第9話:うん、そうだね
翌朝。
学校の下駄箱を開けた瞬間、背中に視線が突き刺さるのを感じた。
「……ねえ、聞いた?佐山くんの話」
「聞いた聞いた。小日向さんと本郷が付き合ってるって」
「マジで?あの二人?」
「陰キャ同士でお似合いじゃん(笑)」
ヒソヒソという嘲笑交じりの噂話。佐山くんは、私たちが恋人だという噂を広めたようだ。Nonaという正体がバレるよりはマシだ。私は小さく息を吐き、上履きに履き替えた。
教室に入ると、空気が一層重くなった。愛梨たち一軍女子のグループが、面白くなさそうに私を睨んでいる。当然だ。いじめのターゲットだった私が、たとえ相手が地味な本郷くんだとしても「彼氏持ち」になったことが、彼女たちのプライドを逆撫でしているのだろう。
「小日向さぁん」
愛梨が猫なで声で近づいてくる。まただ。胃がキリキリと痛む。
「あんた、本郷と付き合ってるって本当?」
「……うん」
「ふーん。まあ、お似合いだよね。地味と地味で」
愛梨は鼻で笑い、私の肩に手を置いた。
「でもさ、本郷ってなんか暗いし、キモくない?あんなのとキスとかできんの?」
教室中からドッと笑いが起きる。
悔しい。私のことはともかく、本郷くんのことを悪く言われるのが許せない。
私が言い返そうとした、その時だった。
ガラッ。
教室のドアが開いた。
本郷優紀だ。
彼はいつものように猫背で入ってきたけれど、私の席の周りに愛梨たちがたかっているのを見ると、ピタリと足を止めた。
そして、迷わずこちらへ歩いてくる。
「……おい」
低く、よく通る声。愛梨たちがビクリと振り返る。
「どけ。邪魔だ」
「は、はぁ?何よあんた」
「俺の女の周りで、喚くなっつってんだよ」
教室が静まり返る。
『俺の女』
その破壊力抜群のワードに、私自身も顔から火が出そうになる。
演技だ。これは演技なんだ。自分に言い聞かせるけれど、心臓が言うことを聞かない。
本郷くんは愛梨を無視して、私の目の前に立った。そして、ポケットから何かを取り出した。
「……これ」
「え?」
「忘れてった」
彼が私の机に置いたのは、昨日スタジオで使ったリップクリームだった。なんてことない市販のものだ。でも、その渡し方が問題だった。
「唇、荒れてんな。……昨日のキスのせいか?」
――え?
時が止まった。私だけでなく、愛梨も、クラス全員の思考が停止した。
昨日の、キス?してない。絶対にしてない。消毒はされたけど手だから。
でも、本郷くんは平然とした顔で、私の前髪を指先で優しく直しながら、爆弾を投下し続ける。
「悪かった。激しくしすぎたな。次は優しくするから。……放課後、また俺の家来いよ」
「っ……!?」
真っ赤になって言葉が出ない私を見て、彼は満足そうに口角を上げた。そして、凍り付いている愛梨たちを一瞥した。
「……で?まだなんか用か?」
「…べ、別に」
「じゃあ戻れよ」
その目は、「消えろ」と雄弁に語っていた。
愛梨たちは顔を引きつらせ、「な、なによ……勝手にすれば!」と捨て台詞を吐いて散っていった。
勝った。いや、勝負になっていない。彼が席に戻ると、クラスの空気は一変していた。
嘲笑はない。あるのは「え、あいつらマジでガチなの?」「しかも結構進んでる?」という、生々しい動揺と、少しの畏怖だけだった。
***
昼休み。
私は彼に連れられ、屋上へと避難していた。
「……本郷くん、やりすぎだよ!」
「あ?」
「キ、キスとか!家に来いとか!あんな大きな声で言わなくても……」
私が抗議すると、彼は買ってきた焼きそばパンの袋を開けながら、素っ気なく言った。
「あれくらい言わないと、あいつらは引かない。……それに、嘘じゃないだろ」
「え?」
「家には来てるし、唇は……まあ、触ったしな」
彼は私の唇の端――赤いストーンが貼られていたほくろの方をチラリと見た。
「効果は抜群だったろ?佐山も大人しくなったし、愛梨たちも手出しできなくなった」
「それは、そうだけど……」
「それに、これでお前がNonaだと疑う奴はいなくなった」
彼はパンを齧りながら続ける。
