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第2話:外界を遮断しろ

 翌朝。早朝バイトを終え、学校へ到着した私は、色を失った真っ黒なビー玉のような目で、教室のドアを見つめていた。


「(……入りたくない)」


 心からそう思った。ただでさえ憂鬱な場所なのに、今日の足取りは鉛のように重い。理由は明白だ。昨夜の光景が、脳裏に焼き付いて離れないからだ。


『…………あ?』


 あの鋭い眼光。圧倒的な威圧感。思い出して身震いする。あれは夢だったんじゃないかとも思ったけれど、スマホの履歴にはしっかりと昨日の配達完了通知が残っている。


 私は大きく深呼吸をして、覚悟を決めて教室のドアを開けた。


 ザワザワとした喧騒。いつもの極彩色の空間。私は逃げるように自分の席へ向かう途中、恐る恐る、窓際の一番後ろの席へと視線を走らせた。


 いた。


 本郷優紀。今日も今日とて、彼はそこに「空気」として存在していた。重たい前髪に、分厚い黒縁メガネ。猫背でスマホをいじり、イヤホンで外界を遮断している。その姿は、昨日タワーマンションの最上階で見た捕食者とは似ても似つかない、無害な草食動物そのものだ。


「(……別人、だよね?)」


 そう思いたくなるほどの完璧な擬態。けれど、私が席に着こうと通り過ぎた瞬間。彼がスッ、と顔を上げ、メガネの奥から私を一瞥した。


 ビクッ、と肩が跳ねる。一瞬だけ交差した視線。その瞳の奥には、昨日と同じ鋭い光が宿っていた。


『バラしたら許さない』


 言葉には出していないけれど、確かに再度そう告げられた気がした。私は逃げるように視線を逸らし、自分の机の横に鞄を置いて、机に突っ伏した。


 心臓が早鐘を打っている。怖い。けど、それ以上に……混乱している。私が推している神様みたいなアーティストが、まさかクラスで一番地味な彼だったなんて。これから私、どういう顔して学校生活を送ればいいの?


 ふと、教室の中央から高い笑い声が聞こえた。


「ねえねえ『&roit』の新曲聴いた?マジやばくない?」

「聴いた聴いた!歌詞超エモいよね〜。メンヘラ彼氏って感じで沼るわ〜」


 一軍女子たちの会話が耳に入ってくる。私の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。彼女たちが話しているのは、最近アップされたばかりの楽曲のことだ。普段なら私も心の中で(分かる……)と頷くところだけれど、今日は違う。


「てかさー、&roitの正体って絶対イケメンだよね」

「それな!現役高校生説とかあるけど、どーせどこかのモデルとかでしょ」

「正体隠してるのがまたズルいよね〜」


 キャハハ、と無邪気な笑い声。彼女たちは知らない。自分たちが「モデルだ」「イケメンだ」と騒いでいるその「神様」が、今まさに同じ教室の、一番端の席で背中を丸めていることを。そして、その神様が、彼女たちの騒がしい声をイヤホンで遮断し、冷ややかな目で見つめているかもしれないことを。


「(……知らないって、残酷だ)」


 真実を知っているのは、この教室で私だけ。その優越感よりも、とてつもない爆弾を抱え込んでしまった重圧で、胃がキリキリと痛んだ。


            ***


 その日の授業は、全く頭に入ってこなかった。先生の声が右から左へ抜けていく。ノートを取るふりをして、私はずっと昨日の彼と、今の彼を頭の中で行ったり来たりさせていた。


「小日向、ちょっと」


 放課後、帰ろうとした私を担任の声が引き留めた。今日は数少ないバイトの無い日なのに。どうせ進路調査票の未提出についてだろう。

「お前、まだ出せないのか?就職か進学かくらい、いい加減決めてくれないと困るんだよ」

「……すみません。親と相談してからで」

「母子家庭なんだろ?お母さん入院してるって聞いたけど、ちゃんと話せてるのか?金銭的に進学が無理なら無理で、早く言わないと奨学金の手続きとかも――」


 デリカシーのない言葉が、教室に響く。周りに残っていた生徒たちが、興味本位でチラチラとこちらを見ているのが分かった。針を刺されているような感覚。本当に嫌いだ。


「うわ、やっぱあの子ん家ヤバいんだ」

 というヒソヒソ声が聞こえる。


「……すみません、急ぎます」


 そういい、机の上に置いていた鞄を取ろうと振り返った。丁度、本郷くんは教室を出ていくところで、一瞬目が合った。無表情。あの分厚いレンズの奥で、彼が何を考えているのか全く読み取れない。ただ、私の惨めな状況を「聞かれていた」ということだけは確かだった。


 私は逃げるように教室を出た。泣きたいわけじゃないし、悔しいわけでもない。ただ、疲れた。どこか、誰もいない場所に行きたい。音がなくて、色がなくて、誰も私を知らない場所へ。


 一旦、図書室に来てみた。独特の、紙とインクの匂い。静寂に包まれたこの場所は、学校の中で数少ない、私が息を吸える場所だ。私は本を読むのが好きだ。その時だけ、現実という空間を見ずに済むから。物語の登場人物に感情移入し、ここではないどこかへトリップしている間だけは、借金のことも、入院費のことも、教室での孤立も忘れられる。


