第十話 手帳に綴った想い
五月になった。
王都の街路樹が白い花をつけて、風が吹くたびに花びらが舞った。リリエラは窓から外を見ながら、もうそんな季節か、と思った。
あの夜会から、四ヶ月が経っていた。
机の引き出しを開けた。革の手帳を出した。
最初のページから、順番にめくった。
一枚一枚、自分の字を見た。
震えている字もあった。
急いで書いた字もあった。丁寧に書いた字もあった。
全部、本当のことだった。
最後のページを開いた。
一行だけ空白があった。
手帳を買ってもらったとき、使い道は自由に、と言われた。自由に使った。
全部、本当のことを書いた。
最後の一行に、何を書くか。
リリエラはペンを持った。
すぐには書けなかった。
書けなかったのは——書くべきことが、わかっていたからだった。
わかっていて、怖かった。
怖いまま、書いた。
”あなたを、選びたい。”
書いたら、心臓がうるさくなった。
手帳を閉じた。
閉じてから、また開いた。
消えていなかった。当然だった。
リリエラは手帳を胸に当てた。
書けた、と思った。
書けた。
次は——言えるか。
わからなかった。
怖かった。
でも——怖いまま書けた。なら、怖いまま言えるかもしれない。
震えながらでも、言える。
そう教えてくれたのは——言おうとしている、その人だった。
マリアが夕食の準備を知らせに来た。
「お嬢様、顔色が赤いですが」
「……ま、窓を開けていたので、風に当たりすぎたかもしれないわ」
「今日は無風ですが」
「……そ、そう」
マリアは何も言わなかった。
ただ、扉を閉める前に言った。
「お嬢様が幸せそうで、よかったです」
リリエラは返事ができなかった。
扉が閉まってから、もう一度手帳を開いた。
最後の一行を、もう一度見た。
あなたを、選びたい。
明日、会いに行こう、と思った。
アポイントメントはない。
でも——あの人は言った。
いつでも待つ。
信じることにした。
翌朝、起きたら雨だった。
リリエラは窓の外を見て、少しだけ笑った。
雨の日に、馬車に乗った。
あのときも怖かった。
膝掛けをもらった。温かかった。
「マリア、馬車を」
「かしこまりました。お出かけですか」
「……はい」
「どちらへ」
「ショコラオランジュ公爵邸へ」
マリアは何も聞かなかった。
上着を持ってきた。傘も持ってきた。
それから——リリエラが一番好きな薄青のドレスに、今日は合わせてくれた。
「マリア」
「はい」
「……ありがとう」
「いいえ」
マリアは笑わなかった。でも、目が少し優しかった。
馬車の中で、リリエラは手帳を持っていた。
開かなかった。
ただ、持っていた。
言う言葉は、決まっていた。
長くしない、と決めた。うまく言おうとしない、と決めた。震えてもいい、と決めた。
四ヶ月分の、気持ちがあった。
帳簿の数字みたいに、ちゃんとそこにある。
足せば増えて、減らなかった。
どの季節にも、どの出来事の後でも——減らなかった。
それが答えだ、とリリエラは思った。
数字は嘘をつかない。
感情も——本物なら、嘘をつかない。
公爵邸の門番は、もうリリエラを見て迷わなかった。
「ライムブリュレ様、少々お待ちください」
待ち時間は短かった。
応接室に通され、椅子に座る。
手帳を膝の上に置いた。
手が震えていた。
震えていても、いい。
扉が開いた。
公爵が入ってきた。
いつもと同じ顔だった。
感情の読みにくい顔。切れ長の目。
でもリリエラには、今はもう少し読めた。
この四ヶ月で——少し、読めるようになっていた。
今日の顔は——いつもより、わずかに。
急いで来た、顔だった。
「来てくれたのか」
「……突然で、申し訳ありません」
「いいえ」
「アポイントメントもなく」
「構わない」
公爵は向かいに座った。
「今日は」
「……はい」
「珍しく、緊張した顔をしている」
「……しています」
「何かあったか」
「……あなたに、話があります」
公爵が静かにリリエラを見た。
促さなかった。急かさなかった。
ただ——待っていた。
いつもそうだった。この人はいつも、待っていた。
リリエラは息を吸った。
「返事を、しに来ました」
公爵の目が、わずかに動いた。
「……ずっと時間をいただいていました。四ヶ月」
「ああ」
「その間に——色々、ありました」
「そうだな」
