第十五話 七月の夜会
婚約発表の夜会は、七月の初めに決まった。
場所はショコラオランジュ公爵邸。
招待客は百名ほどで王都の主要な貴族はほとんど呼ばれる、ということだった。
「百名」とマリアから聞いたとき、リリエラは少しだけ遠い目をした。
「……多いね」
「公爵家ですから」
「うん」
「お嬢様」
「うん」
「大丈夫ですよ」
「うん」
マリアが少し心配そうな顔をした。
「返事が全部『うん』になっています」
「……ごめん、少し考えてた」
「何を」
「百人に見られること」
「慣れれば平気です」
「慣れる前に終わる‥」
「では、終わった後に平気になります」
リリエラはマリアを見た。
「……マリアって、たまにすごく的確なこと言うよね」
「そうですか」
「うん」
「ありがとうございます」
マリアが、静かに微笑んだ。
発表の前日、公爵から手紙が来た。
明日、緊張すると思う。でも、隣にいる。——レオンハルト
短かった。
いつも通り、短かった。
でも——読んだ瞬間、肩から力が抜けた。
リリエラは手紙を、手帳の隣に並べて引き出しにしまった。
手帳はもう満杯だった。
でもこの手紙は、捨てられなかった。
「マリア」
「はい」
「明日の髪、少し変えてもいい?」
「どのように」
「いつもより、少し華やかに」
マリアが少し目を丸くした。
それから——嬉しそうに、頷いた。
「かしこまりました」
夜、父の部屋に行くと父は起きていた。
最近は、少し体調が上向いていた。
明日の夜会には出られないけれど、それでも顔色が良くなっていた。
「明日だな」
「はい」
「緊張しているか」
「してます」
「そうか」
父がベッドの脇に置いていた封筒を、リリエラに渡した。
「何ですか」
「開けなさい」
封を開けた。
中には、小さな髪飾りが入っていた。
白い花をかたどった、繊細な細工のもの。
それは見覚えがあった。
「……お母様の」
「結婚式のとき、付けていたものだ」
「……父上」
「よかったら、明日、使いなさい」
リリエラは髪飾りを手の中で持った。
軽かった。でも、重さがあった。
「……ありがとうございます」
「幸せになりなさい」
「はい」
「幸せになることが——お前の仕事だ」
父がそう言って、少し照れくさそうに目を逸らした。
リリエラは笑った。
「父上、顔が赤いです」
「うるさい」
「……ありがとうございます、本当に」
父が、小さく頷いた。
部屋を出てから、廊下でリリエラはしばらく立っていた。
泣かなかった。
泣いたら、明日のために目が腫れる。
でも——鼻の奥が、つんとした。
自分の部屋に戻って、髪飾りをドレッサーの上に置いた。
窓から夜の王都が見えた。
明日、百人に見られる。
公爵の隣に立つ。
自分の口で、婚約を認める。
怖かった。
怖かったけど——逃げたくはなかった。
引き出しを開けた。
手帳を出した。
満杯だった。もう書けない。
でも——新しい手帳を買おう、と思った。
続きを書くための手帳を。
ここから先の言葉を書くための手帳を。
選んだ後の話を、書いていこう。
そう思ったら——不思議と、落ち着いた。
窓の外に、星が出ていた。
明日も、晴れそうだった。
夜会当日は、晴れた。
マリアが朝から髪を整えてくれた。
母が三回部屋に来た。
一回目は「ドレスはこれでいいの」、二回目は「紅茶でも飲む?」、三回目はとくに用がなかったらしく、リリエラの顔を見て「……うん、大丈夫ね」と言って出ていった。
「お母様、緊張してる」
「奥様もですよ」
「うん」
公爵邸に着いたのは、夕方だった。
夜会の前に、少し時間があった。
クロワに案内されて、小さな控え室に通された。
しばらくして、公爵が来た。
「来た」
「来ました」
「緊張しているか」
「しています。レオンハルトは?」
「している」
「顔に出てないですよ」
「あなたには出ているかもしれない」
リリエラは公爵の顔を見た。
読もうとした。
いつもより——目が、少し真剣だった。
「……出てますね」
「そうか」
「目が、いつもより真剣です」
「大事な夜だから」
「私も、大事な夜です」
公爵がリリエラを見た。
髪飾りに気づいた様子だった。
「その花は」
「父からもらいました。母が結婚式に付けていたものだそうです」
「……そうか」
「似合いますか」
「似合う」
「ありがとうございます」
「リリエラ」
「はい」
「今夜、少し話せない時間があるかもしれない。人が多いから」
「わかっています」
「でも——ずっと、隣にいる」
リリエラは頷いた。
「昨日の手紙、読みました」
「ああ」
「あれを読んで、落ち着きました」
公爵が少し目を細めた。
「……よかった」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「受け取ってください」
「……受け取った」
ふたりとも、少し笑った。
緊張していたけど——ちゃんと笑えた。
夜会が始まった。
シャンデリアが光を散らしていた。百人の声が、ホールを満たしていた。
リリエラは公爵の隣に立っていた。
視線が来た。
たくさんの視線が来た。
でも——隣に彼がいた。
少し前まで、誰かの視線が来るたびに縮んでいた。
今日は——縮まなかった。
