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第5話:図星なんだ

 夢のような時間は、とろけるように過ぎ去っていった。


「……ほら、乾いたぞ」


 彼が放り投げたのは、ドラム式洗濯乾燥機でふかふかに仕上げられた私の服だった。

 高級な柔軟剤の香り。

 自分のヨレヨレの服なのに、まるで新品のようによみがえっている。

 私はバスルームで着替えを済ませ、名残惜しさを感じながらも、借りていた黒いパーカーを丁寧に畳んで彼に差し出した。


「ありがとうございました。……あの、これ」

「ん」


 彼はパーカーを受け取ろうとして、ふと手を止めた。

 少しだけ思案するように目を細め、再び私に押し返してくる。


「やるよ」

「えっ?」

「お前、着るもん持ってないだろ。それやるから、次はちゃんとした格好で来い」

「い、いいの!?これ、高そうだけど……それに本郷くんのお気に入りじゃ……」

「型落ちだし、俺にも少しサイズがでかい。……それに」


 彼はパーカーのフード部分を指先でつまみ、意地悪そうに口角を上げた。


「俺の匂いがついてる方が、マーキングみたいで面白いだろ」

「ッ……!?」


 耳元で爆弾が破裂したかと思った。

 マーキング。その言葉の持つ意味を理解した瞬間、顔から火が出る。

 この人は、自分がどれだけ破壊力のある言葉を吐いているのか自覚がないのだろうか。それとも、わざと?


