第十七話 兄と公爵
フランシス・ライムブリュレ(兄様)が学院から戻ってきたのは、七月の終わりだった。
馬車が門に入ってくるのを、リリエラは玄関先で待っていた。
扉が開いて、降りてきた兄を見た。
背が伸びていた。
二年前に見送ったときより、少し大人になっていたが顔は——相変わらず、少し子どもっぽかった。
「リリエラー」
「おかえり、フランシス兄様」
兄がリリエラを見た。
上から下まで、ゆっくり見た。
「……んーなんか、変わった?」
「そう?」
「うんなんか、違う」
「二年ぶりだから」
「そういうことじゃなくて」
兄が眉を寄せた。
「なんか‥怖くなった気がする?」
「‥怖い?」
「昔のリリエラは、もっとふわっとしてた」
「失礼な」
「褒めてないけど、褒めてる感じの話だよ」
「どっちですか」
兄がまだリリエラを見ていた。
それから、小さく笑った。
「……まあ、いいか。元気そうで」
「元気です」
「ところで、父上の容体は?」
「少し上向いています」
「母上も相変わらず?」
「お元気です」
「じゃあリリエラは」
「元気です、さっき言いました」
「‥婚約したって聞いた」
「……はい」
兄の顔が、少し変わった。
「誰と?」
「ショコラオランジュ公爵です」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
「……公爵?」
「はい」
「ショコラオランジュ公爵?」
「はい」
「あの、王家に次ぐ位の?」
「はい」
また沈黙。
「リリエラ」
「はい」
「もしかして俺に話があるんじゃないの、その人から」
「順番が逆になってしまいました」
「逆、って」
「先に婚約してしまいました」
兄の顔が、じわじわと複雑になっていった。
「……俺、留学してただけだよ?」
「はい」
「二年だよ?」
「はい」
「何があったのさ」
「色々ありました」
「色々って」
「中に入りながら話します」
リリエラは玄関の扉を開けた。
兄は動かなかった。
まだ、何かを処理している顔だった。
「兄様」
「……うん」
「中に入ってください、荷物も多いでしょう」
「うん。うん、そうだね」
ぼんやりしたまま、兄が歩き始めた。
夕食の後、兄の部屋でリリエラは最初から話した。
婚約破棄のこと。
夜会のこと。公爵のこと。
帳簿のこと。この四ヶ月のこと。
兄は黙って聞いていた。
途中で何度か口を開きかけて、リリエラに「まだ話してます」と止められて、また黙った。
全部話し終えると、兄はしばらく天井を見ていた。
「うちの可愛いリリエラを棄てるなんて許せん、殿下め‥」
「兄様、不敬ですよ」
「あぁついね、気をつける、それで‥」
「……その公爵、信用できる人なの」
「できます」
「どうして言い切れるのさ」
「四ヶ月、見てきたので」
「四ヶ月で人間ってわかるのか?」
「わかります。少なくとも、嘘をつく人ではないと」
「でも公爵だよ。格が違いすぎる」
「格は関係ないです」
「いやいや関係ある」
「兄様」
リリエラは兄を見た。
「私、自分で選びました」
「……うん」
「怖かったけど、自分で決めました」
「うん」
「だから——応援してほしいです」
兄が黙って天井を見た。
床を見た。
それから、リリエラを見た。
「……まずその公爵に、会いたい」
「会えます」
「リリエラを泣かせたら許さないって、言いたい」
「言ってください」
「え、言っていいの?」
「むしろ言ってくれると嬉しいです」
兄が少し驚いた顔をした。
それから——
「……わかった。会う」
「ありがとうございます」
「でも、気に入らなかったら言うから」
「どうぞ」
「本当に言うよ?」
「どうぞ」
兄がリリエラを見た。
「……なんか、ほんとに変わったよね」
「そうですか」
「昔だったら、そこで『すみません』って言ってた」
リリエラは少し考えた。
「……そうだったかも」
「今は言わないじゃん」
「謝ることじゃないので」
兄が、少しの間リリエラを見ていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……でもまぁよかった」
「兄様、何がですか」
「なんか、よかった。うまく言えないけど、うん」
「俺が留学してる間に、リリエラが強くなったのが——よかった、少し安心したよ」
リリエラは少し目が熱くなった。
泣かなかった。
「兄様も、変わりました」
「そう?」
「少し、大人になりました」
「俺、元から大人だよ」
「そうでしたっけ」
「そうだよ」
「……まあ、いいです」
兄が笑った。リリエラも笑った。
久しぶりに、兄と笑った。
数日後、フランシスとレオンハルトが初めて会う日が来た。
場所はライムブリュレ家の応接室だった。
公爵が来る前、フランシスがリリエラに小声で言った。
「お、俺、緊張してきた」
「なんで兄様が緊張するんですか」
「するよ。公爵だよ」
「会いたいって言ったのは兄様です」
「そりゃ‥言ったけど」
「どうぞしっかりしてください」
「……なんでリリエラが堂々としてるの」
「慣れました」
「慣れたって‥」
「四ヶ月で慣れます」
フランシスがため息をついた。
そこに、馬車が来た。
対面は、穏やかに始まった。
公爵は丁寧だった。
フランシスへの挨拶も、簡潔で誠実だった。
フランシスは最初、少し固かった。
でも公爵が言った。
「フランシス殿は、学院で何を専攻されていたのですか」
「……農業経済です」
「ふむ、それは」
公爵の目が、少し動いた。
「ショコラオランジュ領で、ちょうど農業収支の見直しをしているところです。もしよければ、話を聞かせてもらえますか」
フランシスが固まった。
リリエラも少し驚いた。
「……俺の話を、聞きたいんですか」
「専門家の意見は貴重です」
「俺、まだ学生で‥」
「学んできた知識は十分、実用に値すると思いますが」
フランシスがリリエラを見た。
リリエラは小さく頷いた。
本当のことしか言わない人なので。
フランシスがまた公爵を見た。
少し——表情がほぐれた。
「……じゃあ、少し」
それから二人は、しばらく農業経済の話をしていた。
リリエラは横で聞きながら、お茶を飲んでいた。
話が盛り上がっていた。
専門的な話だったけど、ふたりとも楽しそうだった。
よかった。
リリエラは思った。
単純によかった、と思った。
帰り際、フランシスが玄関先で公爵に言った。
「リリエラを——よろしくお願いします」
「はい」
「泣かせたら、怒りますよ」
「承知した」
「……本当に?」
「承知した、と言った」
フランシスが少し間を置いた。
それから——
「……わかりました。信用します」
公爵が頷いた。
リリエラは少し離れた場所で見ていた。
マリアが隣に来て、小声で言った。
「よかったですね、お嬢様」
「うん」
「お兄様、最後は認めていましたよ」
「見てたんですか」
「少し」
リリエラは笑った。
「マリアは、いつも見てるね」
「お嬢様のことは、ちゃんと見ていたいので」
リリエラは前を向いた。
玄関先で、兄と公爵がまだ何か話していた。
ふたりの背中が並んでいた。
悪くない景色だった。




