第十六話 公爵に拾われた婚約者
婚約発表の翌日から、噂が動き始めた。
おめでとう、という声もあった。
公爵家と伯爵家では格が違いすぎる、という声もあった。
そして——
「ライムブリュレ嬢は、公爵に拾われたのね」
その言葉を、リリエラが聞いたのは、発表から三日後の昼の茶会だった。
言った人は、リリエラに向けて言ったわけではなかった。
少し離れた席で、扇の陰で、誰かに話していた。でも聞こえた。
聞こえてしまった。
リリエラは紅茶を飲みカップを置いた。
表情は変えなかった。
でも——胸の中で、何かがじわっと熱くなった。
怒り‥なんだと思った。
ただ今まで感じてきた怒りとは、少し種類が違った。
冷たい怒りではなかった。静かでもなかった。
もう少し——熱い怒りだった。
拾われた。
その言葉が、頭の中で繰り返された。
私は、拾われたのだろうか。
婚約破棄されて、行き場を失って、たまたま公爵に目をかけてもらって——そういうことだろうか。
違う、とリリエラは思った。
私は、自分で会いに行った。
自分で手紙を書いた、自分で扉を開けた。
自分で帳簿を解いた。自分で震えながら言った。
拾われたのではなく——選んだのだ。
でも。
でも、そう見える人には、そう見えるのだろう。
婚約破棄された令嬢が、公爵に婚約してもらった。その順番だけ見れば——確かに、そう映るかもしれない。
それが、悔しかった。
帰り道、馬車の中でずっとそのことを考えていた。
屋敷に着いて、部屋に入って、引き出しから新しい手帳を出した。
先週、買っていた。白いページが、まだ全部空白だった。
ペンを持ち書こうとした。
‥書けなかった。
怒りを言葉にしようとすると、うまくまとまらなかった。
数字と違って、感情は式が立てにくかった。
「お嬢様」
マリアが扉から顔を出した。
「お茶を持ってきました」
「……ありがとう」
マリアが部屋に入ってきた。
お茶を置いて、リリエラの顔を見た。
何も言わなかった。ただ、椅子を引いて、向かいに座った。
「話しますか」
「……うん」
「どうぞ」
リリエラは今日聞いた言葉を、そのまま話した。
拾われた、という話。
マリアは黙って聞いていた。
最後まで聞いて、少し間を置いて言った。
「腹が立ちますね」
「……うん」
「お嬢様が選んだのを、私は見てきたので」
「うん」
「震えながら手紙を書いて、震えながら会いに行って、震えながら告白したのを——私はちゃんと知っています」
リリエラは手の中のカップを見た。
「……知っててくれてるだけで、少し楽になる」
「それはよかったです」
「それにマリアにしか言えないこと、たくさんあるから」
「光栄です」
リリエラは少し笑った。
お茶を飲んだ。少し、落ち着いた。
「公爵には話す?」
マリアが聞いた。
「……どうしよう」
「話した方がいいと思いますよ」
「心配させたくない」
「心配させていいと思います」
リリエラがマリアを見た。
「心配させることも——一緒にいることだと思うので」
リリエラはしばらく考えた。
それから、新しい手帳を開いた。
ペンを持った。
今度は——書けた。
今日、拾われたと言われた。 悔しかった。 私は選んだのに、と思った。 でも——選んだことは、私が知っている。 マリアが知っている。 レオンハルトが知っている。 それで、十分かもしれない。 十分、だといいな。
書いたら、少し軽くなった。
数字は書けば整理できる。
気持ちも——書けば、少し整理できるらしかった。
翌日、公爵に手紙を書いた。
昨日のことを、そのまま書いた。
怒ったこと。悔しかったこと。
マリアに話して少し楽になったこと。
最後に一行添えた。
報告です。ご心配なく。——リリエラ
送ってから、少し後悔した。
心配をかけるかもしれない。
でも——マリアが言っていた。心配させることも一緒にいることだ、と。
