2.思いがけない味方
彼の言葉が、右の耳から左の耳に抜けていく。ひと呼吸おいて、その意味を理解した。
「洞窟の入り口で鍛錬をしていたら、声がした。何事かと耳を澄ませているうちに、あの悲鳴が聞こえたんだ」
「あの、それではつまり、あなたはわたくしの愚痴を……」
さあっと、音を立てて血の気が引いていく。全身からぶわっと冷や汗が吹き出すのを感じながら、食い入るようにガイヴェルを見つめていた。
「すまない。聞くつもりはなかった。ただ、聞こえてしまったんだ。君はよく通る、いい声をしているから」
さすがにそこを褒められても、嬉しくはない。あたふたしていたら、彼はやや力を込めて言った。
「君が悩みを抱えていることは、あの数々の叫び声で理解した。ただ……できれば、もうあの穴には近づかないほうがいい」
「え……?」
「今日はたまたま、俺が近くにいた。それに君は、足を痛めただけで済んだ。だが、誰もいないときに打ち所が悪ければ、それこそ命にかかわる」
彼はわたくしの両肩に手を置いて、熱っぽく主張してくる。
「……頼む、約束してくれ。もうあの穴には近づかないと。そうでないと、気が気ではないんだ。君に何かあったらどうしよう、って」
ガイヴェルの目には、ただ純粋な心配の色だけがあった。その目を見ていたら、また涙が浮かんでしまう。それと同時に、隠していた本音も。
「でも……わたくしの心のよりどころは、もうあの穴だけで……」
まっすぐに彼を見つめ、涙を流しながら、呆然とつぶやく。
「もう、嫌です……全部、投げ出したい……」
うっかりそんなことを口にしてしまったら、もう止まらなかった。ガイヴェルがおろおろしている気配を感じながら、ひとりで声を殺して泣き続けた。
◇
「『ちょっと、友人のところに泊まります』ね……間違ってはいないけれど、家族はなんと思うかしら……」
次の日、見知らぬ屋敷で目を覚ましたわたくしは、誰にともなく言い訳をつぶやいていた。
ここはマリナス男爵家の屋敷、つまりガイヴェルの家だ。
林の中で泣き崩れたわたくしを、彼はすぐ近くにある自分の屋敷にいったん連れ帰ったのだ。そこで落ち着かせてから、ターレインの屋敷に送っていけばいいと、彼はそう考えたらしい。
しかしいろいろあって、わたくしはここに泊まってしまっていた。メイドに手伝ってもらって身支度を整えながら、昨日の怪我の具合を確認する。
右のすねには大きなあざができてしまっているし、すりむいた頬もまだちょっぴり赤いけれど、ゆっくり動けば問題なさそうだ。
そこに、ひとりの少年がやってきた。
「おはようございます、フィリーシア様。よく眠れましたか?」
「ええ、ありがとう。おかげさまで、ゆっくりできました」
十代前半の彼はガイヴェルの弟、ミレットだ。寡黙な雰囲気の兄とは対照的に、とても人懐っこい。
昨日彼は、涙目のままこの屋敷にやってきたわたくしを見て大いに驚き、ガイヴェルに「兄上、ご令嬢を泣かせてしまったんですか! きちんと、責任取ってくださいね!」と盛大な勘違いをして、そのままわたくしを客間に案内してしまったのだ。
ガイヴェルとふたりして大あわてで説明し、どうにかこうにか誤解は解いたものの、今度は「せっかくだからゆっくりしていってくださいね!」と言い出した。
さっきの『友人のところに泊まります』というのは、ミレットがわたくしの家に送った手紙の内容だったりもする。わたくしとガイヴェルがうろたえている間に、ミレットはさっさとそこまで手はずを整えてしまったのだ。行動力のある子だ。
「昨日はお騒がせして、申し訳ありません。どうぞ、好きなだけ滞在していってくださいね。……兄上が女性を連れてくるのって、初めてなので」
「あら、そうでしたの?」
「そうなんです。あのとおり、ちょっと近寄りがたい雰囲気なのに加えて、どうも女性に興味がないみたいで。僕も両親も、ずっと心配していたんですよ」
「ミレット、勝手に人のことを話すものではない」
軽やかに喋っているミレットの後ろから、仏頂面のガイヴェルがにゅっと顔を出した。
「あ、おはようございます、兄上」
しかしミレットは、少しも動じていない。ひまわりのような笑顔を、兄に向けている。
