第6話:本当に性格悪いね
肺が焼けるように痛い。
私は3階、4階と階段を駆け上がり、踊り場を飛び越え、重たい鉄扉に体当たりするようにして押し開けた。
キィィィィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げる。
視界いっぱいに広がる青空。
そして、その空の下、フェンスに背を預けて私を待っている、一人の人影。
「……遅い」
本郷くんは、不機嫌そうにスマホをポケットにしまった。
乱れた前髪、少し緩めたネクタイ。
「はぁ、はぁ……ご、ごめんなさい……!」
息を切らしながら彼に近づく。
何を言われるんだろう。迷惑だ!と怒られる?それとも、もう関わるなと契約解除を突きつけられる?不安で胸が張り裂けそうだ。
けれど、彼は私の目の前まで来ると、眉間に深い皺を寄せたまま、私の右肩を――さっき愛梨に突き飛ばされた箇所を、バンバンと乱暴に手で払った。
「い、痛いよ……」
「じっとしてろ。……臭いが移ってる」
「え?」
「あの女の安っぽい香水の臭いだ。鼻が麻痺する」
彼は本気で嫌そうに顔をしかめ、まるで汚物を払うかのように私の肩を叩き続ける。
教室での言葉は、単なる嫌がらせじゃなかったんだ。彼は本当に、私が他人の色に染まるのを嫌がっている。
「……ごめん。私なんかのせいで、本郷くんまで巻き込んで」
「あ?」
「だって、あんなことしたら本郷くんまで目立っちゃうし……変な噂だって立つかもしれないし……」
私が俯くと、彼は大きなため息をついた。そして、強引に私の顎を掴んで上を向かせた。
「おい、勘違いすんな」
「……」
「俺はお前を助けたわけじゃない。ただ、俺の所有物に、薄汚いハエがたかってるのが不愉快だっただけだ」
所有物。
普通なら怒るべき言葉なのに、今の私にはそれが、どんな慰めよりも温かく響いた。
私は誰のものでもない、孤独な存在だと思っていた。でも、彼は俺のものだと言ってくれる。
「それに、パパ活だ?笑わせんな」
彼は鼻で笑い、意地悪く口角を上げた。
「お前がやってんのは、もっと高尚な契約だろ。まぁ、とは言え事実、お前はタワマンに通って、男から金を受け取ってる」
「…で、でも!」
彼は楽しそうに私の反応を面白がっている。
その顔を見て、ストン、と肩の力が抜けた。
そうだ。事実はどうあれ、真実を知っている彼がこうして笑い飛ばしてくれるなら、教室の噂なんてどうでもいい。
「……ありがとう。助けてくれて」
「礼なんていらない。その代わり」
彼は私の肩から手を離し、スッと自分の顔を近づけてきた。黒縁眼鏡の奥、鋭い瞳が私を射抜く。
「次の曲、歌詞変えるぞ」
「え?」
「さっきの教室の空気。あのドロドロした嫉妬と、お前の惨めな顔。……悪くないインスピレーションが湧いた」
彼はポケットからメモ帳を取り出し、サラサラと何かを書きなぐり始めた。
転んでもただでは起きない。私の不幸すらも、彼は創作の糧にしてしまう。
その貪欲さと、圧倒的な才能。
やっぱり、この人は神様だ。
「……本郷くんって、本当に性格悪いね」
「褒め言葉として受け取っとく」
彼はペンを回しながら、ニヤリと笑った。
「ほら、泣き止んだなら戻れ。次の授業サボったら、また内申点下がるぞ」
「あ……うん」
言われて気づく。チャイムが鳴るまであと数分しかない。私は涙を拭い、彼に背を向けた。
鉄扉に手をかけたところで、ふと思い出して振り返る。
「あの、本郷くんは?」
「俺はサボる。ここなら誰にも邪魔されないし、今はメロディが降りてきてるからな」
「……そっか」
彼はもう、私のことなど見ていなかった。空を見上げ、指先でリズムを刻んでいる。
その姿は孤独で、でも何よりも自由に見えた。
私は静かに扉を閉めた。階段を降りながら、胸のポケットに手を入れる。
スマホの向こう側、たった一人の共犯者。
教室に戻れば、また針のむしろが待っているかもしれない。でも、もう怖くなかった。
私には、最強の味方がいる。
――けれど。
私はまだ、楽観視しすぎていたのだ。
「女の嫉妬」という感情が、どれほど粘着質で、理不尽なものなのかを。
***
「……なに、これ」
放課後。
下駄箱で靴を履き替えようとして、違和感を覚えローファーをひっくり返すと私の足元に、何かが落ちてきた。
画鋲だ。
一つや二つじゃない。大量の画鋲が、私のローファーの中からバラバラとこぼれ落ちたのだ。
「え……」
息を飲む。
周りにいた生徒たちが、遠巻きにこちらを見てヒソヒソと話している。
犯人は分からない。でも、誰の差し金かは明白だった。
「ごめんなさぁい。手が滑っちゃった」
背後から、甘ったるい声が聞こえた。
振り返ると、愛梨が取り巻きを引き連れて立っていた。その手には、空になった画鋲のケースが握られている。