信じることにした。
返事は夕方に来た。
悔しかったのは正しい。
あなたは選んだ。私も、選ばれた。それだけが事実だ。——レオンハルト
読んで、目が熱くなった。
泣かなかった。
でも——泣かないようにするのに、少し時間がかかった。
手紙を、手帳に挟んだ。
最初の手帳に挟んであった手紙の隣に、新しい手帳の最初のページを開いて、挟んだ。
あなたは選んだ。私も、選ばれた。
それが事実だと、彼は言った。
なら——それは事実であると私も信じたい。
その話が広まるのに、二週間かかった。
きっかけは、ガルディア夫人だった。
七十代。社交界で五十年以上、影響力を持ち続けている人物。白髪を高く結い上げて、いつも黒いドレスを着ている。
その夫人が、あるサロンで言った。
「ライムブリュレ嬢は分不相応な婚約をした。女性が男性を選ぶなど、貴族の秩序を乱す話だ」
サロンに集まっていた貴族たちが、静かに頷いた。
その話が広まった。
広まって——リリエラの耳にも入った。
入ったのは、大きな夜会の前日だった。
「……ガルディア夫人が」
マリアから聞いて、リリエラはしばらく黙っていた。
「その夜会、出席されますか」
「します」
「大丈夫ですか?」
「‥わからない」
正直に言った。
「でも——行きます」
夜会は王都の大ホールで開かれた。
出席者は二百名を超えていた。
公爵が隣にいた。
入り口に立ったとき、リリエラは視線を感じた。昨日より多い視線だった。ガルディア夫人の話が広まっているせいだろう、と思った。
「大丈夫か」
公爵が小さな声で言った。
「……今のところは」
「今のところ、か」
「正直に言いました」
「よく言えた、偉いな」
ホールに入った。
人が多かった。
声が多かった、光が多かった。
リリエラは公爵の隣で、いつも通り微笑んで、いつも通り挨拶した。
人の顔を読んだ。
温かい顔の人もいた。
品定めする顔の人もいた。
面白がっている顔の人もいた。
全部、読んだ。
読んで——どれも、昔ほど怖くなかった。
夜会の中盤、ガルディア夫人がリリエラの前に現れた。
黒いドレス。白い髪。鋭い目。
「ライムブリュレ嬢」
「ガルディア夫人」
「お噂はかねがね」
「そうでしょうか」
夫人が扇をゆっくりと動かした。
「公爵との婚約、おめでとう。ただ——少し、心配しているの」
「何をでしょう」
「女性が選ぶ、などという話が広まると——若い令嬢たちが勘違いをする。貴族には、守られてきた秩序というものがある」
「……はい」
「あなたのような方が、そういう話の象徴になるのは——いかがなものかしら、と思って」
夫人の周りに、数人が集まっていた。
聞いていた。
リリエラは夫人の顔を読んだ。
悪意というより——本気でそう思っている顔だった。この人は、長い時間をかけて「そういうもの」として生きてきた人だった。
間違いだとは思っていない。
だから——難しかった。
でも。
言わないままでいられない。
「夫人」
リリエラは言った。
声が、少し震えた。
震えていた。
でも——続けた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「女性は選ばれるもの、と——どなたが決めたのですか」
ホールの近くにいた人たちが、静かになった。
夫人の目が、すっと細くなった。
「……それは」
「昔からそう言われてきた、とおっしゃるなら——それはわかります。でも」
リリエラは続けた。
「昔からそうだったことが、正しいこととは——限らないと思うので」
「ライムブリュレ嬢、あなたは」
「私は、公爵に拾われたのではありません」
静かな声だった。
でも——ホールに、届いた。
「怖かったです。震えていました。それでも、自分で選びました。自分の足で会いに行きました。自分の口で伝えました。それは——誇っていいことだと思っています」