「そうだ、朝食ができたんでした。さあ、冷めてしまう前に行きましょう!」
はしゃいでいるミレットに連れられて、みんなで食堂に向かう。わたくしの歩き方が少しぎこちないことに気づいたらしいガイヴェルが、すっとこちらに歩み寄り、手を引いてくれた。
昨日の夕食もそうだったけれど、マリナス家の食卓は、温かくてにぎやかだった。のんびりとした空気、何気ないお喋り、そんなあれこれが、心のささくれを癒してくれるように感じられる。
食事を終えて、また客室に戻ってきた。ガイヴェルとふたりきりになって、ふとつぶやく。
「みなさん、仲がいいんですね」
わたくしの言葉に、彼ははにかんだような笑みを浮かべた。
「まあ、そうかもしれないな。うちは貴族といっても下位の男爵家だから、いたって気楽に過ごしている」
「……うらやましい」
ついこぼれでた本音に、ガイヴェルが目を丸くする。
「君の家は、もっと堅苦しいのか? 伯爵家ともなれば、それも仕方ないのだろうな」
当たり障りのない言葉を返そうとした。はい、とだけ答えようとした。
けれどわたくしの口は、まるで違う言葉を紡いでいた。
「それだけでは、ないんです……」
うちの両親もジョルジェットの両親も、お人よしというか……いろいろ、ずれている人たちだった。頭がお花畑だと言い換えてもいい。
まず四人とも、わたくしとジョルジェットが仲睦まじいのだと勘違いしている。しかも、ジョルジェットに振り回されるわたくしを見て「フィリーシアはいい妻になるね」と和んでいた。
だからわたくしは、ジョルジェットにまつわる問題の数々について、家族に話すことすらなかった。わたくしがどれほど苦労し、傷ついても、あの人たちの頭の中では微笑ましい美談に変わってしまうから。
今回の件だって、たぶんあの人たちなら「じゃあそのパティナというお嬢さんを、側室として迎え入れればいいじゃないの」などと言い出しかねない。
親たちの時代ならともかく、わたくしたちの世代の娘たちは側室になんて絶対になりたがらない。そこのところを説明しても、たぶん通じない。
けれど友人たちにだって、こんなことを話せはしなかった。だってわたくしの現状を知ったら、きっとみんな、好奇の目でわたくしを見てくるに違いない。そんな視線を向けられるなんて、想像しただけで耐えられなかった。
それなのにわたくしは、気づけばこれまでの事情を全て、ガイヴェルにぶちまけてしまっていた。彼は昨日出会ったばかりで、たまたま親切にしてくれただけの存在なのに。
はっと我に返り、向かいに座るガイヴェルを見ると、彼は痛ましげな表情でうなずいていた。そこにあるのは、ただ純粋な同情の色だけ。
「そうか……君は苦労していたんだな。叫びたくなる気持ちも、理解できる」
わたくしの状況を、思いを、彼は受け止めてくれた。たったそれだけのことで、胸がいっぱいになってしまう。
「しかし、かなりの難題のように思えるが。これから、どうするんだ?」
「ターレインの家に戻ります。そうして、いつものようにひとりで問題を解決する方法を探します」
実のところ、いい案なんて何も浮かんでいなかった。あの感じだと、たぶんパティナの側はジョルジェットの存在に気づいてすらいないだろう。
まずは、ふたりを会わせるところから始めなくてはならない。それも、パティナがジョルジェットに好感を持ってくれるよう、注意しながら。……ジョルジェットのあの本性を知られたら、普通の令嬢は逃げてしまいかねない。
……そうして、ふたりを仲良くさせて……そこから、どうしましょう……いえ、それはもっと後で考えましょう……。
考えれば考えるほど、気持ちが重たくなっていく。そっとため息を押し殺していたら、ガイヴェルがばっと立ち上がった。そうして、わたくしの手をつかんでくる。
「フィリーシア、無理をするな」
「無理、ですか……?」
「ああ。今の君は、魂が抜けたような顔をしている。昨日のことといい……君は明らかに、無理をしている」
わたくしの手をつかんでいる彼の手の力強さに、たじろがずにはいられなかった。
「俺でよければ、手を貸す。どれだけのことができるか分からないが、ひとりで思い悩むよりはましだろう」
「あの、でも……」
