表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: テラトンパンチ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/25

第二話 てがみ

手紙は朝食の前に届いた。

使用人がそっとテーブルに置いたとき、リリエラはまだ昨夜の夢と現実の境目にいた。


眠れなかったわけではない。

眠りが浅かっただけだ。

夢の中でも、ずっと誰かの視線を感じていた。


封蝋を見て、手が止まった。

深い青。押された紋章は見覚えがない。けれど脇に添えられた家名の略章で、すぐにわかった。

ショコラオランジュ家。

「……なぜ」


声に出てしまった。

侍女のマリアが小首を傾げる。リリエラは「なんでもない」と首を振って、手紙を開いた。

便箋は一枚だった。

書かれていたのは、一行だけだった。


明日の午後、時間があれば。——L


以上だった。

場所も、時間も、目的も、書いていない。

リリエラはその一行を三度読んだ。三度読んでも、情報量は変わらなかった。


「奥様にご報告しなくてよいのですか」

マリアが恐る恐る聞いた。

リリエラは少し考えた。

母に見せれば、大騒ぎになる。昨夜の婚約破棄でなくとも——公爵家からの手紙となれば、家中が動く。父は損得を計算し始め、母は令嬢としての身だしなみを確認し始め、リリエラの意思は三段階目以降に後回しになる。

いつもそうだった。


「……少しだけ、待ってもらえる?」

マリアは黙って頷いた。この侍女は、余計なことを言わない。それがリリエラには、ありがたかった。

手紙をもう一度見た。

明日の午後、時間があれば。

「時間があれば」というのが、気になった。

来い、ではない。待っている、でもない。「あれば」という、ひどく軽い言い方。断ることを、最初から許している言い方。


断ってもいい、ということだろうか。

リリエラは昨夜の公爵の顔を思い出した。感情の読みにくい顔。切れ長の目。それなのに、真っ直ぐこちらを見ていた目。

「よく立っていた」

声まで思い出してしまった。


低くて、静かで、褒め慣れていない人間の言い方だと思った。褒め慣れている人間は、もっと滑らかに言う。もっと型通りに言う。

あの言い方は——型通りではなかった。

だから、困る。


リリエラはため息をついた。

昨夜から、困ることばかりだった。婚約を失ったこと。震えながら変なことを言ったこと。見知らぬ公爵に助けられたこと。そしてその公爵が、翌朝に何も説明しない手紙を寄越したこと。

困ることは、ぜんぶ——

なぜか、悪い気がしない。


「……マリア」

「はい」

「返事を書きます。便箋を」

「……奥様には?」

「行ってから報告します」

マリアがかすかに目を丸くした。それからすぐに、何も言わずに便箋を取りに行った。

リリエラはペンを持った。

何を書くか、少し迷った。

迷って——短く書いた。


明日の午後、伺います。——R


一行だけ。

相手に倣った。

封をしながら、リリエラは自分が少しだけ——ほんの少しだけ——笑っていることに気づいた。

婚約を失った翌朝に笑うなんて、おかしいと思った。

でも、笑っていた。


ショコラオランジュ公爵邸は、街の中心からすこし外れた場所にあった。


馬車の窓から見えた門は、飾り気がなかった。権威を誇示するような彫刻も、威圧するような高さもない。ただ、静かに、そこにあった。

公爵家にしては、随分と。


思いかけて、リリエラは自分を止めた。

門構えで人を測るような真似はしたくなかった。

婚約者だった王太子の宮殿は豪奢で煌びやかで——中身は、知っての通りだった。

案内された応接室も、質素だった。


質素、というより——余分がない、という方が正しいかもしれない。

置かれているものはどれも上質だったが、必要以上に多くなかった。広い室内に、ソファと低いテーブルと、暖炉。

それだけだった。

リリエラは背筋を伸ばして座った。

五分ほど待ったとき、扉が開いた。

「来てくれた」

開口一番、それだった。

挨拶でも、着席の促しでも、天気の話でもなかった。


ただ——来てくれた、という、確認とも安堵ともとれる一言。

公爵はリリエラの向かいに座った。

昨夜と同じく、静かな所作だった。


「……呼んでおいて失礼ですが」

公爵は言った。

「目的を、まだ話していなかった」

「……存じております」

「怖くなかったか」

真っ直ぐな問いだった。

リリエラは少し迷って、正直に答えた。

「……少し」

「それでも来た、か」


「手紙を書いた後で怖くなりました。順番が逆でした」

公爵がかすかに目を細めた。昨夜も見た表情だった。笑っているのかもしれない、とリリエラは思った。確信は持てなかった。

「話があります」

公爵は続けた。


「昨夜のことを、正式に詫びたかった。私が口を挟んだことで、あなたの状況が複雑になった可能性がある」

「……いいえ」

「いいえ?」

「助かりました」

リリエラは言った。

「でなければ、あの場でどうしていたか、わかりません」


「震えていた」

「……見えていましたか」

「見えていた」

隠せていなかった、と思って恥ずかしくなった。けれど公爵は責めるような顔をしていなかった。

ただ、そう言った。事実として。

「それでも言えた。大したことだと思った」


「……大したことでは、ないと思います」

「なぜ」

「震えながら言っても、意味が伝わらなければ」

「伝わった」

公爵は短く言った。

「少なくとも私には」


リリエラは黙った。返す言葉が、すぐに出てこなかった。

暖炉が小さく鳴った。

沈黙が、不思議と苦しくなかった。この人との沈黙は、埋めなければならない種類のものではない気がした。

「もうひとつ、話があります」

公爵が言った。


「……はい」

「私は、あなたに申し込みたいと思っている」

リリエラは一瞬、言葉の意味を処理できなかった。

「……もうしこ、み?」

「婚約の申し込みです」

部屋の温度が変わった気がした。暖炉は同じ温度で燃えているはずなのに。

「……なぜ」

昨夜も同じことを聞いた気がした。

公爵はすこし考えてから、答えた。


「昨夜、あなたは言った。次は選びたいと。私はその言葉を聞いて——」

短い間があった。

「初めて、選ばれたいと思った」

リリエラは何も言えなかった。

何も言えないまま、公爵の次の言葉を待った。

「ただ」

公爵は続けた。


「返事は急がない。今日でなくていい、来月でなくていい」

「……」

「あなたが選ぶのであれば——私は、待てる」

静かな声だった。

圧がなかった。


迫ってこなかった。

ただそこに、揺るがない確かさとして、あった。

リリエラは自分の手を見た。

膝の上で、指が少し震えていた。

昨夜とは違う震えだった。

怖いのではない、とわかった。


ではなんなのか——まだ、わからなかった。

「……すぐには」

リリエラはようやく言った。

「すぐには、お答えできません」

「わかった」

「……怒りませんか」

「なぜ怒る」

「普通は‥」

「私は普通ではないかもしれない」

また、目が細くなった。


今度こそ笑っているのだと思った。

リリエラは小さく息を吸った。

「……考えます。時間をいただけますか」

「いくらでも」


その一言が、不思議なほど重くなかった。

軽くもなかった。

ただ——本当のことを言っている人間の、声だった。

帰り道、馬車の中でリリエラはずっと窓の外を見ていた。

選ばれたいと思った。

その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

「私なんて」と思いかけて——


なぜそう思うのだろう、と、初めて疑問に思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