第4話:……惨めだなぁ
タクシーは滑るように走り、ものの十分ほどで目的地に到着した。
見上げるほどのタワーマンション。
昨日、配達員として裏口から入った場所に、今日は正面エントランスから堂々と入る。その事実に足が震えた。
「……お帰りなさいませ」
コンシェルジュが深々と頭を下げる。
隣にいる薄汚れた制服姿の私を見ても、眉一つ動かさない。さすがプロだ。
「ついて来い」
「は、はい……」
彼は軽く会釈だけして通り過ぎ、私をエレベーターホールへ連れて行った。
エレベータに乗り込み、上昇する。特に何も会話はない。静かだけど、いやな沈黙ではない。
最上階へ着いた。
彼の部屋の重厚な扉が開くと、そこには昨日見た光景が――いや、昨日よりもさらに鮮明な異世界が広がっていた。
「お邪魔、します……」
玄関だけで私の部屋くらいありそうだ。
大理石の床に、高そうな間接照明。そして、廊下の奥からは微かに高級なルームフレグランスの香りが漂っている。
「靴、そこら辺でいいから」
「あ、うん……」
脱いだ自分のローファーを見る。
底がすり減って、泥がついた安物の靴。ピカピカの大理石の上に置かれたそれが、ひどく惨めで、私は慌てて揃えて端っこに寄せた。
早朝の品出しバイトでかいた汗。学校の埃。自分の身にまとわりついている生活の汚れが、この真っ白な空間を汚してしまいそうで怖い。
「こっちだ」
彼は迷わず奥の部屋へと進む。
通されたのは、リビングのさらに奥にある防音扉の向こう側――スタジオだった。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
壁一面に貼られた吸音材。巨大なモニターが3つ。高価そうなスピーカーに、キーボード、何本ものギター。
中央には革張りの大きなソファと、コックピットのような作業デスクが鎮座している。
ここは、高校生の部屋じゃない。プロの仕事場だ。
そして何より――寒い。
「……っ」
思わず身震いする。
機材の熱暴走を防ぐためだろうか、部屋の中は冷蔵庫のように冷房が効いていた。
「そこ、座ってて」
季節は夏目前の六月。昼くらいから夕方くらいまで少し雨が降っていた。外は湿度のせいで蒸し暑かった。じわりとかいていた汗が一瞬で冷える。
彼は私をソファに座らせると、すぐにデスクに向かい、パソコンのスリープを解除した。カチャカチャ、とキーボードを叩く音。
モニターの青白い光に照らされた彼の横顔は、学校で見せる「死んだ目」とは別人のように鋭い。
「……」
私は膝の上で手を握りしめ、息を殺して彼を見つめる。
メガネを外し、髪を耳にかけた彼。機材を操る長い指。時折、眉間に皺を寄せ、何かを呟きながら旋律を紡いでいく姿。
「(……かっこいい)」
不謹慎にも、そう思ってしまった。学校ではあんなに気配を消しているのに、ここでは彼が世界の中心だ。
音を支配し、色を生み出す神様。
そんな人が、どうして私なんかを?
