第十四話 カリナ夫人
公爵邸に着いたとき、クロワが玄関まで出てきた。
「ライムブリュレ嬢、ようこそおいでくださいました」
「クロワ男爵、よろしくお願いします」
「こちらこそ——」
クロワが、少し止まった。
目が、微妙に泳いでいた。
リリエラはそれを読んだ。
クロワ男爵が、緊張している。
几帳面で、有能で、十年以上公爵に仕えてきたこの人が——緊張していた。
「クロワ男爵」
「はい」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。もちろん大丈夫です。問題ありません」
大丈夫が少し多かった。
「……緊張していますか?」
「……少し」
「私もです」
クロワがリリエラを見た。
「ですので、一緒に頑張りましょう」
クロワは一拍置いてから、小さく笑った。
「……かしこまりました」
公爵家の親族挨拶は、公爵の伯母にあたるカリナ・ショコラオランジュ侯爵夫人が仕切っていた。
六十代。背が高く、目が鋭い。扇の持ち方から、椅子の座り方まで——全部、貴族の中の貴族、という佇まいだった。
リリエラが部屋に入ったとき、夫人はリリエラを上から下まで、一秒で見た。
読めない。
リリエラは思った。
人の顔を読むのが得意なリリエラが——この人の顔は、一瞬では読めなかった。
「ライムブリュレ嬢」
「はい」
「座りなさい」
座った。
向かいに夫人が座った。
しばらく、無言だった。
夫人が口を開いた。
「レオンハルトから話は聞いています」
「……はい」
「あの子が自分から婚約の話を進めるとは、思っていなかった」
「……そうでしたか」
「二十八になるまで、そういう話を全部断ってきたので」
「存じませんでした」
夫人が、すっとリリエラを見た。
「あなたは、怖くないの」
「怖いです」
「今も?」
「今も、すごく怖いです」
夫人の目が、少し動いた。
「正直ね」
「……取り繕うのが下手なので」
「取り繕う人間より、ずっといい」
夫人が扇を置いた。
「レオンハルトのことを——あなたはどう思っているの」
「大切に思っています」
「なぜ」
リリエラは少し考えた。
「選択権を、いつも私に置いてくれるので」
「……選択権」
「急かさない、怖くても自分で動ける距離を、ちゃんと保ってくれる」
夫人が黙っていた。
「そういう人が——私には、必要だったと思うので」
しばらく、沈黙があった。
夫人が、ゆっくりと扇を手に取った。
「ひとつだけ、言っておきます」
「はい」
「あの子は——不器用です、何かを言いかけて止まります」
「それに感情を仕舞うのが得意で、出すのが苦手です」
「存じております」
夫人がリリエラを見た。
「全部、知っているのね」
「四ヶ月、見てきたので」
夫人は少し間を置いた。
それから——表情が、ほんのすこし、緩んだ。
「気に入ったわ」
「……ありがとうございます」
「お世辞ではないので、礼には及ばないわ」
「……かしこまりました」
夫人がふっと笑った。
一瞬だった。でも確かに笑った。
「レオンハルトが待てるようになったのは——エレナを亡くしてからよ」
夫人が言った。
「あれ以来、焦ることをやめた。焦って間に合わないなら、最初から急がない方がいいと思ったんでしょう」
「……そうだったんですね」
「でも」
夫人がリリエラを見た。
「待ちすぎることもある。待つことに、慣れすぎている」
「……」
「あなたが自分から動いてくれているのは——あの子にとって、たぶん初めてのことだわ」
リリエラは少し、胸が温かくなった。
「大事にしてあげなさい」
「はい」
「あなたも、大事にしてもらいなさい」
「……はい」
「両方、できる?」
「できます」
「頼もしいわね」
夫人が立ち上がった。
挨拶が終わった、という合図だった。
廊下に出たとき、公爵が待っていた。
「どうだった」
「……緊張しました」
「夫人は、厳しかったか」
「最後に、気に入ったと言ってくれました」
公爵が少し目を見開いた。
「珍しい」
「そうなんですか」
「あの人に気に入られたのは、クロワ以来だと思う」
廊下の先で、クロワが書類を取り落とした音がした。
聞こえていたらしかった。
リリエラはおかしくなって、小さく笑った。
公爵も——口元が動いた。
「よかった」
「何がですか?」
「笑ってくれた」
「笑うほどのことがあったので」
「緊張は取れたか」
「……少し」
「少し、か」
「まだ心臓がうるさいです」
公爵がリリエラを見た。
それから——ごく自然に、リリエラの隣に並んで歩き始めた。
「庭を歩こう」
「はい」
「ゆっくり歩けば、落ち着く」
「経験談ですか」
「そうだ」
「公爵も緊張するんですね」
「するさ」
「意外です」
「あなたの前では、よく緊張する」
さらっと言った。
リリエラの頬が、じわっと熱くなった。
「……それは」
「事実だ」
「そういうことを、さらっと言わないでください」
「言いかけたら止まらない、と約束したので」
「……それはそうですが」
「困ったか」
「困っています」
「それは申し訳ない」
全然申し訳なさそうではなかった。
庭に出た。
六月の庭は、緑が深くて、花が咲いていた。先月来たときより、もっと賑やかだった。
ふたりで並んで、ゆっくり歩いた。
確かに——少しずつ、落ち着いてきた。
「レオンハルト」
「なんだ」
「今日、ありがとうございます」
「何の礼だ」
「ここに来る機会をくれたので」
公爵が少し考えた。
「こちらこそ」
「こちらこそ?」
「来てくれたことへの礼だ」
「……来て当然ですよ、こういうときは」
「来て当然のことでも——来てくれたことは、嬉しい」
リリエラは前を向いたまま、頷いた。
顔を向けると、また頬が熱くなりそうだったから。
庭の先に、小さな噴水があった。水が光を受けてきらきらしていた。
「カリナ夫人が」
リリエラは言った。
「あなたは待ちすぎることがある、とおっしゃっていました」
「……あの人は余計なことを言う」
「余計ではないと思います」
「そうか」
「私は——」
リリエラは少し止まって、続けた。
「待ってもらってばかりではなく、私もあなたを待てる人でいたいと思っています」
公爵が、歩みを少し緩めた。
「言いかけたら止まらない、という約束は——あなただけじゃなくて、私もします」
公爵が立ち止まった。
リリエラも止まった。
振り向くと、公爵がリリエラを見ていた。
いつもより——近かった。
「リリエラ」
「はい」
「手を」
「……え」
「貸してくれ」
少し戸惑ったけど、手を出した。
公爵がリリエラの手を、静かに握った。
強くなかった。でも——しっかりしていた。
温かかった。
「これくらいは、いいか」
「……いいです」
「緊張は取れたか」
「逆に増えました」
「そうか」
「……満足そうですね」
「少し」
本当に少し——でも確かに、満足そうだった。
噴水の水が、きらきら光って六月の風が、庭を渡っていった。
リリエラは繋がれた手を見て、それから前を見た。
怖かった。
嬉しくて、照れくさくて、それでも——怖かった。
でも、歩けた。
繋いでもらった手と、自分の足で、歩けた。
これが、選んだということなんだと思った。
怖くても、歩けることが。