「帳簿を見ました。王子に会いました。パンナコッタ嬢に圧力をかけられました。雨の日に馬車に乗せてもらいました。書類を逆さまに持っていました」
「……最後のは」
「恥ずかしいので忘れてほしいのですが、忘れられないので含めました」
公爵の口元が動いた。
笑っていた。
リリエラも少し笑った。笑ったら、少し楽になった。
「その間ずっと」
リリエラは続けた。
「減らなかったんです」
「……何が」
「あなたのことを考える気持ちが」
部屋が静かになった。
雨の音だけが、遠くに聞こえていた。
「怖くなったら減るかと思っていました。圧力をかけられたら冷めるかと思っていました。でも——減らなかった。冷めなかった」
「……」
「数字は嘘をつかない、と思っています。足した分だけ増えて、減らした分だけ減る。正直です」
公爵は黙って聞いていた。
「気持ちも——本物なら、嘘をつかないと思いました。減らなかったから、本物だと思います」
リリエラは顔を上げた。
震えていた。
声も、少し震えていた。
でも——顔を上げたまま、言った。
「……あなたを、選びたいです」
沈黙が落ちた。
長い沈黙ではなかった。でもリリエラには、長く感じた。
公爵はリリエラを見ていた。
じっと、見ていた。
いつもと少し違う顔だった。感情が——いつもより、表に出ていた。
「……」
「返事を、急かすつもりはありません。
でも——言わないままでいられなくなったので」
「リリエラ」
名前を、呼んだ。
初めてだった。
嬢、ではなく——名前だけ、呼んだ。
リリエラは息が止まりそうになった。
「光栄だ」
短かった。
でも——その三文字が。
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「……え」
「光栄だ、と言った」
「それだけ、ですか」
「他に何が必要だ」
「もう少し、その——」
「リリエラ」
また、名前だった。
「私はずっと待っていた。四ヶ月、待っていた」
「……はい」
「待っている間、毎日——」
公爵が少し止まった。
この人が言葉に詰まるのを、リリエラは初めて見た。
「毎日、来るかもしれないと思っていた」
「……」
「今日、門番から知らせが来たとき」
「はい」
「急いだ」
それだけだった。
それだけだったが——リリエラには、十分すぎた。
目が、熱くなった。
泣くつもりはなかった。でも——こらえるのに、少し苦労した。
「……急いでいましたね」
「見えたか」
「見えました。今日は少し、読めました」
「それは——」
公爵が目を細めた。
「困ったな」
「なぜ」
「これ以上読まれると、不利だ」
「……何が不利なんですか」
「私の方が、ずっと前から——」
止まった。
続きを、言わなかった。
でも言わなくても——リリエラには、なんとなく、わかった。
頬が熱かった。
部屋の温度が上がった気がした。暖炉はついていないのに。
「……公爵」
「レオンハルトでいい」
「……レオンハルト、さん」
「さん、は要らない」
「……レオンハルト」
呼んだ。
呼んだら、やはり目が細くなった。
今日一番、はっきりと笑っていた。
「リリエラ」
「……はい」
「これから、時間はあるか」
「……あります」
「では——もう少し、話をしよう」
「はい」
「今日は、帳簿はなしで」
「……はい」
窓の外で、雨が少し弱くなっていた。
雲の切れ間から、薄日が差し始めていた。
リリエラは膝の上の手帳を見た。
最後のページに書いた言葉を、今日——言えた。
震えながら、言えた。
手帳を、そっと引き出しに戻すように——胸の中にしまった。
ここから先は、手帳じゃなくて。
ちゃんと、声で言っていこう。
その頃、公爵邸の廊下では。
クロワ男爵が書類を抱えたまま、応接室の扉の前で立ち止まっていた。
中から、リリエラの声が聞こえた。
それから公爵の声が聞こえた。
クロワはそっと踵を返した。
書類は、後でいい。
廊下を歩きながら、クロワは小さくため息をついた。
やっと、か。
嬉しいような、長かったような、そういうため息だった。
四ヶ月、主が毎朝——玄関の方をちらりと見ていたことを、クロワは知っていた。
知っていて、何も言わなかった。
言わなくていい、と思っていた。
よかった。
本当に、よかった。
クロワは書類を抱えなおして、自分の執務室へ歩いていった
この先どう進めよう‥




