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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: テラトンパンチ


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第十九話 噂と疑惑

八月の初めに、噂が出た。


最初は小さかった。

「ライムブリュレ嬢が、公爵領の帳簿に手を入れているらしい」

それだけだった。


でも噂というのは、転がるうちに大きくなる。

三日後には「改ざんしているらしい」になっていた。


一週間後には「公爵家の資産を、ライムブリュレ家に流しているらしい」になっていた。

リリエラがその話を聞いたのは、茶会の席だった。


話していたのは、顔見知りの令嬢だった。

悪意があるわけではなかった。ただ——聞いた話を、そのまま話していた。

「本当かしらね」

「でも、確かめた人がいるらしいわよ」

「確かめたって、誰が」

「さあ……」

リリエラは紅茶を飲んだ。

カップを置いた。


表情は変えなかった。

でも——胸の中で、何かが冷たくなった。

怒りではなかった。

もっと、静かで——鋭い何かだった。

帳簿と数字。

嘘をつかないと思ってきたもの。

正直だと信じてきたもの。

そこを、やられた。


屋敷に帰ってから、リリエラはすぐにクロワに手紙を書いた。

公爵領の帳簿、すべての写しを送ってほしい。


自分が手を入れた箇所と、元の数字を、全部確認できる形で。

送ってから、マリアを呼んだ。

「今日聞いたことを、話します」

マリアが椅子を引いて、向かいに座った。

全部話した。


マリアは黙って聞いていた。

最後まで聞いて、少し間を置いて言った。

「誰が広めたんでしょう」

「……わかりません。でも」

リリエラは少し止まった。


「仕掛けた人間は——私の一番大事なものを知っていると思います」

「帳簿のことを」

「はい。数字が好きで、数字に自信がある。そこを狙ってきた」

マリアが静かに頷いた。

「お嬢様」

「うん」

「怖いですか」

「……怖いです」


「それでも、どうしますか」

リリエラはしばらく考えた。

「証明します」

「どうやって」

「数字で」

マリアが、少し目を細めた。

「数字は嘘をつかないので」

「……そうですね」

「私が何をしたか、全部数字の中にあります。それを——全部、出します」


「大変な作業になりますよ」

「わかっています」

「一人でやりますか」

「まず一人でやります」

「クロワ男爵には」

「頼みました。公爵には——」

リリエラは少し止まった。

「……少し、待ってください」

「なぜですか」

「自分で整理してから、話したいので」

「心配させたくない?」

「そうじゃなくて」

リリエラは言った。


「自分でできる、というところを——見せてから、話したいです」

マリアが少し考えた。

それから、静かに頷いた。

「わかりました」

「うん」


「でも——一人で抱えすぎたら、言ってください」

「うん」


「約束してください」

「……約束します」


翌日、帳簿の写しが届いた。

六年分。

リリエラは机に向かった。

自分が手を入れた箇所を、全部洗い出した。


一箇所ずつ、元の数字と、修正後の数字と、修正の根拠を、別の紙に書き出した。

十時間かかった。

出てきた結果は——明確だった。


改ざんはない。

一箇所も、ない。

全部、正当な修正だった。

根拠がある。説明できる。

数字の中に、全部残っている。


リリエラはペンを置いた。

深呼吸した。

「……やっぱり、なかった」

当たり前だった。

わかっていた。


でも——改めて確認したことで、何かが固まった。

私は、何もしていない。

数字が、証明している。


翌朝、公爵から手紙が来た。

噂のことを聞いた。すぐに会いたい。——レオンハルト


知っていた、とリリエラは思った。

クロワから話が入ったのだろう。

リリエラはすぐに返事を書いた。


明日の午後、伺います。証明できるものを持っていきます。——リリエラ


証明できるものを、とわざわざ書いた。

心配させたくなかった。

でも——それ以上に、自分でやれると見せたかった。


翌日。

公爵邸に着いた。

書斎に通された。

