第十三話 母、父の涙
両家への挨拶が決まったのは、六月の最初の週だった。
まずライムブリュレ家へ、公爵が来る。
それだけのことなのに、前日から屋敷の中がざわついていた。
使用人が廊下を忙しそうに歩いていた。
母が応接室の花を三回変えさせていた。
父の部屋からは、久しぶりに父の声がしていた。
体調が少し上向いていたらしい。
リリエラは自分の部屋で、窓の外を眺めていた。
マリアが後ろで、髪を整えてくれていた。
「お嬢様、緊張していますか」
「……少し」
「顔には出ていませんが」
「心臓がうるさいので」
マリアがくすっと笑った、珍しい。
「大丈夫ですよ」
「うん」
「公爵は、ちゃんとした方ですから」
「知ってる」
「では、何が不安なんですか」
リリエラは少し考えた。
「……上手くいくのが、怖いのかもしれない」
「上手くいくのが?」
「上手くいくと、本当になるから」
「なってもいいと思います」
「……うん」
「お嬢様、ずっと——すごく、頑張ってきたので」
リリエラは窓の外を見たまま、小さく頷いた。
泣かなかった。
泣きそうだったけど、泣かなかった。
今日は目を赤くしたくなかった。
公爵は昼過ぎに来た。
馬車が門に着いたとき、リリエラは二階の廊下から見ていた。
降りてきた公爵は、いつもと少し違った。
違うといっても、服装が改まっている、くらいのことだったけど——その少しの違いが、妙に胸に刺さった。
ちゃんと来てくれた、と思った。
当たり前のことなのに。
挨拶は応接室で行われた。
公爵と母が向かい合って座る。
リリエラはその隣にいた。
母は最初、少し固い顔をしていた。
公爵家と我が家では格が違いすぎる、という不安が顔に出ており、リリエラにはわかった。
でも公爵は——ごく自然に、話を進めた。
挨拶。家の話。
リリエラとの経緯。今後のこと。
母の顔が、少しずつ、ほぐれていくのがわかった。
「リリエラさんには、大変お世話になっております」
公爵が言ったとき、母の目が少し揺れた。
お世話になっております、という言葉が——普通の言葉なのに、この人が言うと重さがあった。
本当にそう思っているから、だと思う。
「……こちらこそ」
母が言った。
声が、少し詰まっていた。
リリエラは横目で母を見た。
目が赤かった。泣いていた。
お母様は怒るより先に、泣くんだ、と思った。
この人も——娘のことを、ちゃんと心配していたんだ。うまく言えないだけで。
「リリエラ」
公爵がリリエラの方を向いた。
「何かあれば、言ってくれ」
「……はい」
「緊張しているか」
「はい」
「顔に出ているぞ」
「知っています」
母が、くすっと笑った。
泣きながら、笑った。
公爵がそれを見て、わずかに目を細めた。
その後、父の部屋に通してもらった。
父は起き上がっていた。
無理をしているのがわかったけど、リリエラは何も言わなかった。
「ショコラオランジュ公爵」
父が言った。声はかすれていたけど、しっかりしていた。
「リリエラを、よろしくお願いします」
公爵は静かに頷いた。
「大切にします」
言葉足らずかもしれないが、父は——それで十分だ、という顔をした。
父の顔を見ると目が、少し潤んでいた。
お父様も、と思った。
この家の人は、泣くのが下手だな、と思った。
私も含めて。
公爵が帰った後、母がリリエラの部屋に来た。
「リリエラ」
「……はい」
「公爵は、いい方ね」
「はい」
「最初から、そう思っていたわよ」
「……お母様それは本当?」
「‥本当よ」
少し間があった。
「……私ったら、ずっと余計なことばかり言って」
「お母様」
「あなたが自分で考えて、自分で決めたこと——本当は、最初からちゃんと応援したかったのに」
母の目が、また赤くなっていた。
リリエラは少し迷って——母の手を、握った。
「応援してもらっています」
「……そう?」
「ちゃんと、伝わっています」
母が黙った。
しばらくして、小さな声で言った。
「幸せになりなさい」
「……はい」
「怖かったら、帰ってきていいから」
「怖くても、進みます」
お母様は少し驚いた顔でリリエラを見る。
「あなたは、いつからそんなに」
「……最近です」
母がまた、泣きながら笑った。
リリエラも——今度は、少し泣いた。
目が赤くなってもいい時間だった、と思った。
翌週は、リリエラが公爵家へ挨拶に行く番だった。
公爵家の正式な挨拶、となると——話が変わってくる。
ライムブリュレ家への挨拶は、いわば公爵が「出向いた」形だった。
しかし今度はリリエラが「迎えられる」側になる。
それがどういうことか、マリアに服を選んでもらいながらリリエラは考えた。
「緊張しています」
「昨日も言っていました」
「昨日より緊張しています」
「ふふ、緊張、毎日更新されていますね」
「……マリア、笑ってる?」
「わ、笑っていません」
「目が笑っています」
マリアは少し咳払いをして、リネンのドレスに手を伸ばした。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
「うん」
「公爵邸は、もう何度も行っているじゃないですか」
「それはほら、仕事で行っていたから」
「今日もある意味、仕事です」
「……どんな仕事ですか」
「大事な仕事です」
リリエラは鏡の前に立った。
薄青のドレスだった。
初めて告白しに行った日と、同じ色。
マリアが選んでくれた、とわかった。
何も言わなかったけど——ありがとう、と思った。