「あいつらの目には、お前は『陰キャ彼氏とイチャつく地味女』にしか映らない。……まさかその裏で、世界を熱狂させる歌姫をやってるとは夢にも思わない」
完璧な隠れ蓑。彼の言う通りだ。学校での評価が下がれば下がるほど、ネット上のNonaの輝きは増し、正体から遠ざかる。
合理的だ。でも、私の心臓は、あの「俺の女」という言葉にまだ囚われていた。
「……ねえ、本郷くん」
「ん」
「演技だって分かってるけど……ありがとう。守ってくれて」
私が言うと、彼はパンを食べる手を止めた。そして、口元についたソースを親指でふき取り、少しだけバツが悪そうに視線を逸らして、ボソリと呟いた。
「……演技だけじゃねぇよ」
「え?」
「お前が他の奴にいじめられたり、他の男に触られたりするのが嫌なのは、演技じゃない」
風が吹いた。
彼の前髪が揺れ、眼鏡の奥の瞳が露わになる。そこには、どうしようもないほどの独占欲と、不器用な熱が宿っていた。
「お前は俺が見つけた原石だ。……俺だけの歌姫だ。だから、誰にも傷つけさせないし、誰にも渡さない」
「っ……」
それは、愛の告白よりも重く、甘い、所有宣言。
――ブブッ。
いい雰囲気になりかけたその時、私のポケットのスマホが震えた。
ネットニュースの公式アカウントの通知だ。
『&roitと謎のシンガー Nonaの新曲「Thumbtack」、1000万回再生突破!』
現実の恋人ごっこと、ネットでのスターダム。二つの世界が交錯し、加速していく。
「……行くぞ、小日向」
彼はスマホの画面を見て、ニヤリと笑った。
「1000万回再生記念だ。……次はもっとド派手なこと、やってやるか」
彼は立ち上がり、私に手を差し伸べた。私はその手を取る。
もう、この手を離すことなんてできない。
***
あれから、私たちの学校生活は一変した。
悪い意味で。
「うわ、来たよ……」
「マジで付き合ってるらしいぜ、あの二人」
「地味眼鏡と貧乏女子とか、絵面がキツすぎるって」
教室に入ると、まるで汚物を見るような視線が突き刺さる。
私と本郷くんの交際宣言は、瞬く間に学校中に広まった。ただし、それは羨望の対象ではない。
クラスで一番イケてない陰キャ男子と、貧乏で地味な女子が傷を舐め合っている――そんな見下される対象としての認知だった。
「おーい、本郷ー。彼女とイチャイチャしてんのー?」
休み時間、男子生徒がニヤニヤしながら本郷くんの机を蹴る。本郷くんは机に突っ伏したまま、ピクリとも動かない。
「無視かよ。つまんねーの」
「ほっとけよ、関わると陰気くさいのが感染るぞ」
ゲラゲラという笑い声。
私は唇を噛みしめ、自分の席で小さくなる。画鋲事件以降、直接的な暴力はなくなった。その代わり、私たちは教室のゴキブリのように、そこにいるだけで忌み嫌われ、嘲笑される存在へと堕ちていた。
カースト最下層。
誰からも相手にされず、透明人間ですらない、邪魔者扱い。
でも。
不思議と辛くはなかった。
机の下、ポケットの中で、スマホが短く震える。
『あと3時間。耐えろ』
本郷くんからのメッセージ。私はそっと顔を上げ、窓際を見る。
彼は相変わらず死んだふりをしているけれど、その背中は微かにリズムを刻んでいる。
みんなは知らない。このゴキブリ扱いされている私たちは、今夜、日本中をひっくり返すことになるなんて。
***
放課後。
私たちは誰とも口をきかず、逃げるように学校を後にした。校門を出て、人目がなくなった瞬間、本郷くんの背筋がスッと伸びる。
「……タクシー呼んでる。急ぐぞ」
「うん!」
私たちは走り出す。向かう先はマンションのスタジオではない。今日は、都内のテレビ局だ。
音楽番組『ミュージック・カウント・ダウン』
通称MCD。生放送のゴールデンタイム。日本を代表する音楽番組だ。顔出しNG、メディア露出ゼロだった『&roit』が、ついに今話題の歌姫『Nona』と共に、初めて地上波に降臨する日なのだ。
「……小日向、緊張してるか?」
局の控室。本郷くんが、鏡の前で衣装を整えながら聞いてきた。今日の彼は、いつものボサボサ髪をワックスで完璧にセットし、黒いデザイナーズスーツに身を包んでいる。眼鏡はない。その鋭い眼光は、完全に&roitのものだ。
