第十二話 過去
正式な挨拶の話が進み始めた頃、季節が変わった。
五月の終わり。
王都は雨が多くなる時期だった。
その夜も、雨だった。
リリエラは公爵邸に来ていた。
両家の挨拶に向けた書類の確認で、少し遅くなった。帰ろうとしたとき、雨が強くなった。
「待ちなさい」
公爵が言った。
「雨が弱まるまで」
「……でも」
「送っていく。少し待ってくれ」
リリエラは頷いた。
応接室に戻った。
一人でいる間、窓の外を見た。
雨が窓を叩いていた。強い雨だった。
これでは確かに、馬車でも濡れる。
しばらくして、公爵が戻ってきた。
手に、細長い箱を持っていた。
「これを」
「……?」
「ライムブリュレ嬢の好きな菓子を、クロワに聞いた」
箱を開けると、薄い焼き菓子が並んでいた。王都でも有名な店のものだった。
「……いつ?」
「今日、届いていた。ちょうどよかった」
ちょうどよかった、という言葉が——少し嘘くさかった。
用意していてくれた、とリリエラは思った。
でも言わなかった。
「ありがとうございます」
「雨が弱まるまで、付き合ってくれ」
「……はい」
菓子を食べながら、話した。
最初は書類の続きだった。
それからいつの間にか、違う話になっていた。
公爵が、珍しく——自分のことを話した。
「公爵家を継いだのは、二十三の頃だった」
「……クロワ男爵から、少し伺いました」
「そうか」
責める様子はなかった。
「若かった。まだ何もわかっていなかった」
「……辛かったですか」
「辛い、と思う暇がなかった。やることが多かった。領地の管理、家臣の掌握、王家との関係——全部、同時に来た」
「一人で?」
「一人でだ」
雨の音が続いていた。
「感情を出す場所がなかった、という方が正確かもしれない」
公爵は言った。
「出す相手も、出す機会も——なかった。だから、仕舞う方が得意になった」
リリエラは黙って聞いていた。
「エレナのことも——」
公爵が、その名前を自分で出した。
リリエラは少し驚いた。
顔には出さなかった。
「……聞かせていただけますか」
「クロワから聞いたか」
「少し」
「そうか」
公爵は窓の外を見た。
雨はまだ続いていた。
「五年、婚約していた。幼い頃からの話だったから——恋愛という感覚ではなかった、最初は」
「……はい」
「ただ、一緒にいる時間が長くなるうちに——大切だと思った」
「……」
「言おうと思っていた。何度も、機会を考えていた。でも——言葉が出てこなかった。こういうことは、昔から得意ではなかったから」
リリエラは頷いた。
知っていた。
「言えないうちに、病になった。半年ほどで——亡くなった」
部屋が静かだった。
雨の音だけが聞こえた。
「最後に会ったとき、彼女が言った。レオンハルトは、いつも言いかけて止まりますね、と」
「……」
「笑いながら言った。責めていなかった。ただ——それが、最後だった」
公爵は窓の外から視線を戻した。
リリエラを見た。
「だから」
「はい」
「言いかけて止まることが——怖くなった。止まったまま終わることが、怖くなった」
リリエラは息を吸った。
「あの夜会で、あなたが言いかけて止まらなかったのは——そういうことですか」
「ああ」
「震えながら言えた、と——言ってくれましたね」
「覚えていてくれたのか」
「忘れられません」
公爵がリリエラを見た。
「私も——あなたに言いかけて止まることが、怖かった。だから、あの夜に言った」
「彼女は物ではない、と」
「ああ」
短い沈黙があった。
「エレナを、忘れたわけではない」
公爵は言った。
「忘れなくて、いいと思っています」
リリエラは言った。
公爵が静かにリリエラを見た。
「大切な人を大切だったと思い続けることは——今のあなたを否定しない、と私は思うので」
「……」
「私は、今のあなたを——」
言いかけた。
止まった。
でも今度は——公爵が苦笑した。自分で気づいて、苦笑した。
「また止まった」
「……いいです」
「よくない」
「続きは今度」
「あなたは甘い」
「待てると言っていたのは、そちらです」
公爵が——声を出して、笑った。
小さな笑いだった。ほんの一瞬だった。
でもリリエラは初めて聞いた。
この人の笑い声を、初めて聞いた。
思ったより——温かい声だった。
「リリエラ」
「はい」
「今日、話せてよかった」
「……私も」
「こういうことを話したのは——初めてだった」
「クロワ男爵にも?」
「あいつには話さない。心配させる」
「私には話してくれるのですか」
公爵は少し考えた。
「あなたには——話したいと思った」
それだけだった。
でも——それだけで、十分だった。
窓の外で、雨が弱まり始めていた。
公爵が窓を見た。
リリエラも見た。
雨粒の音が、少しずつ小さくなっていく。
「雨が止んだら——」
「もう少し、いてもいいですか」
リリエラが言った。
公爵が振り向いた。
「話の続き、まだあるので」
「……続きとは」
「あなたが言いかけた続きです。今度こそ聞きたいので」
公爵はリリエラを見た。
それから——また、笑った。
さっきより少し、長く。