1時間ほど経っただろうか。
冷房の風が直撃し、汗で冷えた私の身体は限界を迎えていた。
栄養不足の身体は脂肪がなくて熱を作れない。制服の薄い生地越しに、冷えた汗と交わり冷気が骨まで染みてくる。
カタカタ、と歯が鳴るのを必死で止める。でも、震えは止まらない。
突然、彼が作業の手を止めた。
「……おい」
「は、はいっ」
彼はくるりと椅子を回転させ、不機嫌そうに私を睨んだ。
「さっきからカタカタうるさい。気が散る」
「ご、ごめんなさい……。ちょっと、寒くて……」
私が小さくなって謝ると、彼は眉を寄せ、私の腕を掴んだ。
「つめたっ……!」
彼が驚いたように声を上げる。
私の肌は、氷のように冷え切っていたのだ。
「お前、体温調節機能死んでるのか?こっちは機材のために22度設定にしてるけど、普通ここまで冷えないだろ」
「ご、ごめん……」
「……チッ」
彼は舌打ちを一回すると、デスクから立ち上がり、部屋の隅にあるクローゼットを開けた。
中から何かを取り出し、私に放り投げる。
バサッ、と頭から被ったそれは、黒いパーカーだった。彼が普段着ているものだろうか。柔軟剤のいい匂いがする。
「風呂行ってこい」
「えっ!?」
「シャワー浴びて、体温上げてこいって言ってんの。そんな青白い顔で震えられてたら、曲のイメージが狂う」
「いやいやいや!無理だよ!本郷くんの家でシャワーなんて!」
私がブンブンと首を横に振ると、彼は呆れたように溜息をついた。
「5万払っただろ。業務命令だ。……あと」
「あ、あと……?」
彼は私の鼻先でクン、と匂いを嗅ぐような仕草をした。
「学校とバイトの匂いがする。それもリセットしてこい。俺はスタジオに、生活臭は持ち込ませない主義なんだ」
ズキリ、と胸が痛む。やっぱり、気づかれてた。私が薄汚れていること。
恥ずかしさで顔が熱くなる。もう断れる空気じゃない。
「……わかった。お借り、します……」
「1つ言っておく。お前を否定している訳じゃない。タオルも新しいのがある。そのパーカーに着替えて戻ってこい」
彼はそう言うと、またすぐに画面に向き直ってしまった。突き放すような物言い。
でも、投げられたパーカーは分厚くて、裏起毛で、すごく温かかった。
私はパーカーを抱きしめ、逃げるようにバスルームへと向かった。
通されたバスルームは、私が知っているお風呂場という概念を軽く超えていた。
壁も床も大理石。ガラス張りのシャワーブースに、足が伸ばせそうな大きなバスタブ。洗面台には、海外製の高級そうなボトルが整然と並んでいる。
「……ホテルじゃん」
思わず独り言が漏れる。私は恐る恐る服を脱ぎ、洗濯カゴへ入れた。
ヨレヨレのブラウス、毛玉だらけの靴下。この空間に置くと、自分の身に着けているものがゴミのように見えてくる。
鏡に映る自分はかなり痩せていて、肌も荒れ気味だ。
「……惨めだなぁ」
ため息をついて、シャワーの栓をひねる。天井の大きなヘッドから、温かいお湯が降り注いだ。
身体のこわばりが溶けていく。
備え付けのシャンプーをワンプッシュすると、さっき彼から漂っていたのと同じ、深い森のような香りが浴室いっぱいに広がった。
泡に包まれながら、私は今日一日の汚れを――品出しでかいた汗も、外で浴びた排気ガスも、そして惨めな自分自身も、全て洗い流すように強く肌を擦った。
これであの「神様の聖域」に戻っても、許されるだろうか。
シャワーを上がり、バスタオルで身体を拭く。そして、彼から渡された黒いパーカーに袖を通した。
「……でか」
分かってはいたけれど、ブカブカだ。
身長175センチの彼が着て丁度いい服は、150センチの私にはワンピースみたいになってしまう。
袖なんて長すぎて、指先まですっぽり隠れてしまった。これを「萌え袖」と呼ぶには、あまりにも私が貧相すぎる気がする。
でも、すごく温かい。
裏起毛の生地が冷えた身体を包み込み、フードからは彼の匂いがした。
まるで、彼に後ろから抱きしめられているみたいで――。
「……っ、何考えてんの私!」
カッと顔が熱くなる。
ブンブンと首を振って邪念を払い、私は深呼吸をしてバスルームのドアを開けた。
***
スタジオに戻ると、彼はまだモニターに向かっていた。
ヘッドホンをして、何やらブツブツと呟きながらキーボードを叩いている。集中モードだ。
私は音を立てないように、忍び足でソファに近づいた。
「……終わったか」
不意に声をかけられ、心臓が跳ねる。
気づけば、彼が回転椅子を回してこちらを見ていた。
ヘッドホンを首にかけ、その黒曜石のような瞳が、私を――いや、私の姿を、じっと観察するように見つめる。
足元から、パーカーの裾、そして濡れたままの髪へ。
値踏みするような視線に、居たたまれなくなって身を縮こまらせる。
「あ、あの……服、大きすぎちゃった。なんか、子供みたいでごめんなさい……」
変な格好だと思われただろうか。
私が俯いて謝ると、彼はふいと視線を逸らし、口元を片手で覆った。
「……いや」
咳払いのような音が一つ。
耳が、少しだけ赤い気がする。
「悪くない。……さっきの震えた捨て猫みたいな状態よりは、マシだ」
「す、捨て猫……」
「座れ。髪、まだ濡れてるぞ」
彼はそう言うと、デスクの引き出しからドライヤーを取り出し、コンセントに差した。
まさか、乾かしてくれるの?
