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第7話:私、もう泣かない

 タクシーの車内は、革の匂いと静寂に包まれていた。私は足元の新しいスニーカーを見つめていた。真っ白で、汚れひとつない靴。

 さっきまで画鋲だらけだった私のローファーは、公園のゴミ箱に捨ててきた。

 「あんなゴミ、持ってるだけで運気が下がる。ローファーも俺が買ってやる」と彼が言っていたからだ。


「……本郷くん」

「ん」

「高かったでしょ、これ」

「知らね。カードで払ったから値段見てない」


 彼は窓の外を流れる夜景を見つめたまま、素っ気なく答える。

 でも、その膝の上で、彼の指先がトントンと小刻みにリズムを刻んでいるのを私は見逃さなかった。彼は怒っている。

 そして、その怒りを頭の中で音に変換しているのだ。


 マンションに到着し、私たちは無言でエレベーターに乗り込んだ。最上階への上昇。

 昨日までは緊張で胃が痛くなったけれど、今日は不思議と安心感がある。

 ここには、画鋲を靴に入れるような悪意はない。あるのは、彼と、音楽だけだ。


            ***


「……座ってろ」


 スタジオに入った瞬間、彼は鞄をソファに放り投げ、すぐにデスクに向かった。

 制服のブレザーを脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を乱暴にまくり上げる。

 パソコンを立ち上げると、彼は何かに取り憑かれたような速度でキーボードを叩き始めた。


 カチャカチャカチャッ、タンッ!


 今まで見たどの作業よりも速く、そして激しい。

 私は新しいスニーカーを脱ぎ(まだ汚れていないから、玄関に置くのも少し誇らしかった)、ソファのいつもの定位置に座って彼を見守った。


 一時間ほど経っただろうか。

 彼は一度も振り返らず、ガリガリと頭をかきむしりながら、スピーカーのボリュームを上げた。


「……聴け」


 ドンッ、という重低音が床を震わせる。

 流れてきたのは、以前聴いたような美しいバラードでも、ポップなラブソングでもなかった。

 

 不協和音ギリギリの、歪んだギター。

 金属を擦り合わせたような、耳障りなノイズ。

 でも、それが強烈なビートに乗って、とてつもなくカッコいい攻撃的な音楽になっていた。


「これが歌詞だ」


〔――綺麗なドレスで着飾って 中身は腐ったマトリョーシカ

 何枚脱いでも空っぽだろ? 底の浅いプライド

 踏みつけられた花の方が お前らよりずっと匂い立つ〕


「……これ」


 歌詞が、脳髄に突き刺さる。

 腐ったマトリョーシカ。踏みつけられた花。

 それは間違いなく、今日の教室での出来事――愛梨たちへの強烈な皮肉だった。


「どうだ」


 曲が止むと、彼が回転椅子を回してこちらを向いた。その目は爛々と輝き、口元には獰猛な笑みが浮かんでいる。


「……すごい。怖いけど、スカッとする」

「だろ?あいつらの甲高い笑い声とか、画鋲が落ちる音とか、全部サンプリングしてノイズにしてやった」


 彼は悪戯っ子のようにニシシと笑う。

 

