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第8話:逆転の発想だ

 その日のスタジオは、いつもの音楽を作る場所ではなく、まるで撮影スタジオのように様変わりしていた。


「……動くな」


 至近距離。本郷くんの顔が、私の目の前にある。彼の整った鼻筋、長い睫毛、そして真剣な眼差し。息がかかるほどの距離で、私は石のように固まっていた。


「目、閉じろ」

「は、はい……」


 言われるがままに瞼を閉じると、ひんやりとしたブラシの感触が瞼を撫でた。くすぐったい。彼は今、私にメイクをしているのだ。


「本郷くん、メイクもできるの……?」

「独学だ。昔、モデルの撮影現場で見て覚えた。……あと、お前の素材が悪くないからな。少し足すだけで化ける」


 彼は淡々と手を動かし続ける。


 アイシャドウ、アイライン。そして最後に、唇に紅を引く。

 彼の指先が私の顎を支え、親指で唇の端を拭う感触に、心臓が爆発しそうだった。

 これ、ほとんどキスする距離じゃない?


「……よし。目を開けろ」


 恐る恐る目を開ける。彼が手鏡を私に向けた。そこには――知らない女の子が映っていた。目元には赤いアイシャドウが妖艶に入り、唇は濡れたような深紅。

 いつもの地味で顔色の悪い「小日向陽菜」はどこにもいない。そこにいたのは、何か強い意志を宿した、ミステリアスな少女だった。


「……これが、私?」

「まだ完成じゃない」


 彼は満足そうに頷くと、先ほどの狐面を私の顔に装着させた。視界が狭まる。

 見えるのは目元のアイシャドウと、赤く塗られた口元に白い肌だけ。


「完璧だ」


 彼はスマホのカメラを構え、照明の位置を調整した。


「いいか、Nona。お前は今日から『正体不明の女子高生シンガー』だ。言葉は発するな。ただ、そこに立って、その口元だけで世界を魅了しろ」


 カシャッ、カシャッ。シャッター音が響く。私は言われるがままに、少し顔を傾けたり、唇に指を当てたりしてみる。

 不思議だ。仮面をつけると、羞恥心が薄れていく。

 私はもう「いじめられっ子の陽菜」じゃない。彼が作り上げた最高傑作、「Nona」なんだ。


 撮影された写真は、すぐに加工され、新設された『Nona』のSNSアカウントに投稿された。


 ――『 初めまして。私の色は、あなたが決めて。 』


 その一文と共にアップされた写真は、瞬く間に拡散されていった。

 私の無色の日常が、電子の海の中で、鮮やかに塗り替えられていく。


            ***


 翌朝の学校は、昨日までとは違う種類の熱気に包まれていた。


「ねえ見た!?&roitの新ボーカル『Nona』!」

「見た見た!顔出しNGだけど、雰囲気超可愛くない?」

「狐面とかセンスありすぎでしょ。てか、絶対美人だよね」


 教室の至る所で、昨夜の私の――いや、「Nona」の写真が表示されたスマホが見せ合われている。

 男子たちは「口元がエロい」「声がヤバい」と盛り上がり、女子たちは「ミステリアスで憧れる」と騒いでいる。


 私はいつものように猫背で、自分の席に座っていた。誰も気づかない。

 みんなが噂しているその「超絶美少女(仮)」が、クラスで一番地味で、昨日まで画鋲を入れられていた私だなんて。


「(……すごい)」


 まるで透明人間になった気分だ。でも、それは孤独な透明感じゃない。みんなが私を知らない間に、私だけがみんなを知っているような、万能感に近い感覚。


 チラリと愛梨の方を見る。

 彼女は不機嫌そうにスマホを睨んでいた。画面にはきっと、Nonaのアカウントが映っているのだろう。

 自分を攻撃した曲を歌っているのが、まさか目の前の「いじめられっ子」だとは夢にも思わず、彼女は顔の見えない敵に苛立っている。

 ざまぁみろ、と黒い感情が湧く。


 その時。ふと、視線を感じた。窓際を見る。本郷くんが、机に突っ伏したまま、眼鏡の奥から私を見ていた。


 ――ブブッ。


 ポケットのスマホが震える。『Y』からのメッセージ。


『ニヤけすぎ。バレるぞ』


 ハッとして口元を押さえる。まただ。彼はずっと私を見ていたんだ。続けて、もう一通メッセージが届く。


『今日の放課後、新曲のレコーディングだ。……昨日の続き、覚悟しとけよ』


 昨日の続き。その言葉の意味を考えて、顔が熱くなる。またあの至近距離で、メイクをされて、指導されるのか。


 私は小さく頷き、彼にだけ分かるように目配せをした。彼がほんの少しだけ、口角を上げたのが見えた。


 教室という檻の中で、私たちだけが鍵を持っている。この秘密の共有は、どんな麻薬よりも中毒性が高かった。