期待した私が馬鹿だった。彼はドライヤーを私に手渡すと、「自分でやれ」と顎で示した。
「あ、はい。ありがとうございます」
彼はそのままキッチンのほうへ行ってしまった。私が無心で髪を乾かしていると、背後から彼が近づいてきた。
「乾いたら、これ飲め」
ドン、とサイドテーブルに置かれたのは、湯気が立つマグカップだった。
甘いチョコレートの香り。ホットココアだ。
「えっ……。本郷くんが淹れてくれたの?」
「糖分補給だ。脳に糖が回らないと、いいリアクションが取れないからな」
「……ありがとう」
相変わらずの減らず口。でも、その不器用な優しさが嬉しくて、私はマグカップを両手で包み込んだ。
温かい。パーカーも、ココアも、この部屋の空気も。
さっきまでの寒さが嘘みたいだ。
ゴォーッというドライヤーの音の中、彼はまた作業に戻った。
私は髪を乾かしながら、ココアを一口啜る。濃厚な甘さが、疲れた身体に染み渡っていく。
こんなに甘いものを飲んだのは、いつぶりだろう。
「……よし」
しばらくして、彼がヘッドホンを置き、大きく伸びをした。
「小日向、聴かせたいところまで出来た」
「本当?」
「ああ。……こっち来い」
手招きされ、私はマグカップを置いて彼の隣――コックピットのようなデスクの横に立った。
彼は私を見上げ、ニヤリと不敵に笑う。
その笑顔は、学校の彼とも、さっきまでの気難しい彼とも違う。自信に満ち溢れた、アーティスト『&roit』の顔だった。
「お前の『色』を混ぜて作った曲だ。……腰抜かすなよ?」
彼がエンターキーを叩く。
瞬間、スタジオの高性能スピーカーから、音が溢れ出した。
重厚なベース音、疾走感のあるドラム、そして幾重にも重ねられた彼のコーラス。
音の波が、私を飲み込む。
『――汚れた靴で 踊ればいい
その泥さえも 宝石に変えてやる』
「っ……!」
歌詞が、耳に飛び込んでくる。
汚れた靴。泥。
それは間違いなく、さっき私が玄関で隠そうとした、あのローファーのことだ。
私の惨めさを、コンプレックスを、彼はこんなにも美しい音楽に変えてしまった。
曲が終わっても、私は言葉が出なかった。
ただ、涙が溢れて止まらなかった。悲しいんじゃない。嬉しいのでもない。ただ、魂が震えて、涙腺が壊れてしまったみたいだ。
「……おい、泣くなよ」
彼が困ったように眉を下げる。
そして、私の頬に手を伸ばし、親指で乱暴に、でも優しく涙を拭った。
「これだから、お前は……」
彼の指先は熱かった。
その熱が、私の冷え切った心臓を、もう一度ドクンと強く動かした気がした。
ここから実際の音源が聞けます↓
https://www.youtube.com/watch?v=lbZ_-4sw3eQ
(収益化していません)




