44 見たことない姿
部屋には、カイの父親がいた。
カイの父親は机の前で背中を猫のように丸めて、何かを必死にメモしている。季節は冬だろうか。よく着ていた赤いちゃんちゃんこを羽織り、時折、擦り合わせた手に息を吹きかけている。
「親父......」
思わず声が漏れるが、反応はない。カイの心臓の音だけが部屋に響き渡る。
――これは、親父の記憶なのか......。
窓から外を見ると、月が見える。周囲の家の明かりは消えており、夜が深いことを窺わせる。
「おい、レオン、どうなってる!?」
カイは叫ぶようにレオンに呼びかける。
(そんな騒ぐな。さっきも言ったが、これは記憶なんだ)
「記憶って、影の子のだろう? 親父の影の子がいたってことか?」
(そうなるな。理由はわからん)
カイは拳を強く握り、肩を震わせる。
「おい、そんな簡単に言うな。影の子になっているってことは親父は死んでるのか?」
(そうじゃない。さっきの子どもと父親の記憶を見ただろ? 影の子は負の感情が作るだけで、死んでるとは限らない。それに、お前にとって、これはチャンスだろう? 親父を探しているんだったら、この記憶に何かヒントが隠されてるかもしれないぞ)
レオンの言葉に、手の力が緩まる。
――たしかに、レオンの言うとおりだ。この親父の記憶はいつのものかはわからない。ただ、少なくとも、親父が裏の世界に行く前の記憶であることは間違いない。たしかに、裏の世界に行くことになった理由とかヒントがあるかもしれない。
カイは深く深呼吸をする。
思えば、カイは父親と物理的にも心理的に近づいたことはなかった。そんなカイが、今父親に向けて足を進めようとしている。
その一歩がまるで足に重りをつけたかのように重く感じる。
動かせという脳の指令が、なかなか体に追いつかない。
カイはもう一度深く深呼吸をする。
そして、カイは父親に向けて一歩を踏み出した。
足が一度動きだすと、あとは勝手に動いていく。意思とは関係ない。
ゆっくり近づく。心臓の高鳴りが止まらない。ただ、ワクワクしているわけでも、ドキドキしているわけでもない。
単に不安が心臓を駆け巡る。
カイは父親の横まで来て、父親の顔を覗く。
酷い隈だ。毎日こんなことをして、寝られていなかったのだろうか。カイは同じ家で生活をしているにもかかわらず、全く気が付いていない。
顔に生気もなく、何かに思い詰めている表情をしている。全く気が付いていなかった。カイの父親に対する怒りや呆れが目を曇らせていた。
「親父......、何かヒントをくれ......」
カイの声が半紙のように揺れる。
そして、父親が必死にメモしているノートに目を向けた。
そこには、走り書きのような単語だけが並ぶ。単なるメモのようだ。文章になっていない。
カイは、乱雑に書かれた文字を必死に解読する。
薫
裏の世界
円環の理からの解放
戻ったら、どうなる?
危険
円環の番人
変えるべき運命を探せ!
――薫は母さんの名前だ。裏の世界......。やっぱりあの世界に親父は関わっている。裏の世界に来たのは間違いではなかった。
――ただ、円環? 番人......? 何を意味するのかさっぱりわからない。もう少しちゃんとした文書で書けよ、ばか親父。
父親の左手がノートからわずかにずれる。
そこには、図のような物が書かれていた。
2本の線が引かれ、そこには数字が書かれている。
336
2008
340
2003
カイはこれが何を意味するのか、頭を巡らせる。ただ、カイは今あまり冷静に物事を考えられていない。頭の中で言葉がぐるぐると廻るだけだった。
――この数字もなんだ? もう少し何かないのか!?
カイが必死に何かを探しているのをよそに、父親は、突然ペンを机に置き、額を落とすように机に突っ伏した。
そして、カイは、父親の背中が震えているのに気づいた。
――泣いているのか? 肩が震えている。こんな親父の姿......、見たことなかった......。
しばらくすると、父親は上体を起こし、呆然と部屋を見回す。
机。
本棚。
開けっぱなしの引き出し。
そして、父親の視線が、カイの方に向いた。
見えているはずがないのに。
それなのに、まっすぐカイの目を捉えているように見える。その目は、カイの後ろにある部屋の扉を見ているのかしれなかったが、ひどく悲哀に満ちている。
カイは口を閉じ、思わず息を潜める。呼吸すら忘れたかのように。
部屋が無音になる。
そして、父親の唇が、かすかに動いた。
「ごめん」
口元だけの動きで、音はない。
ただ、カイにはそう言っているとはっきりと伝わった。
――なんだよ、ごめんって......。
次の瞬間。
床下から黒い水が一気に溢れ出し、部屋の輪郭を飲み込む。
机も、本棚も、照明も、すべてが沈む。
カイの足首が冷たい何かに掴まれた。
そして、黒い水に一瞬にして引きずり込まれる。
「親父……生きてるなら……俺は……」
水の中は不思議と光に包まれている。
目が白く濁り、よく見えない。
息もできない。
カイは目をこすると、水の底で、父親の影が見える。
そして、父親は首を横に振る。お前が、来るのはこっちではないかと言うように。
――親父......。
突如、光が反転する。
水の中から、白い靄が吹き上がる。
遠くで、誰かが叫んでいる。
「カイ!!」
――この声は......、アイラの声か?
そして、カイの意識が、現実へ引き戻されていく。




