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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: テラトンパンチ


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12/25

第十一話 告白の翌日

目が覚めたとき、リリエラはしばらく天井を見ていた。

昨日のことを、順番に思い出した。


馬車に乗った。

公爵邸に着いた。

震えながら言った。

‥あなたを、選びたいです。

「……」


枕に顔を埋めた。

恥ずかしかった。

恥ずかしかったが——後悔は、なかった。

それを確認して、もう一度天井を見た。


窓から朝の光が入っていた。

雨は上がっていた。

昨日より空が高かった。

「お嬢様」

マリアが扉を開けた。

「朝食の準備が」

「……マリア」

「はい」

「昨日、ちゃんと言えた」


マリアは少し間を置いた。

「存じております」

「なぜ知っているの」

「お顔を見ればわかります」

「……そう」

リリエラは起き上がった。


「公爵は——どう言っていたの」

「光栄だ、と」

「それだけ?」

「それで十分でしょう」

マリアが言った。珍しく、断言した。


リリエラは少し考えて——頷いた。

「……そうね」

十分だった。あの二文字が、どれだけ重かったか。

短い言葉ほど、本当のことが詰まっている。

それは帳簿で学んだことだった。

数字は余分を嫌う。

本当の値だけが、残る。


朝食を終えた頃、手紙が来た。

封を開ける前に、わかった。

革の手帳と同じ、濃い青の封蝋だった。


今日の午後、時間があれば。話したいことがある。——レオンハルト


署名が変わっていた。

今まではLだった。

今日は——レオンハルト、と書いてあった。

リリエラはその文字をしばらく見た。


筆跡が、いつもより少し——丁寧だった気がした。

「マリア」

「はい」

「返事を書きます」

「かしこまりました」

便箋を出してもらった。

ペンを持った。

一行書いた。


午後、伺います。——リリエラ


今回は、名前を全部書いた。


公爵邸に着いたのは、昼過ぎだった。

案内されたのは、応接室でも書斎でもなかった。

「庭へどうぞ」

執事が言った。


庭、とリリエラは思った。

テラスに出ると、白いテーブルと椅子が出ていた。花が咲いていた。五月の庭は緑が濃くて、日差しが柔らかかった。

公爵が立っていた。

リリエラを見て、歩いてきた。


「来てくれた」

「はい」

「昨日は室内だったから」

「……?」

「天気がいいので、外にしようと思った」

それだけのことだった。

それだけのことなのに——外にしようと思った、という一言が。


用意していてくれた、ということだった。

リリエラは胸の中で、何かが温かくなるのを感じた。

椅子に座った。向かいに公爵が座った。

少し遅れて、お茶が運ばれてきた。

「昨日の続きを、話してもいいか」

「……はい」

「私は——昨日、急いだと言った」

「覚えています」

「ああいうことを言うのは、不得意だ」

「……そうは見えなかったですが」

「見えなかったなら、よかった」

少し間があった。


「実は」

公爵は紅茶に手をつけずに、言った。

「昨日、ひとつ言えなかったことがある」

「……はい」

「ずっと前から、と言いかけた」

リリエラは頷いた。覚えていた。続きを言わなかったのも、覚えていた。

「ずっと前から——何ですか」

公爵がリリエラを見た。


「ずっと前から、あなたのことを——」

止まった。

また止まった。

この人が言葉に詰まるのを、昨日に続いて二度目に見た。

珍しいことだと思った。いつも言葉が少ないが、詰まることはない人だった。


「……公爵」

「レオンハルト、と言ったはずだが」

「……レオンハルト」

「なんだ」

「続きは、今日でなくても大丈夫です」

公爵が静かにリリエラを見た。

「急がないので」

リリエラは言った。

「私も、待てます」

公爵の目が——少し、揺れた。

珍しかった。切れ長の目が、わずかに揺れた。


「……そうか」

「はい」

「それは」

短い沈黙があった。

「それは——困ったな」

「なぜですか」

「あなたに言われると」

また、止まった。

でも今度は——口元が、動いた。


笑っていた。

困ったと言いながら、笑っていた。

リリエラも——つられて、笑った。


庭に風が吹いた。

白い花びらが、テーブルの上を横切った。

悪くない午後だった。

どころではなかった。


帰り際に、公爵が言った。

「来週、正式に——両家への挨拶を進めてもいいか」

「……はい」

「急がなくていいなら、そうするが」

「急いでください」

思ったより、はっきり言えた。

公爵が少し目を見開いた。

リリエラは少し恥ずかしくなったが——撤回しなかった。

「……急いでほしいので」

「わかった」

「……レオンハルト」

「なんだ」

「今日も——ありがとうございました」

公爵はしばらくリリエラを見ていた。


それから言った。

「また、明日も来てくれ」

「……明日も?」

「話したいことが、まだある」

「どのくらい?」

「当分、尽きない」

当分。

その言葉が——やけに、嬉しかった。

「……では、また明日」

「ああ」

馬車に乗り込んだ。

窓から振り向くと、公爵がまだそこに立っていた。

手を、小さく上げた。


リリエラも——小さく、手を上げた。

馬車が動き出してから、リリエラは前を向いた。

頬が、ずっと熱かった。



翌日も、その翌日も、リリエラは公爵邸を訪ねた。

三日目に、公爵が言った。

「毎日来るとは思っていなかった」

「当分尽きないとおっしゃったので」

「そうだな」

「……迷惑でしたか」


「そんなことはない」

「では」

「では?」

「当分、来ます」

公爵の口元が動いた。

それ以上、何も言わなかった。