「あいつらがお前に投げつけた悪意は、全部こうやって『作品』にしてやる。金に変えて、名声に変えて、あいつらが手の届かない場所から見下ろしてやる」


 彼は立ち上がり、私の前に立った。そして、私の手を取り、自分の胸元に引き寄せた。


「小日向、泣くな」

「……え?」

「いじめられてメソメソすんのは、もう終わりだ。被害者面して同情誘うより、あいつらが悔しがるくらいになれ」


 強い言葉。

 でも、それは彼なりの最大限の激励だった。

 「守ってやる」とは言わない。

 「一緒に戦え」と言われている気がした。


「……うん。私、もう泣かない」


 私が顔を上げて答えると、彼は満足そうに頷いた。


「よし。じゃあ、今日はこの歌詞の仮歌を入れるぞ」

「えっ、私が歌うの!?」

「当たり前だろ。お前の悔しさを乗せなきゃ意味がない。……ほら、マイクの前に立て。お前は歌える、俺はそんな気がしてた」

「…まぁ歌は苦手じゃないけど……。久しぶりだから…」


 彼は私をブースの中へと押し込んだ。

 マイクの前に立つ。ヘッドホンをつける。

 ガラス越しに、彼が親指を立てて合図を送ってきた。


 イントロが流れる。私は大きく息を吸い込んだ。画鋲の痛みも、冷たい視線も、全部声に乗せて吐き出すために。


 これが、私たちが世界に向けて放つ、最初の共犯作業だった。


 ――けれど、私たちはまだ知らなかった。

 この曲がネットにアップされた瞬間、学校中を巻き込む大騒動に発展することを。

 そして、「歌詞の内容がリアルすぎる」と、ネットの特定班が動き出してしまうことを。


            ***


 数日後。

 いつものように登校した私は、教室の異様な空気に足がすくんだ。


「ねえ、これ聴いた?昨日の&roitの新曲」

「ヤバいよね。これってさ……」


 クラス中の視線が、スマホの画面と、そして――教室の真ん中にいる愛梨たちに向けられていた。

 愛梨は青ざめた顔で、スマホを握りしめている。


 『&roit』の新曲『Thumbtack』(画鋲)

 その歌詞が、あまりにも今のこのクラスの状況とリンクしすぎていたのだ。


「『下駄箱の闇』に『突き刺さるSilver』……って、この前の画鋲のことじゃね?」

「『安っぽい香水』とか、まんまじゃん」

「うわ、もしかして&roit、この学校のこと歌ってる?」

「やっぱ高校生って噂マジなのか?」


 ヒソヒソ声は、やがて確信めいたざわめきに変わる。

 今まで愛梨に媚びを売っていた取り巻きたちも、蜘蛛の子を散らすように彼女から距離を取り始めていた。


 若者のカリスマであるアーティストが「その行為はダサい」と断じたのだ。クラスの価値観が一瞬でひっくり返った瞬間だった。


「ち、違う……!こんなの、ただの偶然よ!」


 愛梨が震える声で叫ぶ。

 けれど、その顔色は真っ青だ。彼女自身が一番よく分かっているはずだ。この歌詞が、自分に向けられた明確な攻撃であることを。


 彼女は血走った目で私を睨みつけ、ドカドカと私の席まで歩み寄ってきた。


「ちょっと!あんたでしょ!?」

「……え?」

「あんたが誰かにチクったんでしょ!?じゃなきゃ、&roitがこんな歌詞書けるわけないじゃない!」


 教室中の視線が私に集まる。

 以前の私なら、ここで萎縮して「ごめんなさい」と謝っていただろう。


 でも、今の私は違う。

 胸ポケットのスマホが、トクン、と心臓のように脈打っている気がした。彼と繋がっている、という事実が、私に冷ややかな冷静さを与えてくれる。


 私はゆっくりと顔を上げ、愛梨の目を真っ直ぐに見返した。


「……何のこと?」

「とぼけないでよ!画鋲のこととか、香水のこととか!」

「心当たりがあるの?」

「はぁ!?」

「私は誰にも言ってないよ。……でも、もしこの曲が『森川さんのこと』だとしたら」


 私は一度言葉を切り、昨日彼が言っていた言葉を思い出しながら、静かに告げた。


「森川さんがやったって、自分で認めることになるんじゃない?」


「ッ……!?」


 愛梨が息を飲む。

 そう、これが本郷優紀が仕掛けた罠だ。

「この曲は私のことだ!」と怒れば、それはすなわち「私は腐ったマトリョーシカです」と自白するのと同じこと。


 彼女は、怒ることも、否定することもできない。

 ただ、この屈辱的な歌詞を、甘んじて受け入れるしかないのだ。


「……くっ、うぅ……!」


 愛梨は言葉に詰まり、悔しさに顔を歪めた。反論できない彼女を見て、周りの生徒たちが「うわ、図星かよ」「ダサッ」と嘲笑う声が聞こえる。

 あんなに絶対的だった女王の座が、音を立てて崩れ落ちていく。


 いたたまれなくなったのか、愛梨は「ありえない!」と叫んで、教室を飛び出していった。


 その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。

 勝った。

 暴力も暴言も使わず、ただ「音楽」ひとつで、彼は私を救ってくれたのだ。


 ふと窓際を見ると、本郷くんは相変わらず机に突っ伏したままだった。

 でも、その肩が微かに揺れている。

 ……笑ってる。絶対に、この状況を楽しんでる。


 ――ブブッ。


 ポケットのスマホが震えた。

 画面を見ると、『Y』からのメッセージ。


『合格』


 たった一言。

 でも、それだけで十分だった。

 私はスマホを胸に抱きしめ、誰にも気づかれないように小さく微笑んだ。


 しかし、神風は「救い」だけをもたらすわけではなかった。風が強ければ強いほど、火は燃え広がる。


 『Thumbtack』は、私たちの予想を遥かに超えてバズってしまったのだ。

 