「昨日も言っただろう。君のことが心配なんだ。こうなったからには、放っておけない」
彼のひたむきな目を見ていたら、またしても思いもかけない言葉がこぼれ落ちていた。
「……もうしばらく、ここに置いてはもらえませんか」
その言葉に、彼が目を見張る。
「両親やジョルジェット様の近くにいたら、わたくしはまともではいられなくなってしまう。そんな、気がするのです」
「同感だ。どうも君の周りの環境は、あまりよくないように思える」
そしてガイヴェルは、すぐにうなずいてくれた。
「ならばここで、ともに対策を立てていこう」
「はい!」
もちろん、問題は何ひとつ解決していない。それでも驚くくらいに、心が軽かった。また目元に涙が浮いてくるのを感じたけれど、それは昨日のものとは違う、歓喜の涙だった。
◇
家に手紙を送って「友人のところにしばらく滞在します」と伝え、服などの必要なものを送ってもらうように手配した。
すぐに、承諾の手紙と、わたくしの服や下着や靴などが送られてきた。誰かのところに滞在するのは初めてだというのに、親は少しも気にしていないらしい。
それだけ、これまでのわたくしが品行方正に生きてきたということではあるけれど、どんな友人なのか、どこで知り合ったのかなど、何ひとつ聞かれないというのも寂しくはある。
滞在の準備も整ったところで、わたくしとガイヴェル、ふたりきりの会議が始まった。温かなお茶を飲みながら、もう一度状況を整理していく。
「結局、ふたりをどうやって会わせるか、そこが問題になりますね……」
「そうだな。第一印象は大切だというし」
難しい顔をしたガイヴェルの言葉に、ふと恥ずかしくなってしまう。
「……叫んで、穴に落ちて……わたくしの第一印象も、微妙なものでしたわね」
「あ、いや、そちらは気にしないでくれ」
わたくしが頬を押さえると、ガイヴェルがうろたえたように首を横に振った。それからかしこまった顔になり、重々しく言った。
「ともかく、ジョルジェット殿をパティナ嬢に会わせ、かつ彼女に好感を抱いてもらうしかない。……彼が君の言うとおりの人物なのだとしたら、かなりの無理難題だな」
深々とため息をついた彼が、ふと視線をそらしてぼそりとつぶやく。
「……個人的には、いっそ失敗してしまったほうがいいような気もする」
「どうしてでしょう?」
「ジョルジェット殿は、いくらなんでも君に甘えすぎだ。なまじ君が優秀で、彼の望みをかなえ続けたのが裏目に出たのだろうな。しかし彼ももう一人前の男だろう、もう少ししっかりすべきだ」
ガイヴェルの気遣うようなまなざしに、また胸が温かくなる。彼といると、とても安らげる。ジョルジェットとは大違いだ。
「ふふ……そうですね。そう言ってくれる方と知り合えて、本当によかった」
わたくしたちがこうしているのは、ジョルジェットの無理難題を解決するため。どうにも奇妙な縁ではあるけれど、ガイヴェルと一緒にいられるのは嬉しいと、そう感じている自分がいた。
◇
それからは毎日のように、ガイヴェルと顔を突き合わせて相談し続けた。話はぐるぐると同じところを回り続けていたけれど、根気よく考えているうちに、やがてひとつの案がまとまってきた。
「やはり、ふたりに文通をさせるのがよさそうですね。文面をきちんと確認して、余計なことを書かないよう見張る必要はありますが」
「他人の恋の橋渡し……というより、もはや軍師の計略のようだな。もっとも、俺もそれ以上の手を思いつかない」
「でしたら、ひとまずその手を試してみましょうか。でもわたくし、男女の情の機微には疎いので……できれば、あなたにも手伝っていただけると助かります」
「俺も、そういった事柄には縁がなくてな。だが、可能な限り協力しよう。……ただ」
笑顔で答えてくれたガイヴェルが、ふと真剣な顔になる。
「もしジョルジェット殿の望みがかなったとして、そこから君はどうするんだ?」
とっさに、言葉が出てこなかった。それは今まで、わざと考えないようにしていたことだったから。
「……分かりません。その先を決めるのは、わたくしではなくジョルジェット様や親たちですから」
だから、確かなことだけを答え、そのまま口をつぐんだ。