公爵はいたがいつもより、顔が少し硬かった。

「来た」

「はい」

「噂のことは」

「知っています。昨日から調べていました」

リリエラは持ってきた資料を、机の上に置いた。


「六年分の帳簿、私が手を入れた箇所を全部洗い出しました。元の数字と修正後の数字と、修正の根拠を、一箇所ずつまとめています」

公爵がリリエラを見た。


「昨日一日で、これを」

「はい」

「一人で」

「はい」

「……」

「改ざんはありません。一箇所も。全部、正当な修正です。説明できます。疑問があれば、どこでも答えます」

公爵は資料を手に取った。


ページをめくった。

しばらく、黙って見ていた。

リリエラは黙って待った。

「リリエラ」

「はい」

「これを、なぜ一人でやった」

「自分でできると思ったので」

「そうではなくて」

公爵がリリエラを見た。


「なぜ——私に先に言わなかった」

「整理してから話したかったので」

「私を、信じていないわけではないのか」

「信じています」

「なら」

公爵の声が、少し——低くなった。

怒っているのではなかった。


でも——何か、切実なものがあった。

「あなたが一人で抱えているとき、私は——何もできない」

「……」

「あなたが動いている間、私は何も知らなかった。それが——」

止まった。


リリエラは公爵の顔を読んだ。

怒りではなかった。

不安、だった。

この人が不安な顔をするのを、初めて見た気がした。

「……心配、していたんですか」

「している」


「今も?」

「今も」


「でも、証明できました」

「そういう話ではない」

公爵がリリエラを見た。


「一人でやれることと、一人でやらなくていいことは——違う」

「……」

「あなたは一人でやれる。私もわかっている。でも——」


「レオンハルト」

リリエラが呼んだ。

公爵が止まった。


「ごめんなさい」

「……」

「一人でできると思いすぎました」

「そうではない、そういう謝り方は」

「でも——隣にいてほしかったのに、隣に来てもらうのを後回しにしました。それは——正直、間違えたと思います」

公爵が黙った。


リリエラは続けた。

「自分でできることを見せたくて——でも、それより先に、話すべきでした」

「……」

「一人でできることと、一緒にやることは、違いましたね」

部屋が静かになった。


公爵がため息をついた。

珍しかった。この人がため息をつくのを、初めて聞いた気がした。

「……怒っているわけではない」

「知っています」

「ただ、怖かった。あなたが一人で抱えているのに、私が気づかない未来が——怖かった」


リリエラは少し、胸が痛くなった。

この人は——失うことを怖がる人だった。

言えないまま終わることを、恐れてきた人だった。


だから——知らないままでいることが、怖い。

「次からは、すぐに話します」

「……約束できるか」

「できます」

「本当に」

「はい。怖くても、話します」

公爵がリリエラを見た。

しばらく見て——


「わかった」

「……怒りましたか」

「怒っていない」

「本当に」

「本当に」

「……よかったです」

「ただ」

「はい」


「次はない」

「……はい」


「次、一人で抱えたら」

「怒る」

「……珍しいですね」

リリエラは少し笑った。

公爵の口元も、少し動いた。


張り詰めていた空気が、ゆっくりとほぐれていった。

「それで」

公爵が資料に目を戻した。

「この噂、誰が広めたと思う」

「……心当たりはあります」

「言えるか」

「確信はないので、まだ」


「わかった。調べる」

「私も調べます」

「一緒に調べよう」

「……はい」

「一緒に、だ」

「はい、一緒に」

今度は、ちゃんと答えた。


公爵が頷いた。

「クロワを呼ぶ」

「はい」

「三人で、洗い出す」

「はい」

「あなたの資料が、起点になる」

「役に立ちますか」


「十分すぎるくらいに」

リリエラは机の上の資料を見た。

昨日一日かけて作ったもの。


一人で作ったことは、間違えだったかもしれない。

でも——作ったものは、ちゃんと役に立つ。


それで、いい。

次は、一緒に作ろう。

無実であることを証明するのは時間も手間もかかりとても大変ですよね。

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