夫人が黙っていた。
周りも、静かだった。
「貴族の秩序を乱すつもりはありません。ただ——自分で選ぶことが秩序を乱すというなら、その秩序が正しいのか、私にはわかりません」
言い終えた。
心臓がうるさかった。
足が震えていた。
でも——言えた。
大勢の前で、震えながら、言えた。
夫人はしばらくリリエラを見ていた。
何かを言いかけた。
扇をゆっくり閉じて、静かに歩き去った。
周りがざわめき始めた。
リリエラは正面を見たまま、深呼吸した。
隣に、公爵が立っていた。
ずっと、そこにいた。
何も言わなかった。ただ——いた。
「……聞いていましたか」
「全部」
「出すぎましたか」
「いいえ」
「でも、波風が」
「立てていい波風もある」
公爵が静かに言った。
「あなたは正しいことを言った」
「……震えてました」
「見えていた」
「格好、悪かったですか?」
「いや、格好よかった」
リリエラは少し俯いた。
頬が熱かった。
そこに、意外な人物が近づいてきた。
アルフォンス王太子だった。
今夜も出席していたのか、と思う間もなく——王太子がリリエラの前に来て、言った。
「さっきの話、聞いた」
「……殿下」
「良かったと思う」
「……ありがとうございます」
「ガルディア夫人に正面から言える人間は、そういない。俺も——言えたためしがない」
王太子の声は、珍しく静かだった。
よく通る声が、今日は抑えられていた。
「ベリーナも、言えないって言ってた」
「……パンナコッタ嬢が?」
「ああ。あいつ、あなたのこと——少し、変わった目で見てるよ」
「変わった目、というのは」
「嫌いじゃない目だと思う。本人には言うなよ」
王太子が小さく笑った。
珍しく——素直な笑いだった。
「俺からも、おめでとう」
「……ありがとうございます」
「公爵」
王太子が公爵を見た。
「大切にしろよ」
公爵が短く頷いた。
「言われるまでもない」
王太子がふっと笑って、人混みの中に戻っていった。
その背中を見ながら、リリエラは思った。
この人も——少し、変わったんだな、と。
「リリエラ」
公爵が言った。
「はい」
「疲れたか」
「……かなり」
「もう少しで終わる」
「うん」
「よく言えた」
「……震えてたけど」
「震えながら言えた、と——あなたが最初に教えてくれた」
リリエラは顔を上げた。
「……私が?」
「あの夜会で、あなたが震えながら言ったのを見て——私は初めて、ああいうことができるのだと知った」
「……」
「だからあの夜、声をかけた」
リリエラは何も言えなかった。
面白かったから、と最初に言っていた。
その言葉の意味が——今日、少し深くなった気がした。
「レオンハルト」
「なんだ」
「今日のこと——手帳に書きます」
「何を」
「震えながら、大勢の前で言えたこと」
公爵が目を細めた。
「それから」
「それから?」
「あなたが、ずっと隣にいてくれたこと」
公爵は少し間を置いた。
「……そうか」
「はい」
「大事なことは、残しておいた方がいい」
「そうですね」
公爵が小さく笑った。
夜会の音楽が、ホールに流れていた。
シャンデリアが光を散らしていた。
リリエラは今夜、ここに立っていていい、と思った。
拾われたのではなく、選んで——ここに立っている。
それが、自分の事実だった。
その夜遅く、帰宅してすぐに手帳を開いた。
震えながら、大勢の前で言えた。 女性は選ばれるものだと、誰が決めたのか。 私には、わからない。 でもこれだけはわかる。 私は選んだ。怖くても、震えても、選んだ。 それは、正しいことだったと思う。 ずっと、そう思い続けよう。
書き終えて、ペンを置いた。
窓から夜風が入ってきた。
遠くで、夜会の余韻みたいな音楽が、まだかすかに聞こえていた。
もっと悲劇的だったり感情的なシーンの方が良いか迷いますね‥。
難しいです。




