日和の影
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふむ……今日はまだ雪が降らないようだね。
いや~、数年前はすごかったよね。夜になっても雪の勢いが止む気配がなくてさ。このままドアを閉めてたんじゃ部屋に閉じ込められちゃう~て、雪が積もりきらないうちにドアを何度も開け閉めしていたっけ。雪よけしようってさ。
ひと昔前はこのあたりに雪が降るのはとっても珍しかったんだけどな。現在だと「今年は降るかなあ~」なんて、気をもむことしばしばだ。我々も年をとって変わっていくように、自然環境もじわじわと変わっているのかな……とか、ちょっとセンチになりすぎかな?
我々にとって降雪は目に見える大きな現象のひとつ。しかし、我々でないものからしてみたら、普段通りに思える景色も、とあるものにとっては異様あるいは絶好のケースっていうのがあるかもね。
僕がだいぶ前に体験したことなんだけど、聞いてみないかい?
視界の端を、何かが横切ったような感覚。君にはないかい?
飛蚊症や光視症、と見るのが科学的だろう。そのように見えるのは、眼そのものに原因があって、けれども判断する脳みそにとっては、あたかも外部で異変が起きたかのように受け取れてしまう。
専門の知識を持ったものでなくては、事実を誤って認識してしまう。それは無知ゆえの結果なのか、あるいは分かっていながらも脳の防衛本能が働いて、可能性を考えないようにしているのか……。
実際のところは分からない。でも、あのとき僕が見たのは、少なくとも病気とは信じがたいものだった。
久々の休日で、僕は久しぶりに布団の中でうだうだしていたんだ。
たいていが長くて4時間睡眠という生活だったためか、細切れ睡眠の気が出てきている。ぐっすり寝入って遅刻しちゃいけないと、身体におどしが入っているかのようでね。悪いと1時間もしないうちに目が覚めてしまう。
休みの前の夜更かしは楽しいものだが、それをぐっとこらえて寝だめをしようと、日付が変わる前から横になったのだけど……結局、夜が明けるまでに8回は目を覚ましてしまった。
もちろん、全然眠った気にならず。空が明るくなったあとも、ぼんやりと横になりながらガラス越しにベランダを眺めていたんだ。
夏が終わろうという時期で、まだまだ気温は高い。カーテンも薄い生地のもの一枚のみで、外は透けて見えていた。
その視界のど真ん中。ベランダの中央あたりをさっと横切るものがあったんだ。
高さはおよそ30センチほどだっただろうか。歩いたり、走ったりする様子を見せず、姿勢を保ったままシャーッと音が出るかと思うほどの、見事な滑りっぷり。
それだけなら、見間違いで済ませたかもだが、ほどなくしてバシンと強くものがぶつかる音がしてね。つい布団をひっぺがして、起き出してしまったんだ。
窓を開けて、出るベランダはいつもの通りに思えた。
しかし、横切っていった影の先。ここから見て奥にあるベランダのふちは、見た目こそ普段と変わらない。
けれども、かすかな香りが漂っていた。この住宅地にそぐわない、ミント特有の刺激臭がね。このあたりでミントが自生している場所も、育てている家の存在も僕は知らなかった。
なにより、近づいていけばその香りの源がベランダのふちであることは、すぐに分かる。間近までくれば鼻どころか、目にさえしみる。
――あの影の仕業だろうか? いったい、あれは?
探ろうにも、香りをのぞけば物理的な破片のひとつもこぼれていない。まるでぶつかるのと同時に霧散してしまったかのようだった。
その日を境に、あの奇妙な影は日をおいて見かけるようになったよ。
どうも、こちらの気配を察しているらしい。何度か朝早くからベランダで見張ったこともあったが、そのようなときには決まって姿を見せず。
空振りかと思って、室内へ引っ込んだ矢先にベランダへ滑り込んできたりする。はためにはコントのようなやり取りに思えるかもだが、やられる方としては、ちょいと頭に来たりするものさ。
ベランダのふちに、接着剤のたぐいのような仕掛けをしても同じ。やつらは姿を見せなかったんだ。ただ衝突を防ぐだけなら妙案だったろうけれど、僕の関心は例の不審なやつの正体を探るほうへ向いていた。
阻止するより、泳がせるほうが大切だったのさ。だから、あえてスキをさらし続けていたんだ。
そうして現場をおさえようとする私をあざ笑うように、影たちはたびたび訪れてはベランダのふちへぶつかり、消えていった。家族がそれに感づいていたかどうかは確かめていないが、少なくとも僕は話をしなかったよ。
それからしばらくたって。
またも影に通過を許し、僕はすぐベランダへ出た。布団の中ではなく、窓のすぐそばに張っていたし、影が空からベランダへ滑り込んでくることは、長い期間の観察で把握している。問題はガラス越しにいくら注意をしていても、彼らはこちらの虚をつくタイミングで飛来し、反応が鈍ってしまうことなのだけどね……。
だが、このときははじめて、影の衝突の瞬間を見ることができた。ベランダに出るとともに影はふちへ接触し……一瞬、ふくらんで弾けるようにして、消える。
僕の想像していた通り、影たちは霧散していたわけだ。確証が得られたことに違いないし、あとはミントの香りとからめて、なにか手掛かりが……。
そう思いかけて、気づいた。
いま鼻をつくのは、これまで何度もかいできたミントのものじゃない。
バニラエッセンス。それもこれまで味わってきたものの中でも上位に入る甘ったるさだ。嗅覚だけでお腹が膨らみそうな錯覚さえ覚えるとは……。
戸惑っているうちに、事態は進む。僕の目の前でベランダの手すりを越えて入り込んできたものがあったんだ。
家の壁の影から伸びるそれは、腕二本分もある、ぶっといホースのように思えたが、その口には無数の歯が並んでいてね。それが影のさんざんぶつかっていたベランダのふちへかぶりつき、噛みちぎっていったのさ。
音がし、ほどなく親も駆けつけたけれど、そのときにはもうホースのごとき姿のそれは壁の向こうへ消え、どこを探しても見つからなかった。それでもベランダの傷は確かにできていたんだよ。
ひょっとしたら、あの影たちはホースのような身体を持ったあいつの手による「調理」のごときものだったのかもしれない。
そうなると影たちを見かけるときは、あいつにとっての調理日和だったのだろう。