四日目のことだった。

書斎で書類の話をしていたとき、公爵の机の上に、小さな肖像画があることにリリエラは気づいた。


以前も来たことがある書斎だった。

気づかなかったのは——今日は光の角度が違ったからかもしれない。午後の日差しが、その角度だけに差し込んでいた。

小さな楕円の枠。銀色の縁取り。

描かれていたのは、若い女性だった。

明るい髪の色。

穏やかな目。

柔らかい印象の顔。

リリエラは、見てしまったことに気づいた。

見てしまった、と思った次の瞬間——公爵が視線の先に気づいた。


一瞬、何かが動いた。

表情ではなかった。

空気、というか——部屋の温度が、すこし変わった気がした。

公爵は何も言わなかった。

リリエラも何も聞かなかった。

「続けよう」

公爵が言った。

「……はい」

書類の話を続けた。

その日は一時間ほど話して、帰った。


帰り道、リリエラはずっと考えていた。

あの肖像画が、誰なのか。

聞けばよかったかもしれない。

でも——あの瞬間の空気を、リリエラは読んでいた。

触れていい話と、触れるタイミングがある話と、触れてはいけない話がある。

あれは——今日は、触れるタイミングではなかった。

でも、いつか聞けるだろうか。


翌日、公爵邸を訪ねたとき——珍しく、クロワが出迎えた。

「本日、公爵は少し遅れます。よろしければ、お待ちいただけますか」

「……もちろんです」

応接室に通された。

クロワが、お茶を持ってきた。


本来なら使用人がする仕事だった。

クロワが自分で持ってきたということは——何か、話したいことがあるのかもしれない。

リリエラはそう読んだ。

「クロワ男爵」

「はい」

「何かありますか」

クロワが少し目を丸くした。


「……お気づきでしたか」

「なんとなく」

クロワはお茶のカップをテーブルに置いて、少し間を置いた。

「昨日の帰り際、公爵が少し——考え込んでいたので」

「肖像画を見てしまいました」

「……そうでしたか」

「誰ですか、と聞いてもいいですか」

クロワは静かに答えた。


「……エレナ様、とおっしゃいました」

「エレナ」

「公爵の——幼い頃からの、婚約者でした」

リリエラは何も言わなかった。続きを、待った。

「公爵が二十二歳のとき、エレナ様は病で亡くなられました。婚約期間は五年でした。その間——一度も、お互いの気持ちを確かめる機会がなかった」

「……」

「エレナ様は、ご自身の気持ちを言えないまま逝かれました。公爵も——言えなかった。言う前に、間に合わなかった」

部屋が静かだった。


リリエラは手の中のカップを、少し強く持った。

「それだけではありません」

クロワが続けた。

「エレナ様を亡くされた翌年、公爵のお父上が亡くなりました。二十三歳で公爵家を継がれた。お母上は——その数年前に、すでに」

「……」

「公爵は、選ぶ前に、何度も失われました」

リリエラは目を伏せた。

そうか、と思った。

選ばれたいのではなく、選んでほしい——あの言葉の重さが、今日初めてわかった気がした。


失った後で、待つことを——選んだ人だったのだ。

「なぜ、私に話してくださるのですか」

「公爵は、自分では話さないと思いますので」

クロワは言った。

「話せない、のではなく——話し方を、知らないのだと思います。大切なことほど、言葉にする機会がなかった方なので」

リリエラは頷いた。


「……わかりました」

「ライムブリュレ嬢」

「はい」

クロワが、珍しく——直接、リリエラを見た。

「あなたが来てから、公爵は——書斎の窓を開けるようになりました」

「窓を」

「以前は、一年中閉めておいででした。今は、晴れた日には開けておいでです」

それだけ言って、クロワは頭を下げた。


「失礼いたしました。余計なことを申したかもしれません」

「……いいえ」

クロワが部屋を出た。

リリエラはしばらく、一人でいた。

窓から、庭が見えた。

風に揺れる緑が見えた。

選ぶ前に、何度も失った。

その人が——選んでほしい、と言った。


選ぶ前に言えなかった人が——今度は、言ってくれた。

待てる、と言った。

いくらでも、と言った。

それがどれだけの言葉だったか——今日、ようやくわかった。

「リリエラ」

扉が開いた。

公爵が入ってきた。

「待たせた」

「いいえ」

公爵がリリエラの顔を見た。

一瞬、止まった。

「……何かあったか」

「いいえ」

「顔が」

「何でもないです」

「泣いていたか」

「泣いていません」

「目が、赤い」

リリエラは少し困った。


この人は——顔を読むのが、こちらと同じくらい得意なのかもしれない。

「……少し、考えていました」

「何を」

リリエラは公爵を見た。

机の上の肖像画は、今日も同じ場所にあるだろう。

聞いてもいいか、まだわからなかった。


でも——ひとつだけ、言えることがあった。

「……あなたが、待っていてくれてよかったと思っていました」

公爵が静かにリリエラを見た。

「私が来るまで、ずっと待っていてくれてよかった、と」

沈黙があった。

長い沈黙ではなかった。

でも——その沈黙の中で、公爵の顔が、わずかに。

ほんの少しだけ——

柔らかくなった。


「……そうか」

「はい」

「私も——」

止まった。

また止まった。でもリリエラは急かさなかった。

待った。

「待っていて、よかった」

短かった。

その一言が、とても重かった。

リリエラは頷いた。

泣かなかった。

泣かなかったが——目が、また少し熱くなった。


「今日も書類の続きをするか」

「……はい」

「泣きそうな顔でするか?」

「泣きそうではないです」

「そうか」

公爵は椅子に座った。

書類を出した。

いつもと同じ、静かな書斎だった。


でも——何かが今日、少し違った。

リリエラにはわかった。

重さが一枚、剥がれた気がした。


ほんの一枚だけ。

でもそれは——始まり、だった。

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