第1話:バラしたら許さない
私の青春は青くない。灰色……とも言えないぐらいに色はない。あえて言うなら無色。それが私の日常を表すのに最も適した色だろう。
「……はぁ」
窓を激しく叩く雨音のせいで、スマホのアラームが鳴る数分前に目が覚めてしまった。時刻は朝の5時。重たい瞼をこすりながら、昨日の夜にスーパーで半額シールが貼られたお弁当をレンジに放り込む。これが今日の朝ご飯だ。
放課後はフードデリバリーの配達で走り回り、帰りに見切り品の弁当を買って帰宅する。深夜までテスト勉強をして、泥のように眠り、またこうして早朝の品出しバイトへ向かう。息つく暇もないこのルーティンこそが、最近の私の世界の全てだった。
父が残した借金。母の入院費。十八歳の私が背負うにはあまりに重すぎる現実が、私の青春から色を消している。クラスメイトがタピオカだ、カラオケだ、TikTokだと騒いでいる放課後も、私は時給1177円の世界で必死に手足を動かしているのだ。
「……眠い」
あくびをかみころして、動きやすい服に着替える。制服は一旦カバンに仕舞って、冷たい雨の降る外へ出た。
私は傘をさしながらカバンから、コードが少し傷んだ有線イヤホンを取り出してスマホとつなげる。スマホの画面に表示されたのは、幾何学模様のロゴ。
〔&roit 〕
再生ボタンを押した瞬間、私の世界に色が付く。
〔君の視界が揺れる度 世界は静かに色を変える
僕は透明なガラスの破片 君という光がなきゃ 影さえ作れない………〕
脳髄を直接揺らすような、低く、甘く、そしてどこか狂気を孕んだ歌声。若者を中心に絶大な人気を誇る、正体不明の覆面シンガーソングライター。彼の作る、少しメンヘラ気味で情熱的なラブソングだけが、私の心をこの過酷な現実から引き剥がしてくれる。
「&roitだけが、私の神様……」
この神の声さえあれば、私は今日も、無色の教室で息を潜めていられる。
***
学校での私は、まさに空気だ。
教室のドアを開けると、そこには極彩色の世界が広がっている。
「ねえ見てこれ!昨日のスタバの新作、マジ映えなんだけど!」
「やばーい!てかさ、今度の週末ディズニー行かない?お揃いのカチューシャ買お!」
「行く行く!あ、その前にネイル変えたいんだよね~」
教室の中央を陣取る、通称一軍の女子たち。彼女たちの周りには、目に見えないキラキラしたフィルターがかかっているようだ。緩く巻かれた明るい茶髪、短く加工されたスカート、そして何より、悩みなんて一つもなさそうな屈託のない笑顔。彼女たちが話しているのは、私が一生縁のない「消費」と「娯楽」の話だ。スタバの一杯が、私の時給の半分以上だと知っているのだろうか。
私は息を潜め、彼女たちの視界に入らないように教室の縁を歩く。まるで幽霊か、壁のシミにでもなった気分だ。自分の席に辿り着き、鞄を置く。机の中には、前の授業で配られたプリントが乱雑に押し込まれたままになっていた。ふと、一軍女子の一人と目が合った気がした。けれど、彼女の視線は私を素通りし、私の後ろにいた男子へと向けられる。認識すらされていない。安堵と、少しの惨めさが胸に広がる。
「小日向さん、また寝てるよ」
「付き合い悪いよねー。いっつもバイトだし」
「服とかもさ、なんかヨレヨレじゃない?貧乏くさ」
休み時間、教室の自分の机で突っ伏している私の背中に、遠慮のない陰口が降ってくる。はいはい、普通じゃなくて悪かったですね。心の中で毒づくけど言い返す気力なんて1ミリもない。私はただ、嵐が過ぎ去るのを待つようにイヤホンの音量を上げた。
ふと、時計を見るために顔を上げると、視界の端に同類が映った。
教室の窓際、一番後ろの席。名前……はなんだっけ。確か、本郷 優紀。
目が隠れるほど伸びた重たい前髪に、分厚い黒縁メガネ。背中を丸め、スマホをいじりながら、彼もまた常にイヤホンをして自分の世界に閉じこもっている。身長は175センチくらいありそうだけど、あの猫背のせいでだいぶ小さく見える。
彼にはあだ名すらない。友達もいない。クラスの誰からも認識されていない、私以上の空気。まるで教室の備品か何かのように、彼はそこに「在る」だけだった。