 ――しかし。

 光が強まれば、影もまた濃くなる。

 私たちはまだ、ネットの特定班の執念と、身近に潜む「勘の鋭い人物」の存在を甘く見ていた。


「……ねえ、小日向さん」


 放課後、帰ろうとした私に声をかけてきたのは、愛梨でも、担任でもなかった。


「え?」


 振り向くと、そこに立っていたのは、クラスで本郷くんの次に目立たない、図書委員の男子、佐山さやまくんだった。

 彼はいつも本を読んでいて、私と同じくらい影が薄い。


「……なに?」

「あのさ」


 彼は眼鏡の位置を直しながら、私の顔をじっと見つめた。そして、信じられない言葉を口にした。


「君さ、&roitの『Nona』だよね?」


「ッ……!?」


 心臓が止まるかと思った。

 時が止まる。どうして?顔も隠しているし、声も加工しているのに。

 私が動揺して言葉に詰まっていると、彼はスマホを取り出し、昨日のNonaの写真と、私の口元を見比べた。


「唇の横にある、小さなほくろ。……写真と同じ位置にある」


 血の気が引いていく。メイクで隠してもらったはずなのに、昨日の撮影の時、少しだけファンデーションが薄れていた部分があったのかもしれない。そんな些細な、数ミリの黒子。それだけで、バレるなんて。


「……人違い、です」

「嘘つかなくていいよ。僕、&roitの大ファンだから、ずっと聴いてるんだ。声の癖も、君が前に音楽の授業で歌った時と似てる」


 佐山くんは一歩近づいてきた。その目は、愛梨のような悪意ではない。もっと厄介な、純粋な狂信者の目だった。


「すごいよ、小日向さん。君があのNonaだったなんて。……ねえ、僕にも協力させてよ」

「きょ、協力……?」

「僕、ネットに強いんだ。君の正体を隠す手伝いもできるし、もっと拡散させることもできる。……断ったら、このこと、みんなに言っちゃうかも」


 脅迫。

 でも、その口調はあくまでお願いのように柔らかい。それが逆に怖かった。

 どうしよう。本郷くんとの秘密が、一番バレてはいけない形で暴かれようとしている。


 冷や汗が背中を伝う。私が答えられずにいると、佐山くんの手が私の腕に伸びてきた。


「ねえ、いいでしょ?僕たち、友達になれると思うんだ――」


 ガシッ。


 その手が私に触れる直前、横から伸びてきた大きな手が、佐山くんの手首を掴み上げた。


「……痛っ!?」

「気安く触んな」


 氷点下の声。

 そこに立っていたのは、いつの間にか帰ったはずの、本郷くんだった。彼は佐山くんの手を乱暴に振り払い、私の前に立ちはだかった。


「……こいつは、俺のツレだ。用があるなら俺を通せ」


 その背中は、私を守る盾のように大きく、そして頼もしかった。

 けれど、それは同時に、彼自身もこのトラブルの渦中に飛び込むことを意味していた。


 佐山くんが悲鳴を上げる。

 本郷くんの手は、万力のように強く佐山くんの手首を締め上げていた。

 普段の空気な彼からは想像もつかない、殺気立った瞳。眼鏡の奥のその目は、獲物に手をかけようとしたハイエナを威嚇する獅子のようだった。


「聞こえなかったか?こいつは俺のツレだ。気安く触んな」


 低く、ドスの利いた声。佐山くんは顔を青くして、視線を泳がせた。


「ツ、ツレって……彼女ってこと?お前らが?」

「悪いか」

「いや、だって……。地味な小日向さんと、お前が……?」


 佐山くんの脳内で、パズルが崩れる音がしたのが分かった。彼の中で「Nona=小日向陽菜」という仮説は、「神秘的な歌姫」というイメージに基づいている。

 それが、「クラスで一番地味な男子と付き合っている地味な女子」という現実に上書きされた瞬間、彼のオタク的な幻想は霧散したのだ。


「……チッ。なんだよ、ただのカップルかよ」


 佐山くんは急速に興味を失ったように、吐き捨てるように言った。


「んだよ、紛らわしい。Nonaかと思ったのに……。あんな神聖な歌姫が、こんな地味な男と付き合ってるわけないか」


 勝手な言い草だ。でも、それが正解だった。本郷くんは無言で佐山くんの手を振り払うと、鋭い視線だけで彼を射抜いた。


「二度と近づくな。……次やったら、図書室の本棚全部ひっくり返すぞ」

「ひっ……!」


 佐山くんは脱兎のごとく逃げ出した。残されたのは、静寂と、まだ少しだけ痛む私の手首。

 そして、呼吸を荒げている本郷くん。


「……本郷くん」

「……行くぞ」


 彼は私の返事も待たずに、今度は私の手首を掴んで歩き出した。その手は、さっき佐山くんを掴んだ時とは違い、壊れ物を扱うように優しかったけれど、拒絶を許さない強さがあった。


