第3話:お前の時間が欲しい
曲が終わると、ふつり、と世界から音が消えた。残ったのは、私の鼓動の音と、吹き抜ける風の音だけ。さっきまで確かにそこにあったカラフルな世界が霧散し、またいつもの色の無い夕暮れが戻ってくる。その落差があまりに大きくて、私は軽い眩暈を覚えた。
私は呆然と、左耳から白いイヤホンを外した。すごい。すごかった。言葉にすれば陳腐になってしまうけれど、心臓を直接鷲掴みにされたような感覚が残っている。
「……どうだった」
彼がポツリと聞いた。感想を求めているというよりは、独り言のような静かなトーンだ。でも、その指先がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。神様みたいな彼でも、自分の作品を見せる時は緊張するのだろうか。
「……すごく、綺麗で、苦しかったです。でも、救われるような……」
語彙力のない自分が情けない。でも、嘘偽りのない感想だった。それを聞いた彼は、ふぅ、と小さく息を吐き出し、前髪をかき上げた。緊張が解けたような、安堵の表情。
「……そっか」
短くそう言うと、彼はまた少し遠い目をした。
「最近、書けなかったんだ。ずっと」
「え?」
「スランプ。何を見ても、何を感じても、何も浮かばない。……今の俺には、飢えとか、焦燥感みたいなものが足りないのかもしれない」
彼は自嘲気味に笑う。成功者である彼にしか分からない悩み。私には想像もつかない世界の話だ。満たされているからこそ、書けない。持っているからこそ、失う痛みが分からない。そんな贅沢な苦悩が、彼の中にはあるのかもしれない。でも、彼は私の目をじっと見つめて、こう続けた。
「でも、お前を見てたら、メロディが降りてきた」
「……私?」
「ああ。教室の隅で死んだような目をしてるお前。……必死で、惨めで、それでも何かに縋ろうとしてるその姿が、俺の琴線に触れた」
褒められているのか貶されているのか分からない。「死んだ目」「惨め」。普通なら怒るところだ。でも、不思議と嫌な気はしなかった。彼が私という人間を、フィルターなしで真っ直ぐに見てくれている気がしたからだ。その瞳は真剣そのもので、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
「小日向」
初めて、彼に名前を呼ばれた気がする。その低音ボイスが、私の鼓膜を優しく、でも確実に支配していく。
「お前の時間が欲しい」
「……え?」
「俺のそばにいろ。お前のその陰の感情は、今の俺に必要な素材な気がする」
あまりに唐突な提案に、思考が追いつかない。そばにいろ?素材?どういうこと?それは告白のようにも聞こえるけれど、彼の目には恋愛感情のような甘い色は一切ない。あるのは、獲物を見つけた猛獣のような、純粋な好奇心と執着だけ。戸惑う私を置いて、彼はスマホを取り出し、時間を確認した。
「……そろそろ行くぞ」
「い、行くって、どこに?」
「スタジオ。まだ曲の続きがあるんだ。お前の反応を見ながら仕上げたい」
淡々とした口調。拒否権はないと言わんばかりだ。彼はすでに立ち上がり、ポケットに手を入れている。でも、私には現実的な問題があった。どんなに非日常に憧れても、私の足首には生活という重い足枷がついているのだ。
「む、無理だよ!私、これからバイトだし……」
「バイト?」
「そうだよ。デリバリーのバイト。昨日家に届けたでしょ。行かないと私……」
言いかけて、言葉を飲み込む。「生きていけない」なんて、彼には重すぎる言葉だ。現実は非情だ。どんなにロマンチックな展開になりそうでも、生活費という鎖が私を縛り付けている。今日働かなければ、明日のご飯がない。それが私のリアルだ。
私は慌てて立ち上がり、スカートの砂を払った。
「ごめんね、曲、聴かせてくれてありがとう。私、もう行かなきゃ」
早く出よう。このまま、ここに居たら日常に戻れなくなる。背を向けて、鉄扉に手をかけようとした時だった。
「いくらだ?」
背後から、冷ややかな声が聞こえた。振り返ると、彼は冷めた目で私を見ていた。
「は?」
「バイト代だ。いくら稼げば、今日の時間を俺に割ける?」
「……えっと、件数にもよるけど……。1万くらい、かな……?」
「安いな」
彼は鼻で笑うと、制服のズボンのポケットから無造作に財布を取り出した。ブランド物の、革の財布。そして、中から数枚の一万円札を紙切れのように引き抜き、私の目の前に差し出した。
「5万だ。これで今日は俺に付き合え」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!そんなの受け取れないよ!」
「足りないか?じゃあ10万」
「違う!金額の問題じゃなくて……!」
お金の価値観が違いすぎる。彼は怪訝そうな顔で首を傾げた。悪気はないのだ。彼にとって、時間をお金で買うことは、喉が渇いたから水を買うのと同じくらい自然なことなのだろう。でも、私にはそれが恐ろしかった。5万なんて大金、受け取ってしまったら、私は本当に彼に魂を売ることになる気がして。
彼はため息をつくと、一歩近づき、まるで子供に言い聞かせるように淡々と言葉を紡いだ。
「小日向、勘違いするな。これは施しじゃない。ビジネスだ」
「ビジネス……?」
「お前は俺の創作に必要な『資料』だ。資料を拘束するのに対価を払うのは当然だろ?俺にとって、最高傑作を作るための5万や10万なんて、安い投資だ」
彼は私の手を取り、無理やりお札を握らせた。温かい手。でも、その瞳には有無を言わせない強い意志が宿っている。
「他人の飯の配達なんかで消耗するな。お前の時間は、俺のために使え」
「っ……」
その言葉は、あまりにも強引で、不器用で。けれど、「お前の時間には価値がある」と言われたようで。誰からも必要とされていなかった私の心に、熱く深く突き刺さった。
彼はそう言い捨てると、さっさと鉄扉を開けて歩き出した。残された私は、手の中の重たいお札と、早鐘を打つ心臓を持て余したまま、呆然と彼の背中を見つめるしかなかった。「ほら、行くぞ」と彼は手を振る。
***
校門を出てからも、心臓の音は収まらなかった。制服のポケットに入れた五万円が、まるで熱を持ったカイロのように太腿に張り付いている感覚がする。
少し前を行く本郷くんは、相変わらず猫背で、誰とも目を合わせずに歩いている。クラスメイトとすれ違っても、誰も彼が&roitだとは気づかない。もちろん、彼の後ろをついて歩いている私が、彼と秘密の契約を結んだなんて、誰も想像すらしないだろう。
「(……私、どうなっちゃうんだろ)」
不安と、少しの期待。タクシー乗り場で足を止めた彼が、スッと手を上げた。滑り込んできた黒塗りのタクシーの自動ドアが開く。
「乗れ」
短い命令。私は覚悟を決めて、その薄暗い車内へと足を踏み入れた。
それは、私の無色の日常から、カラフルな非日常へと変わる、神風のような気がした。