「(……本郷くんも、私と同じなのかな)」
一度も話したことはないけれど、彼を見ていると少しだけ安心する。この教室で、色を失っているのは私だけじゃないと思えるからだ。でも、それだけ。私たちは互いに干渉せず、それぞれの「青春とやら」をやり過ごす。それが私たちの日常だった。……まぁ、そこには色は無いけど。
――そう、衝撃の夜までは。
***
「うっわ、ここ……!?」
見上げた首が痛くなるほどの高さ。その日の夜、私はフードデリバリーのバイト中だった。配達アプリが示した届け先は、この地域でも有数の高級タワーマンション。しかもその最上階だ。エントランスにはコンシェルジュが常駐し、セキュリティ対策も二重、三重と張り巡らされている。
まるでお城に迷い込んだねずみだ。住んでみたいとか、羨ましいとか、そういう感情は別に湧いてこない。ただ、この頭上の遥か彼方に住んでいる人たちは、私とはそもそも住む世界が違う人種なんだろうなと、他人事のように思うだけだった。
「緊張する……。粗相があったら即クレーム案件もんだよね……」
高速で上昇するエレベーターの中で、気圧の変化で耳がキーンと詰まる。到着したのは最上階のフロア。フロア全体が一つの住居になっている、正真正銘のペントハウスだ。私はゴクリと唾を飲み込み、震える指先でインターホンを押した。
『……はい』
スピーカー越しの応答は短く、すぐに通話が切れる。直後、重厚なドアの向こうから足音が近づいてきた。ガチャリ、という重たい解錠音と共に、目の前の扉がゆっくりと開く。
「お待たせいたしました!お届けにあがりました!」
私は条件反射で深々と頭を下げた。そして、精一杯の『営業用スマイル』を顔面に張り付けて、顔を上げ――。次の瞬間、私は言葉を失った。
そこには、この世のものとは思えない鮮烈な色があった。
風呂上がりなのだろうか。濡れた黒髪を無造作にかき上げ、素肌に黒のバスローブを羽織っただけの青年。滴る水滴が鎖骨を艶かしく伝い、引き締まった胸元の奥へと吸い込まれるように滑り落ちていく。
前髪が無いせいで露わになったその瞳は、切れ長で、射貫かれそうなほど鋭い眼光を放っている。左耳にはシルバーのピアスが4つ。ドアに添えられた左手の小指と中指には、重厚な黒のリングが光っていた。
圧倒的な、捕食者のごときオーラ。あまりの美しさと暴力的なまでの色気に、私は呼吸をするのも忘れて立ち尽くした。
彼は私の顔など見向きもせず、気だるげに手を差し出した。
「……遅い」
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。鼓膜を震わせ、脳の芯に直接響くような、低音のハスキーボイス。聞き間違えるはずがない。毎日、毎晩、耳がすり切れるほど聴いている、私の『救い』の正体。
「(え……。うそ……。この声……)」
私は呆然と、目の前の彼を凝視する。前髪を上げているせいで、印象はまるで違う。纏っている空気だって、教室の隅にいる彼とは月とスッポンだ。けれど、よく見れば見覚えのある顔立ち。綺麗な骨格。そして何よりこの唯一無二の声。
脳内のパズルが、カチリと音を立てて噛み合う。
「……ほん、ごう……くん……?」
思考よりも早く、無意識にその名前が唇からこぼれ落ちていた。
商品を受け取ろうとしていた彼の手が、ピタリと止まる。 気だるげだった瞳が、スッ、と私を射抜いた。
「…………あ?」
鋭い視線が私を捉える。喉元にナイフを突きつけられたかのような、逃げ場のない圧迫感。私は、見てはいけない神様の裏側を、見てしまったのかもしれない。
「……バラしたら許さない」
冷たく低い声で、彼はそういうと私から荷物を奪うように取り、扉を閉めた。
その瞬間、私の中で無色の日常が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる音がした。
作中の音楽は以下から聴くことができます。(収益化していません)
(https://www.youtube.com/watch?v=A1oI8zdiS0Q)