 今日は三人ほどしか利用客はいない。私は書架の奥、埃を被ったような古い文学全集の棚から、まだ読んだことのない小説を適当に手に取り、一番端の席に座った。


 ページをめくる。活字を目で追う。けれど――入ってこない。


『……遅い』


 文字の上を、あの低音ボイスが滑っていく。活字の黒インクが、昨日の彼の濡れた黒髪や、黒いバスローブに見えてくる。


「(……ダメだ)」


 本を閉じ、机に突っ伏す。いつもなら物語の世界が私を守る盾になってくれるのに、今日の私はあまりにも無防備だ。あの事件の衝撃が強すぎて、空想の世界に逃げ込むことすら許してくれない。ここにも、私の居場所はない。


 立ち上がり、小説をもとの場所に戻して、図書室を出た。足は自然と、最上階への階段に向かっていた。


 3階、4階……と階段を上るにつれ、人の気配が消えていく。壁の塗装は剥がれかけ、踊り場には古びたパイプ椅子が積み上げられている。屋上への扉。そこは「立入禁止」の札が下がっているけれど、一年ほど前から鍵が壊れているのを私は知っていた。それ以来、どうしても一人になりたい時だけの、私の秘密基地だった。


 あそこなら、空が見える。あそこなら、誰にも邪魔されない。


 重い鉄扉を両手で押し開ける。錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、視界が一気に開けた。夕暮れ時の生ぬるい風が、熱を持った頬を撫でる。茜色に染まった空が、視界いっぱいに広がった。


「……はぁ」


 大きく息を吐き出し、コンクリートの床に座り込もうとした、その時だった。


「……お前」


 風に乗って、聞き覚えのある低い声が聞こえた。心臓が止まるかと思った。恐る恐る顔を上げると、貯水タンクの影、一番見晴らしのいい場所に、先客がいた。


 本郷優紀だ。


 彼はフェンスに背を預け、片膝を立てて座っていた。今は誰も見ていないからか、あの分厚いメガネを外し、胸ポケットにしまっている。邪魔くさそうに前髪をかき上げ、露わになったその額には、うっすらと汗が滲んでいた。


 夕陽に照らされたその顔は、あまりにも綺麗で、そしてどこか寂しげだった。まるで、世界から切り離された一枚の絵画のようだ。


「(終わった……。よりによって、本郷くんがいるなんて)」


 私の秘密基地は、もう私だけのものではなかった。いや、そもそも彼はいつからここに?もしかして、彼もここを逃げ場所にしていたの?

 思考がショートする。回れ右をして逃げようとした私の足が、すくんで動かない。彼は私を見つめると、少しだけ眉を顰めた。怒られる、と思った。昨日の今日で、また彼のプライベートな空間に踏み込んでしまったのだから。


 けれど、彼は怒鳴ることもなく、ただ小さく手招きをした。


「……こっち来いよ」


「え、あ、はい……」


 蛇に睨まれた蛙のように、私はふらふらと彼に近づく。近づくにつれ、風に混じって微かに甘い香りがした。学校の安っぽい石鹸の匂いじゃない。なにかこう、深い森のような香り。彼の隣まで行くと、彼はポンポンと自分の横のスペースを叩いた。座れ、ということらしい。何を言われるんだろう。口封じ?脅迫?


 緊張でガチガチになりながら、彼から少し距離を取って座り込む。沈黙が痛い。何か言わなきゃ。謝ろうか。昨日のことを話してみる?それともさっきのことを話そうか。


「あの、昨日は……」


「静かに」


 私の言葉を遮り、彼は短く言った。そして、自分が着けていた有線イヤホンの片方を外し、無造作に私の方へ差し出してきた。


「……え?」


「……すごい顔、してたから」


 彼は私の方を見ずに、遠くの夕陽を見つめたまま、ボソリと呟いた。視線は合わせないけれど、その声には昨日のような刺すような冷たさはなかった。


「外界を遮断しろ。……これ聴いて、落ち着け」


 ぶっきらぼうだけど、拒絶の色はない。私は戸惑いながらも、差し出された白いイヤホンを受け取り、自分の左耳に入れた。まだ彼の体温が残っているイヤーピースが、くすぐったい。


 瞬間。夕暮れの屋上に、音が溢れ出した。


〔透明なフリして生きるのは もう終わりにするんだ

 君という光を浴びて 初めて知った 僕の色〕



「っ……!?」


 息を飲む。これは、知らない曲だ。サブスクにも、動画サイトにも上がっていない。今までと、少し違うテイストの楽曲だ。でも、声は間違いなく&roitのもので。


「まだ、発表してないデモ音源」


 私の驚きを察したのか、彼が小さく言った。


「……未完成だけど、今の空気には合うだろ」


 そう言って、彼は膝に置いた手でリズムを刻み始める。風の音も、遠くの電車の音も、さっきの担任の言葉も、すべてが消えていく。世界には今、この音楽と、私と、彼しかいないみたいだ。


 隣を見ると、彼はまた目を閉じていた。メガネのない素顔。長い睫毛。 

 ……やっぱり、神様みたいに綺麗だ。


 私は膝を抱え直し、イヤホンから流れる彼の声に、ゆっくりと身を委ねた。これが、私と彼――「&roit」との、秘密の共有の始まりだった。

作中の音楽は以下から聴くことができます。(収益化していません)

https://www.youtube.com/watch?v=9lbdqk76DIU

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