せと」
「許せとは言いません」
リリエラは続けた。
「ただ——公爵家として正式な対応を取ることの、影響を考えてほしいです」
「影響とは」
「パンナコッタ侯爵家への話になれば、ベリーナ嬢だけでは済まない。家が動く。殿下の婚約者の実家が、公爵家と揉めることになる」
公爵が黙っていた。
「王家への影響も、出るかもしれません」
「それは承知の上で言っている」
「知っています」
リリエラは公爵を見た。
「でも——私は、被害を受けた当事者です。そのうえで、言います」
「……聞こう」
「不問にしてほしいです」
「理由は」
「ベリーナ嬢が、怖くても認めたから」
「それだけか」
「それが一番大事なことだと思うので」
公爵が、リリエラをしばらく見ていた。
「あなたは——甘い」
「そうかもしれません」
「公爵家の信用を傷つけられて、それでも」
「傷つけられたのは確かです。怒っています。今も」
リリエラは言った。
「でも——ベリーナ嬢が変わろうとしているなら、ここで潰したくない」
「変わろうとしている、とどこで判断した」
「逃げなかったから」
公爵が静かにため息をついた。
「……あなたに言われると、断れないな」
「断らないでください」
「条件がある」
「はい」
「ベリーナ嬢が、正式にあなたに謝罪すること。それから——同じことを二度しないと、私に直接約束すること」
「それで、不問にしてくれますか」
「あなたが被害者だ。あなたが決めていい」
リリエラは頷いた。
「わかりました」
「……本当に、甘い」
「レオンハルトに言われたくないです」
「なぜ」
「待てる人が、甘くない人だとは思えないので」
公爵が少し目を細めた。
「……言うようになったな、まったく」
「学びました」
「誰に」
「あなたに」
公爵がため息をついた。
でも——口元が、少し動いていた。
テーブルに戻った。
ベリーナは、俯いたまま待っていた。
公爵が椅子に座った。
「パンナコッタ嬢」
「……はい」
「本件、ライムブリュレ嬢の意向を尊重して、公爵家としての正式な対応は取らない」
ベリーナが顔を上げた。
「ただし」
「はい」
「二つ、条件がある」
「……聞かせてください」
「ライムブリュレ嬢に、正式に謝罪すること」
「はい」
「それから——同じことを二度しないと、私に直接約束して欲しい」
ベリーナが公爵を見た。
それからリリエラを見た。
「……ライムブリュレ嬢が、庇ってくれたのですか」
リリエラは何も言わなかった。
ベリーナは少しの間、何かを処理しているような顔をしていた。
それから——立ち上がった。
扇を閉じて、胸元に当てた。
深く、丁寧に、頭を下げた。
最初の挨拶より——ずっと、深く。
「ライムブリュレ嬢。帳簿の件、噂を広めたこと、心よりお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした」
静かな声だった。
社交用ではなかった。
‥本当の謝罪だった。
「……ありがとうございます」
リリエラが言った。
「受け取りました」
ベリーナが顔を上げた。
目が、少し赤かった。
「公爵閣下」
「なんですか」
「二度と、このようなことはいたしません。誓います」
「承知した」
公爵が短く言った。
三人の間に、静かな空気が流れた。
ベリーナが椅子に座り直した。
しばらく誰も言葉がなかった。
「……なぜ、庇ってくれたんですか」
ベリーナが小さな声で言った。
「逃げなかったから、と言いましたよね、さっき」
「聞こえていたの?」
「少し」
「……そうです」
リリエラは言った。
「逃げようと思えば、逃げられた。でも認めた。それが——変わろうとしている人の選択だと思ったので」
「変わろうと思っているかどうか、私自身わかっていませんでした」
「わかっていなくても——体が、正直に動くことがあると思います」
ベリーナが俯いた。
「……殿下に、話します」
「殿下に?」
「自分がやったことを」
「それは——大丈夫ですか」
「大丈夫かどうかわかりません」
ベリーナが顔を上げた。
「でも——隠し事は嫌いなので」
「怖いですか」
「……怖いです」
「怖くても言えますよ、きっと」
ベリーナが、困ったような顔でリリエラを見た。
「あなたって——本当に」
「本当に?」
「ずるいですね」
「ずるい?」
「こんな状況で、そういうことが言えるのが——ずるい」
リリエラは少し笑った。
「ずるくないですよ」
「ずるいですよ」
ベリーナが、ふっと笑った。
最初に夜会のテラスで見た、素の笑顔だった。
「……次に会うときは、もう少しましな状態でいたいです」
「私も、またお話ししたいです」
「……本当に、ずるいですね」
ベリーナが立ち上がった。
公爵に向いて、丁寧に一礼した。
「本日は、ありがとうございました」
「達者でいなさい」
短かった。
でも——公爵がそういう言い方をするのは、悪く思っていない相手に対してだと、リリエラは知っていた。
ベリーナも、それを感じたのかもしれない。
少しだけ——目が和らいだ。
「失礼いたします」
ふわふわした後ろ姿が、静かな喫茶を出て行った。
店を出て、ふたりで並んで歩いた。
夏の午後の大通りだった。
「リリエラ」
「はい」
「甘い、とまた言うぞ」
「聞きます」
「甘い」
「はい」
「でも——」
公爵が少し止まった。
「きっとこれが正しかったと思う」
リリエラは前を向いたまま、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「受け取ってください」
「……受け取った」
ふたりとも、少し笑った。
公爵がリリエラの手を取った。
人目のある大通りで。
「……見られますよ」
「見ていていい。婚約者と歩いている」
「公爵家の当主が大通りで」
「問題ない」
きっぱりしていた。
リリエラは諦めた。
繋いだまま、歩いた。
夏の光が石畳を照らしていた。
視線が来た。
怖くなかった。
むしろ少し——誇らしかった。
選んだ人と、歩いている。
それが、こんなにも温かいものだとは。
知らなかった。
その夜、手帳を開いた。
帳簿を武器にされた。 でも数字は嘘をつかなかった。 ベリーナ嬢と話した。 逃げなかった人を、潰したくなかった。 レオンハルトに甘いと言われた。 甘くていいと思っている。 大通りで手を繋いで歩いた。 恥ずかしかった。 でも——誇らしかった。 この気持ちを、覚えておこう。
書き終えて、窓の外を見た。
夜の王都が、静かに広がっていた。
明日も、怖いことがあるかもしれない。
でも——隣に大切な人がいる。
それが今一番大事な事だった。