 歌詞の過激さと、中毒性のあるサウンド。

 そして何より、今までは本郷くんのボーカル曲がメインだった&roitに、突如として現れた謎の女性ボーカルの存在。

 それがネット上の特定班の心に火をつけてしまった。


『この曲、マジで神。てか、この女の声誰?』

『新メンバー?それともゲスト?』

『歌詞がリアルすぎる。これ、実話じゃね?』

『「下駄箱の画鋲」って、どっかの学校のいじめ告発?』


 SNSのタイムラインは、その話題で持ちきりだった。


            ***


 そして、昼休み。

 教室でスマホを見ていた男子の一人が、大きな声を上げた。


「おい、ちょっと待てよ。この声……なんか聞いたことね?」


 ドキリ、と心臓が跳ねた。


「えー?誰よ」

「いや、分かんねーけど……。なんか、すげー身近にいるような……」


 男子生徒が首を傾げながら、チラリと私の方を見た気がした。背筋に冷や汗が伝う。まさか、バレる?

 エフェクトをかけて加工してあるとはいえ、元の声質までは消せていない。毎日クラスで聞いている声なら、勘のいい人間なら気づくかもしれない。いや、でも私は空気で友達もいない。不幸中の幸いだ。


「(けど、バレたらどうしよう……)」


 愛梨がいなくなって平和になったと思ったのに、今度は別の種類の緊張感が私を襲う。

 もし私が&roitの歌姫だとバレたら?

 パパ活疑惑なんて目じゃないくらいの騒ぎになる。それに、本郷くんの正体まで芋づる式にバレてしまうかもしれない。


 私は助けを求めるように、窓際を見た。本郷くんはスマホを操作している。そして、すぐに私の手元が震えた。


『焦るな。想定内だ』

『放課後、対策会議する。すぐ来い』


 その文字を見て、私はごくりと唾を飲み込んだ。共犯関係は、まだ終わらない。

 むしろ、ここからが本当の秘密の逃避行の始まりなのかもしれない。


            ***


 放課後。私は周囲の目を盗んで、再び彼のマンションへと向かった。コンシェルジュにも顔を覚えられたのか、今日はスムーズにオートロックが開く。


 エレベーターで最上階へ。

 スタジオに入ると、彼は複数のモニターに囲まれ、SNSの画面を睨みつけていた。


「……来たか」

「本郷くん、大丈夫なの!?なんかネットですごいことになってるけど……」


 私が慌てて駆け寄ると、彼は回転椅子を回して私に向き直った。

 その表情は、焦るどころか、獲物を前にした肉食獣のように獰猛に笑っていた。


「ああ、最高だ。再生回数が昨日の倍のペースで伸びてる」

「再生回数って……バレたらどうするの!?」

「バレないように撹乱する。それがプロの仕事だ」


 彼はニヤリと笑うと、机の上に置いてあったあるものを私に投げ渡した。

 それは、狐の面だった。

 和風の、目元だけを隠すようなスタイリッシュなハーフマスク。


「……これ?」

「&roitの新ビジュアルだ。お前は今日から、正体不明の歌姫『Nona』(ノーナ)として活動してもらう」

「ノ、ノーナ……?」

「ローマ神話の運命の女神の一人だ。……名前がない、色もない『None』のお前にはお似合いだろ?」


 彼は立ち上がり、私の顔にその狐面をそっと当てがった。

 彼の指が、頬に触れる。


「顔は隠す。正体も隠す。……でも、声だけは世界中に届けてやる」


 レンズ越しの瞳が、熱を帯びて私を見つめる。


「俺が、お前を最強の歌姫にしてやるよ。……覚悟はいいか?」


 その言葉は、悪魔の囁きのようで。

 でも、私の心臓を激しく揺さぶる、甘い契約の言葉だった。


「……うん。やる」


 私は狐面を受け取り、強く頷いた。もう、後戻りはできない。

 私は無色の女子高生「小日向陽菜」であり、歌姫「Nona」になるのだ。

ここから実際の音源が聞けます↓

https://www.youtube.com/watch?v=p7psEszytiE

(収益化していません)

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