第二話 てがみ
手紙は朝食の前に届いた。
使用人がそっとテーブルに置いたとき、リリエラはまだ昨夜の夢と現実の境目にいた。
眠れなかったわけではない。
眠りが浅かっただけだ。
夢の中でも、ずっと誰かの視線を感じていた。
封蝋を見て、手が止まった。
深い青。押された紋章は見覚えがない。けれど脇に添えられた家名の略章で、すぐにわかった。
ショコラオランジュ家。
「……なぜ」
声に出てしまった。
侍女のマリアが小首を傾げる。リリエラは「なんでもない」と首を振って、手紙を開いた。
便箋は一枚だった。
書かれていたのは、一行だけだった。
明日の午後、時間があれば。——L
以上だった。
場所も、時間も、目的も、書いていない。
リリエラはその一行を三度読んだ。三度読んでも、情報量は変わらなかった。
「奥様にご報告しなくてよいのですか」
マリアが恐る恐る聞いた。
リリエラは少し考えた。
母に見せれば、大騒ぎになる。昨夜の婚約破棄でなくとも——公爵家からの手紙となれば、家中が動く。父は損得を計算し始め、母は令嬢としての身だしなみを確認し始め、リリエラの意思は三段階目以降に後回しになる。
いつもそうだった。
「……少しだけ、待ってもらえる?」
マリアは黙って頷いた。この侍女は、余計なことを言わない。それがリリエラには、ありがたかった。
手紙をもう一度見た。
明日の午後、時間があれば。
「時間があれば」というのが、気になった。
来い、ではない。待っている、でもない。「あれば」という、ひどく軽い言い方。断ることを、最初から許している言い方。
断ってもいい、ということだろうか。
リリエラは昨夜の公爵の顔を思い出した。感情の読みにくい顔。切れ長の目。それなのに、真っ直ぐこちらを見ていた目。
「よく立っていた」
声まで思い出してしまった。
低くて、静かで、褒め慣れていない人間の言い方だと思った。褒め慣れている人間は、もっと滑らかに言う。もっと型通りに言う。
あの言い方は——型通りではなかった。
だから、困る。
リリエラはため息をついた。
昨夜から、困ることばかりだった。婚約を失ったこと。震えながら変なことを言ったこと。見知らぬ公爵に助けられたこと。そしてその公爵が、翌朝に何も説明しない手紙を寄越したこと。
困ることは、ぜんぶ——
なぜか、悪い気がしない。
「……マリア」
「はい」
「返事を書きます。便箋を」
「……奥様には?」
「行ってから報告します」
マリアがかすかに目を丸くした。それからすぐに、何も言わずに便箋を取りに行った。
リリエラはペンを持った。
何を書くか、少し迷った。
迷って——短く書いた。
明日の午後、伺います。——R
一行だけ。
相手に倣った。
封をしながら、リリエラは自分が少しだけ——ほんの少しだけ——笑っていることに気づいた。
婚約を失った翌朝に笑うなんて、おかしいと思った。
でも、笑っていた。
ショコラオランジュ公爵邸は、街の中心からすこし外れた場所にあった。
馬車の窓から見えた門は、飾り気がなかった。権威を誇示するような彫刻も、威圧するような高さもない。ただ、静かに、そこにあった。
公爵家にしては、随分と。
思いかけて、リリエラは自分を止めた。
門構えで人を測るような真似はしたくなかった。
婚約者だった王太子の宮殿は豪奢で煌びやかで——中身は、知っての通りだった。
案内された応接室も、質素だった。
質素、というより——余分がない、という方が正しいかもしれない。
置かれているものはどれも上質だったが、必要以上に多くなかった。広い室内に、ソファと低いテーブルと、暖炉。
それだけだった。
リリエラは背筋を伸ばして座った。
五分ほど待ったとき、扉が開いた。
「来てくれた」
開口一番、それだった。
挨拶でも、着席の促しでも、天気の話でもなかった。
ただ——来てくれた、という、確認とも安堵ともとれる一言。
公爵はリリエラの向かいに座った。
昨夜と同じく、静かな所作だった。
「……呼んでおいて失礼ですが」
公爵は言った。
「目的を、まだ話していなかった」
「……存じております」
「怖くなかったか」
真っ直ぐな問いだった。
リリエラは少し迷って、正直に答えた。
「……少し」
「それでも来た、か」
「手紙を書いた後で怖くなりました。順番が逆でした」
公爵がかすかに目を細めた。昨夜も見た表情だった。笑っているのかもしれない、とリリエラは思った。確信は持てなかった。
「話があります」
公爵は続けた。
「昨夜のことを、正式に詫びたかった。私が口を挟んだことで、あなたの状況が複雑になった可能性がある」
「……いいえ」
「いいえ?」
「助かりました」
リリエラは言った。
「でなければ、あの場でどうしていたか、わかりません」
「震えていた」
「……見えていましたか」
「見えていた」
隠せていなかった、と思って恥ずかしくなった。けれど公爵は責めるような顔をしていなかった。
ただ、そう言った。事実として。
「それでも言えた。大したことだと思った」
「……大したことでは、ないと思います」
「なぜ」
「震えながら言っても、意味が伝わらなければ」
「伝わった」
公爵は短く言った。
「少なくとも私には」
リリエラは黙った。返す言葉が、すぐに出てこなかった。
暖炉が小さく鳴った。
沈黙が、不思議と苦しくなかった。この人との沈黙は、埋めなければならない種類のものではない気がした。
「もうひとつ、話があります」
公爵が言った。
「……はい」
「私は、あなたに申し込みたいと思っている」
リリエラは一瞬、言葉の意味を処理できなかった。
「……もうしこ、み?」
「婚約の申し込みです」
部屋の温度が変わった気がした。暖炉は同じ温度で燃えているはずなのに。
「……なぜ」
昨夜も同じことを聞いた気がした。
公爵はすこし考えてから、答えた。
「昨夜、あなたは言った。次は選びたいと。私はその言葉を聞いて——」
短い間があった。
「初めて、選ばれたいと思った」
リリエラは何も言えなかった。
何も言えないまま、公爵の次の言葉を待った。
「ただ」
公爵は続けた。
「返事は急がない。今日でなくていい、来月でなくていい」
「……」
「あなたが選ぶのであれば——私は、待てる」
静かな声だった。
圧がなかった。
迫ってこなかった。
ただそこに、揺るがない確かさとして、あった。
リリエラは自分の手を見た。
膝の上で、指が少し震えていた。
昨夜とは違う震えだった。
怖いのではない、とわかった。
ではなんなのか——まだ、わからなかった。
「……すぐには」
リリエラはようやく言った。
「すぐには、お答えできません」
「わかった」
「……怒りませんか」
「なぜ怒る」
「普通は‥」
「私は普通ではないかもしれない」
また、目が細くなった。
今度こそ笑っているのだと思った。
リリエラは小さく息を吸った。
「……考えます。時間をいただけますか」
「いくらでも」
その一言が、不思議なほど重くなかった。
軽くもなかった。
ただ——本当のことを言っている人間の、声だった。
帰り道、馬車の中でリリエラはずっと窓の外を見ていた。
選ばれたいと思った。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
「私なんて」と思いかけて——
なぜそう思うのだろう、と、初めて疑問に思った。