人垣の中に、見知った顔があった。
ベリーナだった。
淡いピンクのドレス。
金の巻き毛、いつものふわふわした佇まい。
目が合った。
ベリーナが、笑った。
社交用の笑顔だった。
読みにくい笑顔だった。
でも——その奥に、何か別のものが見えた気がした。
読もうとした。
読めなかった。
でも——悪意、ではなかった。
何か別の、もっと複雑なものだった。
リリエラは軽く頭を下げた。
ベリーナも、頭を下げた。
それだけだった。
発表は夜会の中盤に行われた。
クロワが正式な口上を述べた。
婚約者の名前が読み上げられた。
リリエラ・ライムブリュレ。
その名前が、ホールに響いた。
ざわめきがあった。
驚く人、頷く人、扇の陰で囁き合う人。
いろんな人がいた。
リリエラは正面を見ていた。
百人の視線が、こちらに向いていた。
怖かった。
足が、少し震えていた。
隣の公爵の手が——ごく自然に、リリエラの手に触れた。
強く握るわけじゃなかった。ただ、そこにある、というくらいの触れ方だった。
でも——それだけで、足の震えが止まった。
リリエラは前を向いたまま、小さく息を吸った。
大丈夫だ。
怖くても、ここに立てる。
夜会の後半、人が少し散けてきた頃。
リリエラはテラスに出た。
少しだけ、外の空気を吸いたかった。
夜風が気持ちよかった。
七月の夜は、少しだけ涼しかった。
「ライムブリュレ嬢」
後ろから声がした。
振り返った。
ベリーナが立っていた。
ふわふわした金髪が、夜風に揺れていた。
「……パンナコッタ嬢」
「少し、話せる?」
社交用の声ではなかった。
少し——違う声だった。
リリエラは頷いた。
ふたりで、テラスの端に移動した。
しばらく、ベリーナは何も言わなかった。
庭の暗がりを見ていた。
「おめでとう」
「……ありがとうございます」
「本当に言ってるの」
「わかっています」
ベリーナが少し驚いた顔をした。
「……そう、読むのね」
「少し、得意で」
「じゃあ——これも読める?」
ベリーナがリリエラを見た。
社交用の笑顔ではなかった。
「私ね」
少し間があった。
「取引先の件、やったの、あれ私なの」
リリエラは黙っていた。
「知ってた?」
「……確信はなかったですが」
「そう」
ベリーナが視線を庭に戻した。
「謝りに来たわけじゃない。でも——今日、あなたを見ていて」
「はい」
「なんか、もう、いいかなって思った」
「もう、いい?」
「邪魔しても、意味ない、というか」
ベリーナの声が、少し小さくなった。
「あなたが持ってるものって、邪魔できるものじゃないから」
「……私が持っているもの」
「揺れないところ」
ベリーナが言った。
「圧をかけても、揺れなかったじゃない。私、ああいうの——持ってないから」
リリエラはベリーナを見た。
ふわふわした外見の下に、ずっと隠してきた何かが——少し、顔を出していた。
「パンナコッタ嬢は」
「なに」
「揺れたことが、ないんですか」
ベリーナが黙った。
長い沈黙だった。
夜風が吹いた。
「……うるさいわね」
「すみません」
「謝らないでよ、余計腹立つから」
でも——声に、怒りはなかった。
どちらかというと——困っているような、声だった。
「今夜は、おめでとうを言いに来ただけ」
「……ありがとうございます」
「それだけ」
「はい」
ベリーナが踵を返した。
戻りかけて——少し、止まった。
背中のまま言った。
「あなたみたいな人が、公爵夫人になるのは——まあ、悪くないと思う」
「……ありがとうございます」
「お世辞じゃないから、礼はいい」
「受け取ってください」
ベリーナが振り返った。
「……なんでそういうこと言うの」
「公爵に教えてもらいました」
ベリーナが一瞬、きょとんとした。
それから——ふっと笑った。
社交用じゃない、素の笑いだった。
初めて見た顔だった。
「……変な人たちね」
そう言って、今度こそ戻っていった。
リリエラはその背中を見送った。
まだ、わからないことが多かった。
でも——今夜、何かが少し動いた気がした。
テラスから戻ると、公爵が入り口に立っていた。
「遅かった」
「少し話していました」
「ベリーナ嬢と」
「……見ていたんですか」
「気になったので」
「盗み聞きは感心しないです」
「テラスの外にいたので聞こえなかった。顔だけ見えた」
「……どんな顔でしたか」
「最後に、笑っていた」
「そうですか」
「珍しそうな笑い方だった」
「素の笑顔だったと思います」
公爵が少し考えた。
「……よかったのか」
「たぶん、いい方向に向かっていると思います」
「そうか」
公爵がリリエラの隣に並んだ。
「疲れたか」
「少し」
「もう少しで終わる」
「うん」
「頑張った」
「……急に言わないでください」
「なぜ」
「なんか、泣きそうになるので」
公爵が少し目を細めた。
「泣いていい」
「っ泣きません」
「泣いてもいい」
「泣きませんってば」
「‥そうか」
ホールの方から、音楽が聞こえていた。
夜会はまだ続いていた。
でも——リリエラには、今夜一番大事なことはもう、全部終わった気がしていた。
父からもらった髪飾りが、シャンデリアの光を受けて、小さく光っていた。