「仕方がないな」
「はい」
「もう少し、いなさい」
「はい」
雨は、もうすこしだけ続いた。
窓は——開いていた。
雨が完全に止んだのは、一時間後だった。
その間、ふたりは話し続けた。
公爵の父の話。
公爵家を継いだ直後の混乱。
領地で初めて農民と直接話したときのこと。
クロワが側近になった経緯。
公爵は話し慣れていなかった。
話し慣れていないのが、よくわかった。
言葉の繋ぎが時々ぎこちなくなった。
どこから話せばいいかわからなくなって、止まることがあった。
リリエラはそのたびに、質問をした。
「そのとき、クロワ男爵は何と言ったんですか」
「領地の農民は、何を作っていたんですか」
「お父上は、どんな方でしたか」
小さな問いを、少しずつ投げた。
すると公爵は——また話せた。
「……あなたは、聞き方が上手い」
公爵が言った。
「そうですか」
「話したことのないことを、話させる」
「人の顔を読むのが得意なので」
「それだけではないと思うが」
「……数字と一緒です」
「数字と?」
「答えを急がず、式を順番に解いていけば——必ず、答えが出る」
公爵は少し間を置いた。
「……なるほど」
「あなたの話も、同じです。順番に聞けば——ちゃんと、出てきます」
「大したことを言う」
「大したことではないです」
「礼を受け取れ」
「……ありがとうございます」
公爵が頷いた。
部屋に、静かな時間が流れた。
菓子の箱は、ほとんど空になっていた。
お茶は二杯目を飲んでいた。
窓の外は雨が上がって、濡れた石畳が月明かりを反射していた。
「言いかけた続きを」
リリエラが言った。
「……覚えていたか」
「もちろんです」
公爵は少し、遠くを見るような目をした。
それから——リリエラを見た。
「私は今のあなたを——大切に思っている」
静かな声だった。
宣言ではなかった。怒鳴ってもいなかった。
ただ——本当のことを言う声だった。
「エレナのことがあった。父のことも、母のことも。だから——また誰かを大切に思うことが、怖かった時期があった」
「……」
「失う前提で、見てしまう。それが癖になっていた」
「今は」
「今は」
公爵はリリエラを見た。
「あなたを見るとき——失うことを、考えなくなった」
「なぜですか」
「あなたが自分の足で来るから、かもしれない」
「……自分の足で」
「初めて来たとき、怖かっただろうと思う」
「怖かったです」
「それでも来た。怖いまま書類を見て、怖いまま言いに来た。怖いまま雨の日に馬車に乗った」
「……覚えていたんですか、全部」
「全部、覚えている」
リリエラの目が、少し熱くなった。
「そういう人は——失わない気がした」
「それは」
「根拠はない。ただそう思った」
根拠のないことを言う人では、ないと思っていた。
でも——根拠のない確信というものが、あることをリリエラは知っていた。
数字では証明できないが、確かにある何か。
この四ヶ月で、学んでいた。
「レオンハルト」
「なんだ」
「私も——失わないようにします」
公爵が静かにリリエラを見た。
「自分の足で来ます。怖くても」
「……」
「だから」
リリエラは続けた。
「あなたも——言いかけたら、止まらないでください」
沈黙があった。
長い沈黙ではなかった。
「……難しいことを言う」
「難しいですか」
「あなたの前では——止まらずに済んでいる、気がするが」
「気がする、ではなくて」
「……そうだな」
公爵は小さく息をついた。
それから——言った。
「止まらない。努力する」
「努力、というところが正直ですね」
「できもしないことは言わない」
「知っています」
「知っているか」
「四ヶ月、見てきたので」
公爵がまた、目を細めた。
今夜一番、はっきりと笑っていた。
「リリエラ」
「はい」
「来週の両家への挨拶、楽しみにしている」
「……私も」
「緊張するか」
「します。でも——怖いまま行けます」
「そうだな」
「あなたが教えてくれたので」
公爵は少し間を置いた。
「私が?」
「震えながら言えた、と——言ってくれましたよね。あの夜会の翌日」
「言った」
「あれから、ずっと——それを思い出すと、怖くても動けます」
公爵は何も言わなかった。
でも——目が。
やわらかく、なっていた。
「帰ろう。送っていく」
「はい」
馬車に乗る前に、公爵邸の玄関で、公爵が言った。
「また、明日」
「明日も来ていいんですか」
「当分尽きない、と言った」
「……では、また明日」
馬車に乗り込んだ。
動き出す前に、窓から外を見た。
公爵が立っていた。
今日も、手を小さく上げた。
リリエラも、手を上げた。
暗い夜に、月明かりがあった。
濡れた石畳が光っていた。
エレナという人が、いた。
大切にしようとして——言えなかった人が、いた。
その人の分まで大切に、なんて——そんな大きなことは言えない。
でも、リリエラは窓から顔を離した。
前を向いた。
私は、言いながら大切にしよう。
震えながらでも、言いながら。
手帳はもう、最後のページまで埋まっていた。
続きは——言葉で、続けていく。