            ***


 タクシーの中は、重苦しい沈黙に包まれていた。私は膝の上で手を握りしめ、隣の彼をチラリと見る。彼は不機嫌そうに腕を組み、窓の外を見ていた。


「……あの、ありがとう。助けてくれて」

「……」

「でも、あんな嘘ついてよかったの?付き合ってる、だなんて」


 私が恐る恐る尋ねると、彼はため息をつき、ようやくこちらを向いた。


「嘘じゃないと、あいつは引かなかった。……それに」

「それに?」

「一番手っ取り早いカムフラージュだ。俺たちが『恋人』だという噂が広まれば、お前が『Nona』だという疑いは晴れる」


 彼は淡々と言った。


「誰も、今ネットで話題の歌姫が、クラスの陰キャ男とイチャついてるとは思わないからな。……灯台下暗し、だ」


 理路整然としている。

 あくまでNonaの正体を守るための戦略。分かっている。分かっているけれど、「ただのカムフラージュ」と言い切られたことに、胸の奥がチクリと痛んだ。


「……そうだよね。戦略、だよね」


 私が小さく呟くと、彼は何か言いたげに口を開きかけ、結局何も言わずにまた窓の外を向いてしまった。

 タクシーの窓に映る彼の横顔は、どこか悔しげに見えた。


            ***


 スタジオに到着すると、彼はすぐに私をソファに座らせた。

 そして、デスクの引き出しからウェットティッシュを取り出し、私の前に立った。


「……手、出せ」

「え?」

「いいから」


 彼が私の左手を取る。さっき、佐山くんが触れようとした場所だ。彼は無言で、そこをウェットティッシュでゴシゴシと拭き始めた。


「ちょ、ちょっと本郷くん!?痛いよ!」

「……消毒だ」

「消毒って……佐山くん、触ってないよ?寸前で本郷くんが止めてくれたから」

「それでもだ。空気が触れた。視線が触れた」


 彼は子供のようにムキになって、私の手首を拭き続ける。その必死な様子に、私はハッとした。もしかして、怒ってる?嫉妬、してくれてる?


「……俺以外の男に、半径1メートル以内に入られんじゃねぇよ」


 彼はボソリと呟き、ようやく手を止めた。拭かれすぎて少し赤くなった手首。

 彼はハッとしたように力を緩め、今度はその赤くなった皮膚を、自分の親指の腹で優しく撫でた。


「……悪かった。きつくやりすぎた」

「ううん、大丈夫」


 彼の体温が伝わってくる。

 

 心臓がうるさい。彼は私の手首を離すと、今度は私の顔をじっと覗き込んだ。


「それより、問題はこっちだ」


 彼の人差し指が、私の唇の端――小さなほくろに触れた。


「……ここか」

「うん。メイクで隠れてると思ってたけど、やっぱり分かっちゃうみたい」

「俺のミスだ。完璧に作り込んだつもりだったが、詰めが甘かった」


 彼は悔しそうに唇を噛む。

 そして、私のほくろを指先でなぞりながら、独り言のように呟いた。


「消すか?コンシーラーを厚塗りすれば隠せる。でも、至近距離で見られたら違和感が残る」

「……どうしよう」

「いや」


 彼はニヤリと笑った。


「逆転の発想だ。……隠すんじゃない。目立たせる」

「え?」


 彼はデスクから、ラインストーンのシールを取り出した。ネイルアートに使うような、キラキラした小さな宝石。


「これを、ほくろの上に貼るんだ」

「貼るの?」

「ああ。『Nona』のチャームポイントにする。そうすれば、誰もその下に黒子があるなんて思わない。ただの『メイク』だと思い込む」


 なるほど。ほくろを隠そうとするから、見つかった時に証拠になる。

 でも、最初からそこに派手なジュエリーがあれば、視線は宝石に向き、ほくろの存在は意識から消える。


「……天才かも」

「だろ?」


 彼は得意げに笑うと、ピンセットで小さな赤いストーンを摘まみ、私の唇の端にそっと乗せた。


「……ん、いいな」


 彼が鏡を見せてくれる。

 唇の端で輝く赤い石。それはまるで、涙のようでもあり、口づけの痕のようでもあった。

 妖艶で、どこか悲しげなNonaのイメージにぴったりだ。


「これで、お前の顔は完成だ」


 彼が満足そうに頷く。そして、不意に私の肩を掴み、真剣な眼差しで見つめてきた。


「小日向」

「はい」

「明日から、学校でも家でも、俺のそばを離れるな」

「え?」

「佐山みたいな勘のいい奴が、またいつ現れるか分からない。……お前を守れるのは、世界で俺だけだ」


 それは、ビジネスパートナーとしての言葉なのか。それとも、「恋人役」としての言葉なのか。彼の瞳があまりに熱くて、私はその答えを聞くことができなかった。


「……うん。分かった」


 私が頷くと、彼はふいと視線を逸らし、「……コーヒー淹れる」と言って背を向けた。

 その耳が、真っ赤に染まっているのを、私は見逃さなかった。


 偽りの恋人宣言。独占欲丸出しの消毒。そして、唇に施された新しいマーキング。


 私たちの関係は、もうただのクラスメイトには戻れないところまで来てしまっていた。

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