ジョルジェットとパティナが結ばれたとして、わたくしは彼の正妻として残るのか、あるいはわたくしの婚約は白紙になるのか。
もしそうなったら、わたくしはもっと別の場所に嫁がされるのか、それとも修道院に送られるのか。
……親たちのあの感じからすると、きっとわたくしは何らかの形でジョルジェット様のそばに置かれ続けることになるのだろう。
「……君は……いや、なんでもない」
彼もまた何かを言いかけたものの、そのまま黙ってしまった。どことなく気まずい沈黙のあと、彼はぽつりとつぶやいた。
「君ほどの立派な女性が、周囲の思惑に振り回されて不幸になるところだけは、見たくないな」
何も、答えられなかった。どう答えていいか、分からなかった。でも、彼がわたくしの身を案じてくれていることだけは、痛いほど伝わってきた。
◇
ひとまず、最初にやるべきことは決まった。行動に移る前に、少しだけ休憩にする。といっても、話す内容が面倒ごとから、世間話に変わっただけだけれど。
あれこれと話しながら、気になっていたことを口にしてみた。
「そういえば、このところ鍛錬をしていないようですけれど……いいのですか?」
彼がわたくしを見つけられたのは、たまたま彼があの洞窟の入り口で鍛錬をしていたからだった。けれどわたくしがここに滞在するようになってから、彼はずっとわたくしと一緒にいる。
「ああ。早朝の走り込みと、寝る前の素振りは続けている。大丈夫だ」
その言葉に、またちょっと首をかしげる。貴族の令息がここまで熱心に鍛錬を続けているのは、珍しいと思う。
わたくしのもの言いたげな視線に気づいたのか、彼はちょっぴり照れたような顔で続けた。
「……俺は、いずれ王都に行って騎士になるつもりなんだ。このマリナス家は、ミレットが継いでくれることになっている」
騎士。その言葉に、わたくしを抱きかかえてくれたときの、彼のがっしりとした力強い腕の感触を思い出してしまう。かっと熱くなる頬を、とっさに押さえた。
「俺は子どものころから体格にも恵まれていて、剣術も得意だった。そんなこともあって、自然と騎士に憧れるようになったんだ」
ガイヴェルはよく鍛え上げられた、均整の取れた体つきをしている。確かに、貴族というより騎士といったほうがふさわしい。
「指南役にも、もう王宮騎士の登用試験を受けられるとのお墨付きを得ている。だからそろそろ、王都に向かおうと思っていた」
この国において王宮騎士は、尊敬の対象だ。文武に優れていることのみならず、高潔な人格も要求される。ガイヴェルはその騎士の座まで、あと少しのところまで来ているらしい。
「ふふっ、ガイヴェル様は立派ですのね。尊敬します。でもそれなら、わざわざあんなところで鍛錬をしなくてもいいでしょうに」
笑顔で言ったら、彼はちょっぴり赤くなってしまった。
「いや、その……鍛錬をしているところを他人に見られるのが、どうにも気恥ずかしくてな」
「気恥ずかしい……ですか?」
「ああ。屋敷で鍛錬していても、兵士たちの視線が気になって……身のこなしや太刀筋などを称賛する声が、ちらちらと聞こえてくるから。いい加減、慣れなくてはと思っているんだが」
その言葉に、つい目を丸くしてしまう。みなが憧れる王宮騎士になろうとしている人が、兵士たちに褒められただけで照れてしまうほど純朴だなんて。
でも、そんなところがとても好ましい。彼の前でなら、素のままの自分でいられる。にこにこ笑いながら、ガイヴェルを見つめ続けていた。
◇
さらに数日の間、わたくしとガイヴェルは相談を続けていた。ジョルジェットからパティナに送らせる最初の一通、その文言を考えるのにてこずっていたのだ。
何枚も下書きをして、じっくりと検討して、これならぎりぎりなんとかなるだろうという文面を完成させた。……色恋沙汰に疎いわたくしたちには、かなりの難題だった。
あとはジョルジェットのところに向かって、この手紙を清書させるだけだ。ところがそのとき、ミレットがぱたぱたと駆け込んできた。
「兄上、フィリーシア様。少し、気になる情報を小耳にはさんだのですが」
「どうした、ミレット。そんなにあわてて」
「明日ツェン家の屋敷で、舞踏会が開かれるんだそうですよ。それも、主催者はジョルジェット様です」




