42 白鯨
黒の湖。
水面が光を吸い込むように黒く、近づくほど音が消える場所。
カイの目の前には、見渡す限り、真っ黒な水が広がっていた。水面の光の反射がないせいか、ここだけ辺りが異様に暗く、水面のせせらぎなどは一切なく、すべてが静かだった。
この場所は、火山の火口があったところに水が溜まった、いわゆるカルデラ湖ではなく、もともと川があった場所に、溶岩流で川がせき止められてできた湖とのことである。
たしかに、よく見ると、今は完全に止まっているが、かつて水が流れていたのか、谷のような場所がこの湖まで続いていた。
「まさか、ここを渡るのか?」
カイはまるでバンジージャンプを飛ぶ前かのような顔をしている。カイの両腕には鳥肌が立ち、この場所は不安などの負の感情が満ち溢れているように感じていた。
「ええ、迂回していたら、大分時間がかかるので。たしかに、渡りの船がここらへんに......」
リナは周りを見渡していた。
「あったよ!」
アイラが声を上げる。いつの間にか、アイラは湖に近づいていた。
カイたちはアイラの声がした方に行くと、岩場に隠れて、木でできた船が水面に浮かんでいた。ちょうどギリギリ6人が乗れるぐらいの小型のボートのような形をしている。この船はどうやら手漕ぎのようだ。2つのオールが船の両端に積まれている。
――まさか、これで渡るのか......。
カイの心配をよそに、皆、何も言わずに、順に船に乗って行った。カイも仕方なく、重くなった足を動かして、一番最後に船に踏み入れた。6人も乗っているため、船は先ほどよりも少し沈んだが、ちゃんと浮いている。
「カイさん、先頭をお願いできますか?」
リナが一番後ろにいるカイに話しかける。
「えっ? なんで?」
「この湖って、影の子がいるんですよ。カイさんには、それをきちんと見てもらわないと」
カイは否応なく、船の船首の方に座った。オールはアイラとタツが持ち、えいや、そいやという謎の掛け声を上げながら、船が進みだす。
真っ黒の湖の中を一隻の船が進む。オールで水を漕ぐ音だけが聞こえる。ただ、その音も湖に沈むかごとく、反響することはない。
進む先は少し靄がかかっており、遠くまでは見えない。向かうべき方向は、太陽の位置から判断をする。
あのタツでさえ無駄口を叩かない。この場所はそういった雰囲気の場所だった。
ふとカイは船から顔を出し、湖を見る。
音さえ沈み込みほどの黒さ。
ただ、黒一色。まるで重力も吸い込まれるほどの......。
湖には、自分の顔が写る......はずだが、
カイではない。
映っているは、赤ちゃんの顔。
――俺......じゃない! 誰だ、これは!
目が離せない。じっとこちらを見る目。
その顔は笑っているのでも、不機嫌そうにでもしているのではなく、ただ、無の表情を浮かべている。大きな瞳がまっすぐとこちらをとらえるその表情は、可愛さより不気味さを感じる。
「カイさん、あまり見ちゃだめですよ」
リナの声でふと我に返り、顔をあげて、水面から目線を外す。
「今、赤ちゃんがいたんだ! 水の中に!」
カイの声は少し震え、うわずっている。
「赤ちゃん? よくわかりませんが、この湖って過去の自分を映すんですよ。あんまり見過ぎると、囚われて、気が付いたら湖の底に沈みますので、気を付けてくださいね」
――過去の自分? それじゃあ、あの赤ちゃんは俺だというのか?
カイの混乱をよそに、突然、冷たい空気が横切る。
その空気を感じて、皆の顔が一瞬で強張る。そして、武器を一斉に構える。
――影の子か!?
カイは周りを見渡すと、3時の方向に影の子がいる。影の子は水面に浮かぶように普通に歩いている。大人の男性か。ゆっくりこちらに近づいてきているのか、まっすぐにこちらを見据え、距離が少しずつ進んでいる。
「3時! 50メートル!」
カイは影の子を確認すると、事前に決めていた合図を出す。影の子のいる方向とおおよその距離を即座に伝える。すると、船は進行方向を少しずらし、影の子から距離を取る動く。
「10時! 20メートル!」
「11時! 40メートル!」
何度かこれを繰り返し、影の子をうまく避けて、着実に前に進んでいく。
――うまくいっている。アイラとタツのオール捌きも見事なものだ。言われた方向からきちんと離れるように素早く進んでいく。このまま行けば少し遠回りだが、なんとか渡り切れそうだ。
カイが胸をなでおろした瞬間、冷気が通り抜ける。それも今まで感じたことがないほど強く。
カイはまた影の子が現れたことを察知して、周りを見る。
そして、異常事態に気が付く。
「えっ?」
カイは突然言葉を失う。
「カイ! 早く指示を!」
通り抜ける冷気で、影の子が近くにいるのはタツにもわかっている。だが、タツにはどこにいるかまではわからない。
タツの呼びかけに、カイはしばらく口を動かすことができなかったが、なんとか言葉を発する。
「タツ、違うんだ......。囲まれている......」
カイの言葉を聞いて、アイラとタツはすぐにオールを水中で止める。船は黒の湖の真ん中あたりで停止をする。
「カイ、どうなってやがる? 周りにどれぐらい影の子がいるんだ?」
「沢山だ......。数え切れないぐらい......。船が通る隙間もない......」
影の子はゆっくりとした足取りではあるが、着実にカイたちの方に距離を縮めてきている。水面を歩く影の子が、方位感覚を奪うように、円を描いていた。
船の進行方向だけが、意図的に塞がれている。
――おい! レオン!! どうなっている!? 影の子は襲ってこないんじゃなかったのか?
カイが頭の中でレオンに話しかけると、レオンもカイの頭の中で返事をする。
(そうだ! 普通ならそうなるはずだ! ただ、ここにいる影の子は俺の傘下を外れている。むしろ、誰かに操られているように見える)
ゴポッ。
突然、船の前方の水面から気泡が現れる。
最初は小さく、徐々にその気泡は大きく。
そして、水面が揺らぐほどの気泡が出た後、水面から、それは顔を現した。
――白い......。まさか、あれが……。
「あれが狭間の魔物です!」
見た目は鯨のようだった。白鯨とでもいうのだろうか。ただ、顔の先端には白い大きな角があり、顔中、赤い触手が血管のように張り巡らされている。カイの知っている鯨とは違い、禍々しいオーラに包まれていた。
ブオッッッッッッー!
鯨は泣き叫ぶような声を上げる。カイはその大きさに思わず耳をふさぐ。
そして、潮を吹くかのように、頭頂部にある人がそのまま通り抜けられるほどの大きな鼻から白い靄が一気に噴出する。
その靄が一瞬であたりを包み込み、隣にいるはずのリナさえ見えなくなった。
「おい! 大丈夫か!?」
カイの言葉に誰も返事がない。後ろを見ても、靄に包まれて、誰も見えない。
突然、カイの手足から力が抜ける。体が思うように動かない。
――毒か?
咄嗟に口を手で押さえようとするが、もう手はぶらりと力が抜けている。
そして、気が付くと、カイは倒れ込み、意識を完全に失った。