「緊張、してる。……吐きそう」
「だろうな」
「そ、そういえば本郷くんはどうやって顔隠すの?」
「…俺のはこれだ。お前のとは違って口元まで隠せる、この黒色の狐面だ」
彼はニヤリと笑い狐面をひらひらさせながら、私の背中をバンッと叩いた。
「お前ならやれる。……今の衣装、似合ってるぞ」
私が着ているのは、彼が特注したステージ衣装だ。深い群青色のドレスに、黒いレースの装飾。そして手には、あの狐面。Nonaとしての正装。
「……ありがとう。本郷くんも、すごくカッコいい」
「当たり前だ。……行くぞ、世界を揺らしに」
スタッフの声がかかる。私たちは仮面をつけ、光の洪水が待つスタジオへと足を踏み入れた。
***
『――今夜、ついにベールを脱ぎます!SNSで話題沸騰、正体不明のカリスマユニット、&roitとNonaの登場です!』
司会者の絶叫と共に、私たちはステージの中央に立った。眩しすぎるほどの照明。カメラのレンズ。そして、画面の向こうにいる何千万人という視聴者。
震えそうになる足を、隣にいる本郷くんの気配が支えてくれる。
彼はギターを持ち私の横に立っている。仮面で顔は見えないけど不敵な笑みを浮かべている気がする。
「……&roitとNonaです。私たちの音を、聞いてください」
彼がギターを弾く。重厚なイントロが響き渡る。
曲は、私たちの運命を変えた『Thumbtack』
私はマイクを握りしめ、仮面の下で大きく息を吸った。脳裏に浮かぶのは、今日の教室での嘲笑。見下された視線。それら全てを燃料に焚べて、私は歌った。
『 綺麗なドレスで着飾って 中身は腐ったマトリョーシカ! 』
私の声が、電波に乗って日本中へ放たれる。叫ぶような、祈るような、魂の咆哮。
スタジオの空気がビリビリと震えるのが分かった。司会者も、ひな壇にいる他のアイドルたちも、息を飲んで私たちを見つめている。
歌っている間、私は無敵だった。地味な小日向陽菜じゃない。私は今、誰よりも輝くNonaだ。
曲が終わった瞬間、スタジオが静まり返り――そして、爆発的な拍手が巻き起こった。
***
翌朝の学校は、異常な興奮に包まれていた。
「見た!?昨日のMCD!」
「Nonaの生声、鳥肌立ったわ!」
「&roitって本当に人間だったんだな」
「わかる(笑)思ったより背高いよな」
「Nonaの正体誰なんだろ……。スタイルいいし、やっぱモデルかな?」
登校した瞬間から、その話題で持ちきりだった。黒板にはチョークでデカデカと『&roit神!』『Nona最高!』と書かれている。
昨日まで私たちをゴキブリ扱いしていた男子も、私をいじめていた愛梨たちも、みんなが目を輝かせて&roitとNonaの話をしている。
「……ねえ、小日向さん」
愛梨が、私の席に来た。また嫌味を言われるのかと身構えると、彼女は興奮した様子でスマホを突きつけてきた。
「あんた、テレビ見た?Nona超すごくなかった?」
「え……あ、うん。見たよ」
「だよね!あんたみたいな地味子には分かんないかもしれないけど、あれが『本物』ってやつよ。……あんたも彼氏とイチャついてないで、少しはNonaを見習って自分磨きしたら?」
彼女はそう言って、勝ち誇ったように笑った。滑稽だ。あまりにも滑稽で、笑い出しそうになるのを必死で堪える。
愛梨、あなたが「本物だ」と崇めているそのNonaは、あなたが「地味子」と見下している私だよ。
あなたが「見習え」と言ったその相手は、目の前にいるんだよ。
最高の皮肉。極上の優越感。私は心の中で舌を出しながら、殊勝な顔で頷いた。
「……うん、そうだね。Nonaさんみたいになれるように、頑張る」
私がそう言うと、窓際で寝ていたはずの本郷くんの肩が、プルプルと小刻みに震えた。彼もまた、笑いを堪えているのだ。
クラスの最底辺にいながら、私たちは学校の「神」になっていた。その歪な二重生活は、日を追うごとに加速していく。
そして。
季節は巡り、高校生活最後のイベント――文化祭が近づいてきた。
それは、私たちが仕掛ける、最初で最後の最大のサプライズの舞台となる日だ。