手が滑った?私の靴の中に?あまりにも白々しい嘘。
「小日向さんはパパ活で稼いだお金で、新しい靴くらい買えるでしょ?」
彼女は嘲笑うようにそう言い捨て、私に肩をぶつけて去っていった。悔しさで唇を噛む。何も言い返せない自分が情けない。
散らばった画鋲を拾い集めていると、ふと、視界の端に誰かの足が見えた。
見慣れたスニーカー。
本郷くんだ。
「……」
彼は無言で私の横を通り過ぎていく。
助けてはくれない。当たり前だ。衆人環視の中で、彼がまた私に関われば、火に油を注ぐことになる。
彼は正しい。でも、心が冷える音だけはどうしても止められなかった。
私は下駄箱を閉め、逃げるように昇降口を出た。今日はバイトがない日だ。でも、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
誰にも会いたくない。一人になりたい。
トボトボと通学路を歩いていると、不意にポケットのスマホが震えた。
『Y』からの通知。
『公園、裏のベンチ』
短いメッセージ。
私はハッとして顔を上げた。
学校から少し離れた場所にある、人通りの少ない公園。
彼は、見ていてくれたんだ。
私は走り出した。
画鋲を踏んだわけでもないのに、足の裏がジンジンと熱かった。
公園の裏手。鬱蒼と茂る木の陰にある古いベンチに、その人影はあった。
本郷優紀。
彼は足を組み、気だるげにスマホをいじっていたけれど、私の足音が聞こえるとゆっくりと顔を上げた。
夕闇に沈む公園で、彼の眼鏡の奥の瞳だけが、街灯の光を反射して鋭く光っている。
「……はぁ、はぁ……っ」
息を切らして立ち尽くす私を、彼は無言で見つめた。
そして、視線を私の顔から、ゆっくりと足元へ――あの、画鋲を入れられた上履きのまま飛び出してきた足先へと落とした。
「……座れ」
短い命令。
私が恐る恐る隣に座ると、彼はため息をつき、自分の鞄から何かを取り出した。
消毒液と、絆創膏だ。
「え……?」
「足、出せ」
「えっ、でも……汚いし……」
「いいから出せって言ってんだよ。……踏んだろ、一つくらい」
ドキリとした。
隠していたつもりだったけれど、実は左足の親指に、画鋲の先が少しかすっていたのだ。痛みで少し歩き方が変だったのを、彼は見逃していなかったらしい。
私が躊躇っていると、彼はイラついたように私の足首を掴み、強引に自分の膝の上に乗せた。
「っ……!」
「動くな」
彼は私の靴下を少しずらし、滲んだ血を見ると、眉をひそめた。
そして、手慣れた様子で消毒液をかけ、絆創膏を貼ってくれた。
その指先は、ピアノを弾くときのように繊細で、驚くほど優しい。
「……ごめん。また、迷惑かけて」
「……」
「さっき、無視してくれてよかったよ。あそこで本郷くんが庇ったら、もっと変な噂になってたもんね……」
強がって笑ってみせる。そうだ。彼は正しい判断をしたのだ。私のためにリスクを負う必要なんてない。けれど、彼は絆創膏を貼り終えると、ポツリと低い声で言った。
「……ムカつくんだよ」
「え?」
「お前がヘラヘラ笑ってんのが。……あと、俺の所有物に傷をつけられるのも」
彼は顔を上げ、私を睨んだ。
その瞳には、隠しきれない怒りの色が燃えていた。
「あの場で俺が出て行ったら、お前は『男に守られた女』としてさらに標的にされる。……だからスルーした。それだけだ」
「……うん」
「でも、気分が悪い」
彼は舌打ちをして、私の足を膝から下ろした。
そして、隣に置いてあった紙袋を、乱暴に私に押し付けてきた。
「……これ」
「なに?」
「さっきの詫びだ。……あと、それ履いて俺のスタジオに来い」
渡された紙袋。中を覗くと、そこには新品のスニーカーが入っていた。
ブランドものじゃないけれど、しっかりとした造りの、白くて可愛い靴。
「えっ……。これ、いつの間に……?」
「サボってる間に買ってきた。……お前の靴、もうボロボロで見てらんなかったしな」
彼はそっぽを向いて、早口でまくし立てる。耳が赤い。
私が画鋲まみれにされた靴を見て、わざわざ買いに行ってくれたのだ。「無視した詫び」なんて言い訳をして。
「……ありがとう、本郷くん」
胸がいっぱいで、言葉がうまく出てこない。
靴を履き替える。
ふかふかのインソールが、傷ついた足を優しく包み込んでくれる。
さっきまでの痛みも、惨めさも、全部彼が上書きして消してくれたみたいだ。
「……行くぞ」
「うん」
彼が立ち上がり、歩き出す。
その背中は、学校での空気な彼とも、スタジオでの神様な彼とも違う。
ただの不器用で優しい、一人の男の子の背中だった。
私は新しい靴で地面を踏みしめ、彼を追いかけた。
夕闇の中、二人の影が並んで伸びていく。
もう、一人じゃなかった。