「……ありがたく受け取っておけ」


 私が真っ赤になって固まっていると、彼は満足げに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。

 私は「ありがとうございます……」と蚊の鳴くような声で礼を言い、そのパーカーを胸に抱きしめるしかなかった。

 残り香ごと、私を独占するかのような彼の服。重たい。でも、甘い。


「スマホ、出せ」

「あ、はい」


 言われるがままに画面を表示すると、彼は私の手からスマホをひょいと取り上げ、手慣れた様子でQRコードを読み取った。


「俺の連絡先だ。仕事の連絡はこれに入れる」

「……はい」

「即レスしろよ。既読スルーしたら給料引くからな」

「す、するわけないじゃん!」

「……ふん」


 私のスマホに表示された新しい友だち。『Y』という一文字だけの素っ気ないアカウント名。それが、私と神様を繋ぐ、唯一の蜘蛛の糸だった。


「送ってく。タクシー呼んだ」

「えっ、悪いよ!電車で帰れるし……」

「最後までサービスの範囲内だ。……それに」


 彼は玄関のドアを開けながら、背中で呟いた。


「こんな夜遅くに、未成年を一人でうろつかせたら、俺の寝覚めが悪い」


 結局、最後まで彼は強引で、不器用で、そしてどうしようもなく甘かった。


            ***


 翌朝。

 目覚めると、枕元には黒いパーカーと、財布に入った五万円があった。夢じゃなかった。

 私はパーカーに顔を埋め、深く息を吸い込む。微かに残る、深い森のような香り。それだけで、いつもの無色の朝が、少しだけ鮮やかに色づいて見えた。


 学校への足取りは、昨日までとは違っていた。靴は相変わらず底がすり減っているし、カバンもボロボロだ。

 けれど、私の胸ポケットにはスマホがあり、そこには『Y』との繋がりがある。その事実が、私に見えないドレスを着せてくれているようだった。


 教室のドアを開ける。相変わらずの喧騒。一軍女子たちの甲高い笑い声。男子たちのふざけ合う音。

 私はいつものように息を潜め、自分の席に向かう。


 チラリ、と窓際を見る。


 いた。

 本郷優紀。


 彼は今日も徹底して空気だった。

 机に突っ伏し、腕の中に顔を埋めて寝ている(フリをしている)。

 ボサボサの前髪、猫背の背中。昨日、あのラグジュアリーなスタジオで、自信満々に音を操り、私にマーキング発言をした雄の面影はどこにもない。


「(……すごい演技力。詐欺師レベル…)」


 呆れると同時に、少しだけ優越感を感じる。みんなは知らない。この冴えない眼鏡男子の中身が、どれほど危険で、美しいか。

 知っているのは、世界で私だけ。


            ***


 別の日授業中。再度またバレないように見ていると――。


 ――ブブッ。


 ポケットの中のスマホが、太腿の上で短く震えた。

 授業中だ。普段なら無視するけれど、虫の知らせか、私はこっそりと机の下で画面を確認した。


 LIMEの通知。

 差出人は『Y』。


『見すぎ』


「ッ……!?」


 心臓が飛び跳ねる。

 慌てて口を押さえ、恐る恐る窓際を見ると、突っ伏していたはずの彼が、腕の隙間から片目だけ覗かせ、ニヤリと口角を上げていた。


「(……バレてた!)」


 顔から火が出るかと思った。

 彼はすぐにまた顔を伏せ、死んだふりに戻ってしまったけれど、その一瞬のやり取りだけで十分だった。

 繋がっている。三十人近くの生徒と教師がいるこの無機質な教室で、私と彼だけが秘密の回線で繋がっている。


 その背徳感に、私は机に突っ伏して、緩みそうになる頬を必死に隠した。

 彼だけの秘密。彼だけの特別。

 それがこんなにも、私の心を浮き足立たせるなんて。


 ――けれど。

 私は知らなかった。

 光が強くなればなるほど、落ちる影もまた、濃く、黒くなるということを。


            ***


「……ねえ、ちょっと」


 あれから、週に3回ほどの頻度で彼の家に通い、少し経ったとある日の昼休み。

 幸福感に浸りながら購買のパンを齧っていた私の机に、冷たい影が落ちた。


 顔を上げると、そこには教室の女王――一軍女子のリーダー格である、森川もりかわ 愛梨あいりが立っていた。

 綺麗にマスカラが塗られた目が、値踏みするように私を見下ろしている。


「小日向さんさぁ」


 彼女は作り笑いを浮かべながら、でも目は全く笑わずに言った。


「なんか最近雰囲気変わったよね?……色気づいたっていうか」

「え……?」

「でさ、私昨日、見ちゃったんだよね」


 彼女の声が、わざとらしく教室中に響くボリュームになる。


「六本木の高級タワマンから出てきて、タクシー乗るとこ。……あんたさ、『パパ活』してんの?」


 ザワッ、と教室の空気が凍り付いた。

 一斉に向けられる、好奇と軽蔑の視線。

 

「……は?」


 思考が停止する。

 愛梨の瞳には、明確な悪意と、そして隠しきれない嫉妬の色が混じっていた。

 なぜ私なんかに嫉妬を?


「ち、違う……!そんなんじゃない!」


 私の否定の声は、恐怖で裏返り、あまりにも頼りなく響いた。けれど、一度撒かれたインクは、水に落ちた瞬間に広がるように、教室中の空気をどす黒く染め上げていく。


「え、マジで?小日向さんが?」

「でもさ、あの子んち貧乏なんでしょ?ありえるんじゃね?」

「うわー……。見た目地味なのに、やることはやってんだ」


 ヒソヒソという囁き声が、四方八方から突き刺さる。


 違う。私はただ、彼の仕事を手伝っているだけで……。

 でも、言えるわけがない。


「人気絶頂のアーティストのスタジオに通っています」

 なんて、パパ活よりも信じてもらえないし、何より彼との秘密の契約を破ることになる。


 私が黙り込むと、愛梨は「図星なんだ」と鼻で笑い、私の机をコンコンと指で叩いた。


「ねえ、いくら貰ってんの?お母さんの入院費、それで稼いでるわけ?」

「ッ……!」


 一番触れられたくない傷口を、土足で踏み荒らされる。悔しさと惨めさで、視界が滲む。やめて。みんな、見ないで。

 せっかく最近、少しだけ世界に色がついてきたと思っていたのに。やっぱり私は、色の無い世界の住人でしかないんだ。


 助けを求めるように、無意識に窓際を見る。

 本郷くん。

 助けて、神様。


 けれど、彼は相変わらず机に突っ伏したままだ。

 ……そうだよね。ここで彼が動いたら、彼まで変な噂に巻き込まれる。正体がバレるリスクだってある。

 彼にとって私は、ただの雇われ資料でしかない。クラスでのいじめから助ける義理なんてないのだ。


「……あーあ。汚らわしい」


 愛梨が吐き捨てるように言い、私の肩をドン、と突き飛ばした、その時だった。


 ガタッ!!


 教室の隅で、荒々しく椅子が引かれる音が響いた。

 そのあまりに乱暴な音に、愛梨も、野次馬たちも、ビクリとして振り返る。


 そこに立っていたのは、本郷優紀だった。

 彼はゆっくりと顔を上げ、気だるげに首をコキリと鳴らす。

 ボサボサの前髪の隙間から、分厚い眼鏡越しに、教室全体をぐるりと見渡した。


「……うっせぇな」


 ドスの利いた、地を這うような低い声。

 それはいつもの空気な彼からは想像もつかないほど威圧的で。

 教室中が、水を打ったように静まり返った。


 彼はポケットに手を突っ込むと、愛梨たちが道を塞いでいる私の机の方へ、のっそりと歩いてきた。

 愛梨が気圧されて、無言で後ずさる。


 彼は私の目の前まで来ると、立ち止まった。

 助けてくれるの?期待して彼を見上げる。


 けれど、彼は私を一瞥もしなかった。ただ、愛梨が突き飛ばした拍子に床に落ちていた私のペンケースを拾い上げ、無造作に机の上に放り投げただけだ。


 そして、愛梨の横を通り過ぎざまに、ボソリと――けれど、愛梨と私には確実に聞こえる声量で呟いた。


「……安っぽい香水の匂い。鼻が曲がりそうだ」


「え……?」


 愛梨が顔を真っ赤にして固まる。

 彼はそのまま、何事もなかったかのように教室のドアを開け、出て行ってしまった。


「な、なんなのよアイツ……!」


 愛梨の震える声が響くけれど、さっきまでの「小日向陽菜を断罪する空気」は、彼が放った異質な一言で霧散してしまっていた。

 みんな、呆気にとられている。

 一番地味で空気だった本郷優紀が、カーストトップの愛梨に暴言を吐いて出て行ったのだから。


 私は、彼が出て行ったドアを呆然と見つめた。

 心臓が、痛いくらいに脈打っている。


 ――ブブッ。


 ポケットの中で、スマホが震えた。

 私は机の下で、震える指で画面を開く。

 『Y』からのメッセージ。


『屋上。来い』


 涙が、ポロリとこぼれ落ちた。

 私は愛梨たちの視線を振り切るように立ち上がり、教室を飛び出した。

 行かなきゃ。

 私の神様が待つ、あの場所へ。

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